第9話 7

結局、明久里が残した弁当の殆どは紅浦が平らげてくれた。

 残して夕食の足しになるより、紅浦が食べてくれた方が嬉しかった。

 5時間目が始まっても、明久里は眠ったままだ。

 休み時間になっても、先生が呼びかけても起きる気配は無く、もはや諦めていた。


 しかし放課後、厳密には6時間目の授業終わりのチャイムを目覚まし代わりに、明久里は腕を伸ばし、大きな欠伸をしながら伸びをして目覚めた。

 

「ふぁ〜」


 っと寝起きの人間特有の気の抜けた声がチャイムと重なり合い、不協和音に近いハーモニーを奏でた。

 そこに、クラスの注目が集まったのは言うまでもない。


 しかしながら、人に見られることは平気なのか、明久里の様子は変わらなかった。

 明久里の心拍が上がるのは、もっと能動的な行為や現象が起きた時なのか。


「おい明久里、今日はもう帰るか? 俺は部活行くけど」


 ホームルームも終わり、皆はそれぞれ家や部活動に向かった。

 今日は俺も家庭科部の活動があり、富山君が俺の席の前で待ってくれている。

 俺は明久里の横に立ち、未だ微睡む彼女を見下ろした。


「いえ、放課後山本先生に部活動の事で相談があるので残ります」


 握りしめた手で右目を擦りながら、明久里は教卓に手をついて立っている山本先生に視線を向けた。

 俺も一瞬、山本先生と目が合う。

 どうやら、明久里を待っているらしい。

 

「わかった。時間があれば覗きに来ていいぞ。多分部長が喜ぶ」


「はい。クッキーは後で貰います」


「お前の目的はそれだけか」


 まあいい。俺は厄介事に巻き込まれるであろう山本先生に心の中で祈りを捧げ、待ってくれていた富山君と共に教室を出た。


「碧山さんは結局何するか決まったの?」


 廊下を歩きながら、富山君が聞いた。


「ああ、部長になりたいから自分で部活を作るらしい。それで俺も強制的に入部させられる」


 言っていて気が重くなる。

 正直、明久里には家庭科部で部長に構ってもらうか、別の部活で放課後くらい離れて居たかった。

 だが俺の知らないところで爆弾が作動してしまうと、罪悪感で生きていけなくなるだろうというジレンマを抱えていた。


「無理やりって、断ればいいんじゃないの?」


 富山君は口を半開きにし、顔にはてなマークを浮かべている。


「俺は多分、『死んでください』みたいな頼み以外、あいつの願いは断れないんだよ」


「⋯⋯なにかとんでもない秘密でも握られてるの?」


「秘密握られてるくらいならいいけど、命握られてるからなぁ」


「ほんとに何があったんだよ⋯⋯」


 俺がこの家庭、この国で生まれず、もっと劣悪な環境で育っていたとしたら、きっと明久里みたいな爆弾娘は無視するか、面倒に巻き込まれないように、それこそ彼女を犠牲にする道を選んでいたかもしれない。


 だがそんな一生罪悪感に苛まれるような恐ろしいこと出来るわけない。

 出来るわけないのは、俺が生まれてからずっと平和を享受してきたからだろう。


 俺は明久里に楽しい人生を歩んで欲しい。

 それはただ父から託されたから、ではなく、今の俺自身の想いだ。


 明久里が来てまだ数日、正直顔以外明久里のいい所はほとんど見つからない。


 明久里の現在の評価は、限りなくマイナスに近いゼロだ。

 爆弾が取り払われても、そこまで評価は上がらないだろう。


 それなのに俺は、不思議と明久里のことを想ってしまう。


 人の感情の中に渦巻く機微とは、なんと厄介なものだろうか。


 家庭科室に着くと、もう鍵は相手いて、中にはピンクの記事に黄色い花柄のエプロンと黄色い三角巾という、何とも子供っぽい見た目の黒崎部長が、冷蔵庫から材料を取り出していた。


「あ、待ってたよ業平くん、富山君。今日は生地を寝かせる時間も必要だし、後で部活してる皆に配りたいから急いで作っちゃお」


「いや、だから部長が早すぎるんですって」


 いつもの席に鞄を置き、中から黒いエプロンと三角巾を取り出す。

 お菓子作りにエプロンは必須だ。

 ナマ生地が制服に付着したりしたら、それはもう大変だ。


 エプロンを付け、安藤さんと片岡さんを待つことなく、クッキー作りを開始した。


 それぞれ部長と俺と富山君がひとつずつボウルに材料を入れ、混ぜ合わせる。

 今回作るのは、至ってシンプルなクッキーだ。

 ただ砂糖と薄力粉とバターと卵黄を混ぜて作った生地を型取り、焼くだけのプレーンタイプだ。

 ひとつ特徴があるとすると、普通の分量より卵黄が多いことだろうか。

 軽く温めて溶かしたバターと砂糖と卵黄をかき混ぜていると、それがよく分かる。


 軽く作業を始めていると、安藤さんと片岡さんもやって来て、合計5人が生地作りを開始した。


「部長、今日はどのくらい作るんですか」


 薄力粉を網目が細かいザルでふるいながら、部長に尋ねた。


「卵が全部なくなるのが理想だけど、焼ける分にも限界があるからねー。とりあえずざっくり様子を見ながら作っていこっか」


「わかりました」


「ところで業平君、碧山さんは今日はどうしたの? もしかしてもう他の部活に決めちゃった?」


 作業の手を止め、俺の手元を覗きながら部長が言う。

 その声に僅かな寂しさが混ざっているのは、俺の勘違いでは無い。


「はあ、明久里なら自分で部活創るって張り切ってます。俺もそっちと掛け持ちすることになりそうで」


「それほんとっ!?」


「っ!?」


 部長の右手が、俺の肩を引っかけるように掴んだ。

 突然のことに身体が震え、ふるった薄力粉が台に落ちてしまう。


「ちょっと部長⋯⋯? いきなり掴まれたら危ないですよ」


「それ本当? どんな部活?」


 部長は俺の声なんて聞こえてないのか、物凄い剣幕で顔を近づけてくる。

 顔の距離と比例するかのように、肩を掴む力が強まり、骨が軋んだ。


 部長は目をまん丸に見開き、鼻の穴も丸く広げ、いかにも高揚してますと言いたげに荒々しい鼻息を漏らしている。


「怖いです。どんな部かはまだ知りませんよ。ただ明久里は週5でやる部活だって言ってて、もしかしたらこっちに来れる回数が減るかもしれません」


「それはいいの。問題は碧山さんが来てくれないことなの」


「⋯⋯泣いていいすか」


 俺になんて興味が無いと言いたげに放った言葉が、俺の心臓を貫く。

 あれ、別にドライアイでもないのに涙が零れるのはどうしてか。その涙がふるった薄力粉に混ざったのは気のせいだろうか。


「ああごめんごめん。違うの、業平君も大切な部員の独りだよ」


 俺の肩を握り潰そうとしていた手で、部長は取り繕うように慌てて俺の頭を撫でた。

 高校生がひとつ上の女性に頭を撫でられるなんて、恥辱でしかない。


「ただ、碧山さんあの様子だときっと入ってくれると思っていたから」


「⋯⋯あいつは特殊なんで、気にしない方がいいです」


「んー、まあちょっと変わった子だとは思うけど」


 ニコニコと笑いながら、部長は俺の頭から手を下ろし、皆の作業を確認しに行った。


「薄力粉混ぜ合わせたら30分は寝かせなきゃだから手早くね」


 ダマを無くし、さらさらになった薄力粉の分量を計りで計測する。

 お菓子作りはなんといっても分量が命だ。

 多少手際が悪くても分量さえ間違えなければそれなりの水準の物が出来上がるし、逆に手際は良くても、分量を間違えるとデキが悪くなる。 


 黄身の成分が濃いボウルの中身に、きっちり計った薄力粉を入れて、ゴムベラで混ぜ合わせる。

 ここで手間取ってしまうと、せっかく細かくサラサラにしたのに、また塊ができる可能性がある。 

 サッと混ぜ合わせた生地を寝かせるため、台の上に大きめにラップを敷き、その上に塊になった生地を乗せ、包み込む。

 丸く球体に包んだ生地を寝かせるため冷蔵庫に入れると、既に部長がひとつ入れ終えていた。


 俺たちの作業を確認したりして、手を止めている時間もあったのに、何故そんなに早いのか不思議だ。


「そういえば部長、これ作ったらどこに持っていくんですか」


 既に卵を割って、洗練された手つきで黄身と白身を分ける部長に聞いた。


 部長は既に測っていたバターと砂糖を投入し、泡立て器で男顔負けの力強い攪拌を開始した。


「うーん、そうだね。まあみんなが欲しい分まず取り分けて、残ったら吹奏楽部とか女子サッカー部とかバスケ部でもどこでも。もちろん碧山さんにも持っていってあげてね」


「明久里にもですか」


「当たり前だよ。面倒くさがって持っていかなかったら怒るからね」


「そんなことしませんよ俺」


 話している間、俺は部長の手元から目を離さなかった。

 強靭な手つきの中にあっても、中の卵黄やバターが飛び散ることはなく、まるで自ら密集するかのようにひとかたまりに集っている。

 そして事前に多めに用意していた薄力粉の分量を計りだしたのだが、そこで俺は目を疑った。

 サラサラと滝のように、ボウルからボウルへ粉を移し替えていくが、なんと部長は規定の分量に計りの針が到達した途端、まともに確認する間もなく手を止め、薄力粉を投入した。


「部長、今ちゃんと計りの針見てました?」


「もう、見てたよ。そんないい加減に作るわけないよぉ」


 と言いながらゴムベラで巧みにかき混ぜる。

 顔を上げてみると、部長は俺に向かって苦笑いしていた。


「ほら、業平君もちゃんと作ってね」


「⋯⋯はい」


 俺は明久里や紅浦のように、デリカシーがない訳では無い。


 ──部長、そこらのオッサンより力あるんじゃないですか。


 なんてあのふたりなら言いそうだが、俺は言わない。 


 それから俺は生地を3回、合計4個作って休んでいた。

 腕が痛い少し重い。

 富山君や片岡さんも休んでいるが、3年のふたりはまだ作っている。

 しかし片岡さん、先輩が作業してるのに授業で出た課題に取り組むのはどうだろう。

 プリントの周りから粉を振り払うのはいい事だが。

 

「来週の新連載当たりだと思う?」


「うーん、今回がハズレだったから編集部も気合い入れてると思うよ?」


「いや、富山君はあの作品評価してたじゃないか」


「もう忘れてくれ、昨日全話読み返したらやっぱり面白くなかったんだ」


「うわぁ⋯⋯4ヶ月分持ってるんだぁ。嵩張るだろ」


「仕方ないんだ。なかなか捨てられないんだよぉ」


「ん、ちょっとごめん」


 富山君と話していると、ズボンのポケットの中でスマホが震えた。

 取り出して画面を確認してみると、相手は珍しい、父からの国際電話だった。


「ごめん、ちょっと」


 席を立ち、急いで家庭科室から退出する。

 家庭科室を出て、廊下の壁の間にある部室棟へ出る段差を降り、電話を受信した。


「もしもし父さん?」


「ああ、よかった。今そっちは何時だ? 何してる?」


「部活だよ。今は⋯⋯4時半だな」


 通話画面の上に写る時間を確認し、もう一度スマホを耳に当てる。

 電話の向こうから、車のエンジン音が聞こえる。


「で、なんの用? 明久里なら心配しなくてもこっちの生活を謳歌してるよ」


「ああ、それは心配してない。それより忘れてたことがあってな」


「忘れてたって、明久里が若干性格地雷系ってことか?」


「はは、見た目に寄らず明久里はお調子者だからなぁ」


「お調子者⋯⋯では無い気もするけど」


 人をドキッとさせるような発言をする娘ではあるが、お調子者と言われると違う気がする。

 あいつがはっちゃけている所なんて見た覚えがない。


「まあそんなこといいからさ、早く本題に入ってよ」


 俺はまだ部活中だ。生地を寝かせた後は薄く伸ばして型抜きをするという重大な任務が残っている。


「そんなことなんて言わないでさぁ。せっかくの親子の会話だぞ? 楽しもうじゃないか」


「楽しみたかったら今度にしてくれ。で、本題は?」


「有無を言わさぬつもりかぁ⋯⋯悲しいもんだ」


 電話の向こうから父のため息が聞こえる。

 そもそもろくに連絡がつかない人間がこんな時だけ何を言ってるんだと言いたい。


「まあさっき言いかけたけど、明久里に関係するある物をお前に渡すの忘れててな。メッセージで送ったから確認して欲しいんだ。あ、電話は繋げたままで」


「わかった」


 父の言う通り、通話は切らずに通話画面を閉じ、知らない間に来ていたメッセージを開く。

 メッセージには謎のURLが添付されている。

 URLに羅列されたアルファベットは、見覚えがあるメーカー名やフォームではない。

 父からでなければ、間違いなく開かず消去しているだろう。


「なにこれ」


「まあいいから、それ開いたら勝手にアプリがインストールされるから押してくれ」


「⋯⋯今Wi-Fi繋がってないんだけど」


「いいよ! 通信制限きたら買い足していいから! どうせ俺が払うし」


 父から重要な言質を獲得し、一思いにURLを押した。

 すると謎の青紫色の背景をした、趣味の悪い英文のサイトに飛ばされ、黄色い光沢のあるバーが、画面中央の左から右に伸びたかと思うと、そのサイトは消えホーム画面に戻っていた。


 なんとなしに画面をスワイプして右画面を写すと、アプリのアイコンがひとつ増えていた。

 画面の真ん中左に現れたそのアイコンは、黒い正方形の背景に、ピンク色のハートマークが大きく書かれている。


『observation heat』


 とアルファベットで書かれているそれは、十中八九明久里に関するものだろう。


「なんかアプリがインストールされたんだけど」


「わかった。とりあえず開いてみてくれ」


 アプリをタップすると、思いのほかデータ使用量が低いのか、すぐさま起動した。

 特にオープニング画面も用意されておらず、開いてすぐ、まず中央に大きな赤く鼓動するハートマークが現れた。

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