弓張り月のメリーゴーランド
ぬーん
八月三十一日
学生が、夏休みの課題に追われている八月の終わり。
乗車しているバスが揺れる度に、佐倉晃の足元で、ビニール袋がガサガサと音を立てている。
電車とバスを二本乗り継ぎ、晃がぼんやりバスの窓の外の景色を見ていると、最寄りのバス停がアナウンスされた。
ハッとした晃が降車ボタンを押そうとすると、出口付近に座っていた白髪の老人に先に押されてしまった。
宙に浮いた手を下げて、太股の上に置いてある供花を優しく抱える。
あの白髪の老人も目的地が同じ場所なのか、とても大事そうに花束を抱えていた。
車掌のアナウンスと同時に、出口の扉がプシューと空気が抜けていくような大きな音を出す。
一番後方右側の窓の外が良く見える座席に座っていた晃は荷物を持つと、「降ります」と声を掛けて、乗客の間を通り抜けるように出口の前まで来ると、バスの冷気と外気の温度差に思わず顔を顰める。
晃が一歩足を踏み出して外に出ると、先程と同じ様にプシューと音を立ててバスの扉がガタガタと音を立てて閉まる。
背中越しに走り去ったバスを見送ると、丁度、歩行者用の信号が青に変わる。
車が来ていないかキョロキョロと見渡してから晃が歩き始めると、頭から汗が噴き出てきて、頬を伝い顎を滴り落ちていく。
信号を渡りきったところで一度立ち止まり、日陰になっている幾らか涼しい場所で晃が手の甲で汗を拭った。
黒いネクタイを少し緩めながら、着ていたスーツのジャケットを脱ぎ、Yシャツの袖口を大きく雑に三回程折った。
カバンを持っている右腕に引っ掛けるようにジャケットを持った。
夏の暑さを助長させるかのように、再び歩き出した晃の耳にはそこら中から蝉の鳴き声が聞こえてきた。
歩いて五分も経たないうちに、砂利の多い坂道を下っていくとお寺が見えてきて、道路脇のお地蔵様が微笑みを浮かべながら八体並んでいる。晃は、後でもう一度来ます。と足を止めてお地蔵様に会釈をすると、足早に手桶や杓の置いてある小屋まで小走りで向かった。
お寺の小屋に置いてある手桶の中に、持っていた供花を入れて、水道の蛇口を捻る。
ドボドボと手桶の底に水が当たる音がして、跳ね返る水飛沫が小屋に籠った熱気を少し逃がしてくれているような気がした。
晃がぼんやりしているうちに、満杯近くになっていた手桶を見て、慌てて蛇口を閉めたが間に合わず少し溢れた。
一歩ずつ歩く度に、チャポンチャポンと水面が揺れて水が溢れ落ちていく。
それを見ていたのか、木陰で休んでいた白い猫が「にゃあ」と鳴く。
「はいはい、また後でな。」
晃は猫にそう言うと、手桶とカバンとビニール袋を足元に置き、ネクタイをしっかり結んでYシャツの袖口を手で雑に戻しながら、ボタンを留める。
スーツのジャケットを着直すと、荷物を持ち直し歩き始めた。
ブロック塀の入口から中に入って右に曲がり、二つ目の通路の一番奥のお墓の中に、晃の一番の理解者で親友だった渡辺朔が眠っている。
渡辺家之墓の前に立つと、既にご両親がお墓参りを済ませた後だったようだ。
「…そりゃ、そうだよな。今日は朔の命日だもんな。」
花立てに先に活けられていた供花の邪魔にならないように、自分で持ってきていた花を一本一本活けていく。
全て挿し終えた後は、Yシャツが背中に張り付くほど汗をかいていた。
額や首元の汗を手の甲で拭い、晃は腰に手をやり一息つくと、供花を包んでいた紙を小さくたたみ、ビニール袋の中に入れた。
杓を手に持ち、墓石や周りにも水をかけながら朔に声を掛ける。
「なあ、朔。俺が春のお彼岸の時供えたオレンジの花って覚えてるか?花屋の人に聞いたら、あの花キンセンカって名前らしくてさ…。」
寂しさとか別れの悲しみって意味があって、そう言いかけたところで、言葉を喉の奥の方で飲み込んだ。
女々しい自分が急に惨めに思えてきたからだ。
「…ごめん、やっぱ今の話無しで。…水浴びて少しでも涼しくなるといいんだけどな。」
手桶の中に杓を置くと、ビニール袋の中から瓶のラムネを二本取り出した。
その場にしゃがんで飲み口のビニールを剥がし、赤い蓋を押し込むと勢いよく中身が吹きこぼれてきた。
「うわっ!?」
ラムネは砂利道を歩き砂埃を被った革靴を濡らし、中身は半分近く減ってしまった。
「朔ごめん、俺のラムネと交換な!」
手桶に入っていた少ない水を杓ですくい上げて、謝りながら晃は手を洗う。次の瓶の蓋を慎重に押し込むと、プシッと炭酸が弾ける音がして中身も殆どこぼれなくて済んだ。
墓石の前にゆっくりと瓶のラムネを供えると、晃は自分の分の瓶を片手に持ちながら二本の瓶を軽くぶつけて、その場にしゃがみ込むと朔に優しく語り掛ける。
「朔、このラムネ好きだったよな。祭で見つけると必ず飲んでた。…俺らが子供の頃とかラムネって一本八十円とか百円だったじゃん。最近祭りに行って来たら、一本二百円に値上がりしててさ、めっちゃビックリした。」
一人笑いながら言い終えて、ラムネを二口で飲みきると瓶を端の方に置き、晃は鞄からお線香を取り出してライターで火をつけた。
「昔は香炉にお線香を束で置くの火傷とかしそうで結構怖かったんだけどさ、朔の月命日とかにも来るようになって流石にちょっと慣れてきた。」
パタパタとお線香を手で扇いでから、香炉の中にゆっくりと置いた。
香炉の中で束になっているお線香から煙が上がり晃はたちまち煙に包まれる。
数歩下がって鞄に入れていた数珠を手に取り、しゃがんで目を瞑る。
ゆっくりと瞼を開いてからまた静かに口を開く。
「…俺、今年で二十二歳になるよ、朔。じゃあ、また会いに来るから。」
朔の墓石を切なそうに見上げていると、何かを思い出したかのように声を掛ける。
「あ、そうだ。言い忘れてた。今日って珍しいスーパームーンの日らしいから、朔もそっちで見れたら一緒に見よう。俺も夜空を見上げて月を探すからさ。」
晃は言い終えると膝に手を着いて立ち上がる。供えていたラムネを回収して身支度をすると、お墓を後にした。
晃の帰りを待っていたのか、先程の白い猫が「にゃあ」と鳴いた。
「お、もしかして待っててくれたのか?でももう少しだけ待っててな。今これ片付けるからさ。」
手桶と杓をしっかり洗い、小屋の元の置いてあった場所に立て掛けると、小屋の入口前に先程バスに乗っていた白髪の老人が立っていた。
「どうも」と晃が会釈すると、老人も帽子をとってぺこりと会釈しかえした。
晃が先に小屋を出て、小屋の右隣にある立派な桜の木の下で涼んでいる白い猫に声を掛ける。
「おまたせ。」
晃の弾んだ声を聞いた猫が、大きなアクビをする。
晃はというと慣れているのかそんな事は気にせず、鞄から猫用のお皿とウェットフードと水を取り出し中に注ぎ入れると、白い猫の前に差し出す。
猫はチャムチャムと音を出して、水を勢いよく飲み出した。
「お前、首輪つけてるけどここの猫じゃないの?」
晃が白い猫の背中を撫でて問い掛けても、何も言わなかった。
三年前から見掛けるようになったこの猫の名前すら未だに知らない。
ただ、何となく朔がいつも学生鞄に着けていた鈴の着いた赤い飾り紐のストラップによく似ているものを身に付けていたというだけで、お墓参りに来る度にこうして世話をしている。
小屋の近くに設置してあるゴミ箱に物を分別して捨てながら「なあ、お前もしかして朔なのか?」と小声で聞いてみる。
白い猫は目があった時に「にゃあ」と小さく鳴くと、またすぐに水を飲み始めた。
「…はいはい、そんなわけないよな。」
「お前さん、若いのに毎回墓参りに来て偉いのぉ。」
「うわっ!?びっくりした…。」
「余っ程、大切な人だったんじゃろ。」
突然、後ろから先程会釈した白髪の老人が話しかけてきて驚く晃。
「ああ、まあ…はい。」
「そこは照れずに、堂々としてればいいんじゃないのか?友か、家族か、それともコレか?」
白髪の老人の言葉に、晃は思いがけず顔に熱が集まる。
「そっ、そんなんじゃないです!…朔は俺の親友です。」
「…ほぉ、そうかそうか。若いのの想い人は朔というのか。」
率直に変な人に絡まれたと晃は思った。苦笑いを浮かべながら、白い猫に視線を移すと目の前にチケットを出され思わず受けとってしまう晃。
「えっ?」
「若いのの手に持ってるそのラムネと、このチケットを交換してくれんか?」
「えっ…。ラムネなら普通にあげますよ。」
チケットとラムネを同時に白髪の老人に渡そうとすると、「想い人に会いたくないか?」と言われて晃は思わず手が止まる。
「後悔してるんじゃないのか?相手に何も言えなかったことを。」
「それは、そうだけど…。」
「じゃあ、取り引きをしよう。」
「取り引き…?」
「そのチケットは、下弦の月が現れて消えてゆくまでの真夜中にだけ現れるメリーゴーランドで使えるチケットなんじゃ。」
「メリーゴーランド…?」
「そう。お前さんの想い人は必ず現れる。このラムネと引き換えにな。」
「いや、そんな都合のいい話、信じられるわけ…。」
「日付を忘れるなよ。九月七日から九月十四日の二十四時を過ぎた頃だ。九月十五日は新月となって全て消えてしまうから、それ迄にちゃんと伝えるんだぞ。」
白髪の老人がニカッと笑うと、いきなり強い風が吹き、晃が目を開けた時には既にその場から消えていた。
「何だったんだよ…、あのお爺さん。…なあ、猫もそう思うよな?」
振り向いて声をかけた時には、もう猫の姿は無かった。
晃は自分の左手を見るとチケットを握っていた。恐る恐る手のひらを開いてみると、"弓張り月のメリーゴーランドご招待券"と書かれていた。
晃は何が何だか分からないまま、白い猫用のお皿を片付けてカバンにしまうと、チケットも財布の中に仕舞う。
お地蔵様の所まで歩いて行き、手を合わせて「朔の事、これからもよろしくお願いします。」と伝えた後に、お線香を少しづつ分けてお供えした。
晃は一礼してから、再び砂利の坂道を歩いて帰ろうとすると、坂道を下りてきた車にクラクションを鳴らされる。
走り去る車の排気口から出るガスと熱気にうんざりした。
ジジッ──と蝉の飛び立つ声が遠くの方で聞こえた。
それは、八月の終わりの出来事だった。
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