第九話 きっかけ
心なしか自身と距離を開けて歩く橘に、沖田はなんと声をかけてよいやらわからずショボショボと着いていく。先ほどの芹沢の爆弾発言で、沖田と橘は物理的な距離だけではなく心の距離まで離れてしまったようだ。
怒っているのだろうか。ちらちらと橘の様子を伺うも、数歩先を行く橘の顔はこちらからは見えない。
たとえ土方の機嫌を損ねても何一つ気にしない沖田ではあったが、橘相手ではそうもいかない。沖田は幼少期から年上に囲まれて育ったので、年下相手のご機嫌取りなぞ経験すらなかった。
一方の橘は、自身の背後で何やらきょどきょどオロオロしている気配に気が付いていた。初対面の時沖田はまるで子分ができたかのようにはしゃいでいたくせに、対年若相手との処世術はまるで身に着けてこなかったようである。試衛館面々の沖田への態度を見るに、それなりに年上に甘やかされて育ったのだろう。弟や妹などいるわけもなく、おそらく彼は末の子だ、と橘は推測した。
とはいえこれ以上沖田を困らせるのも不憫に思い、橘は一つ溜息をついた。
(話題の一つでも振ってやるか)
「沖田さん」
「はい!」
沖田は驚いたような反応をすると、主人に呼びつけられた番犬のように、橘のもとへすぐに駆け寄った。
「・・・武蔵・・・」
そんな沖田の様子を見て橘は思わずつぶやいたが、沖田が「ムサシ?」と不思議そうにしていたのでごまかすように咳払いをする。
「皆さんは上洛の際中山道を経由されたんですよね」
「ええ、そうですね。飛鳥さんも中山道ですよね?」
「いえ、僕は東海道で参りました」
それを聞いて沖田は「えっ」と驚いた。
この時代、江戸から京へ向かう街道は大きく分けて二つ。相模国や駿河国、三河国など海側を通り山城国へ入る東海道、そして武蔵国・信濃国や近江国など山側を迂回する形で同じく山城国へ入る中山道があった。
京へは東海道が最短の街道となるが、厳しい検閲で知られる箱根の関所や大井川の渡し・三河湾の宮の渡しなど船を使わなければ進めない地点がいくつか存在し、天候の影響を受けやすいのが難点であった。浪士組はいわばほとんどが浮浪集団であったから、箱根をはじめとする厳しい関所の検閲を避ける形で中山道を選択したのであろう。
一方東海道で何の障害も無く無事に京までたどり着くのは、そう簡単なことではない。
驚いている沖田に無理もない、という表情で橘は続ける。
「幸い代々橘家が大目付でしたので、幕府に顔が広いのです。幼少のころより懇意にしていた幕府の要人に、家には内密で通行手形を発行してもらいました。浪士組参加となれば幕府の後ろ盾がありましたので、関所も問題なく。結局出立の直前に、父に浪士組へ参加することが知られて勘当されてしまいましたが」
淡々と抑揚なく説明する橘を沖田はまじまじと見つめる。旗本の家に生まれるとは、こうも融通が利くものであるのかと思った。簡単に言っているが、将軍にお目見えができる旗本の次男坊である。易々と自由にできる立場でもないはずだ。実際は江戸を出るまで相当の苦労があったのだろう。
「家のことなら心配いりませんよ。お咎めはないはずです」
沖田の思考を見透かすように橘は言う。
お家騒動ともなれば通常であれば何かしらのお咎めが幕府よりあるはずだが、
うまく橘が立ち回ったのだろうか。それ以上沖田は何も聞かなかった。
「それより、僕が知りたいのは以前山南殿が仰っていた“本庄宿での出来事”とは一体何なのか、です」
近藤一派が芹沢を局長に据えたくない理由、そして松平容保公が芹沢を警戒する背後に一体どのような経緯があるのか、橘は詳細を知らなかった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
時は遡り二月九日、上洛する浪士組が深谷宿を過ぎ、出立から二度目の宿である本庄宿で事は起きた。
宿割りとして取締付の手伝いを命ぜられた近藤は、あろうことか芹沢の宿を手違いで取り忘れてしまった。近藤の誠心誠意の謝罪に耳も傾けず、機嫌を損ねた芹沢はなんと人々の往来がある宿場町のど真ん中でかがり火を焚いたのだった。
二月の寒空の下皆でかがり火に集まって火に当たろう、なんてものではなく、轟々と燃える大きなかがり火はあちこちに火の粉をちらし、いつ他の家屋に燃え移ってもおかしくないものだった。宿場街はたちまち騒ぎになり、浪士組は人々から怒りの目を向けられていた。
「そこ、火の粉が当たって熱くないですか?」
焚火の近くで酒を飲んでいた芹沢は、緊張感も警戒心もない声に振り返る。そこには襟巻をして鼻を赤くした若者がニコニコして立っていた。
「何の用だ」
この若者に芹沢は見覚えがあった。名前はなんだったか、と思い出す前に若者が口を開いた。
「冷えてきたので、私も焚火に当たろうかと思ったのですが」
「遠慮はいらん。寒いなら当たればよい。」
芹沢はそう言って自身の横に置いてある酒を乱暴にどかし、丁度人ひとり入れるくらいの空間を作った。
若者はそれを見て目をぱちくりさせると、吹き出すように笑った。
「何がおかしい」
「だって、貴方の宿を取り忘れた張本人の門下生ですよ、私。」
少し離れたところで様子を伺っていた芹沢の取り巻き連中がざわついている。
「見覚えがあると思ったら、近藤のところの坊主か。情けない師範の代わりに詫びしに来たのかね」
吐き捨てるように芹沢が言う。
「まさか。今晩は冷えるので火に当たりにきただけです。」
楽しそうに答えた若者に、今度は芹沢が目をぱちくりさせる。師範を侮辱されたというのに怒りもしないこの若者が何を考えているのか、芹沢にはわからなかった。
「坊主、何がそんなに楽しいんだ」
芹沢が思わず聞くと、若者は芹沢を見て微笑んだ。
「昔、一度だけ近藤さんや皆と川辺で焚火をしたことがあるんです。川で釣ったヤマメに、持ってきた塩やら味噌やらを塗り込んで、木の枝に刺して焚火であぶって。」
思い出したかのように若者は舌なめずりをした。
「その味がとんでもなく美味しくって。こんなに大げさな焚火ではないですが、見ていたらつい思い出してしまって」
(阿呆だな)
芹沢はこの若者に敵意は無く、警戒するだけ無意味と判断した。それと同時に、たまにはそんな阿呆とつるむのも悪くないと、ふと思った。
「坊主、年はいくつだ」
「十九です」
「じゃあ酒はもう呑めるな。どうだ坊主、今晩付き合わんか」
「いえ、先ほどの話をしたら腹が減ったので、宿に戻って飯を食います。では。」
芹沢や取り巻きが呆気に取られているうちに、若者はトテトテと来た道を戻っていった。
思わず取り巻きの一人がおい、と声をかけたと同時に、若者が何か思い出したように振り返る。
「”坊主”じゃなくて、沖田です。沖田総司。」
お休みなさいと、ぺこりと頭を軽くさげて、今度こそ沖田は自分の宿に戻っていった。
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「―ということがありまして、」
一息おいて、沖田は湯呑に熱々と注がれた茶をすすった。
「それからというもの、なぜか何かにつけて芹沢さんが私に絡んでくるようになったんです。」
なぜそうなってしまったのかわからない、とでも言いたげな沖田を、橘は哀れみやら呆れやら色々な感情が混じった目で見つめた。
「土方さんあたりに、余計なことをしてくれるなとか怒られたんじゃないですか」
溜息交じりに橘が聞くと、沖田は驚いたようだった。
「すごい、なぜわかったんですか」
「僕も同じことを思ったからです」
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