陸上競技場。

「さあ、今、なんといっても注目はジム・ワグナー。今日も素晴らしい走りを見せてくれるでしょうか」

 ワグナーに歓声が途絶えることなく送られ続けている。

「続いて五レーンのライアンは、過去の栄光は今や昔、久しぶりのレースです」

 ライアンへの声援は当然まったくない。

「ジム」

 ライアンは隣のレーンのワグナーに話しかけた。

「ん?」

「ありがとう」

 ライアンはワグナーのほうに視線は向けず、つぶやくように言った。ワグナーは何のことか問いかけるような目でライアンを見た。

「俺は——」

 俺は、父は医者、母は大企業の重役、という家庭に生まれた。裕福で、カネにもモノにも困らなかったが、幼い頃から家庭教師をつけられ、かなり厳しい英才教育を強いられた。

 俺には兄と姉がいて、同じことをさせられたけれど、二人は両親の期待に応えて成績は常に優秀で、いつも褒められていた。だが、俺にはその環境は苦痛でしかなかった。テストの結果は、とても親を満足させられるものではなかった。

 特に教育熱心だった母は、俺のひどい成績を目にしても叱ったりはしなかった。しかし、恐ろしく冷たい眼で俺を見るんだ。その視線はまるで、俺の心臓を貫く鋭利な刃物のようだった。

 いつからか俺は荒れていた。気に入らない奴は殴る。カネをまきあげる。警察の世話にも何度もなった。けれど、それでも母は俺を叱ることはなかった。ただ、冷たい視線に深いため息が加わった。何度も、何度も、何度も。俺に聞かせているのか知らないが、それはまるで俺の脳天を撃ち抜く銃声のようだった。

 だが、転機が訪れた。高校生のとき、担任の先生が俺に陸上を勧めたんだ。俺は陸上部に入部すると、あっという間に他の部員たちを追い抜き、出場した大会も次々に勝っていった。すると、他の部員たちから褒められたんだ。そんなことはほとんど初めての経験だった。そして卒業後も陸上を続け、実績を積み上げていくうち、いつのまにか周りには俺を支えてくれる奴らが集まっていた。

 が、俺はふと思った。

 みんながよくしてくれるのは、俺が成功した人間だからではないのか? もし、今の地位も名誉も失い、世間の笑い者になるようなことがあったとしても、俺の味方でいてくれるのか——。

 ライアンは遥か遠くを見つめていた。

「俺は知りたかった。どうしても知りたかった。俺のやったことは陸上競技に対する侮辱的な行為だったかもしれない。それでも、俺にとっては何よりも重要で、知らなければならないことだったんだ」

 彼の目は充血し、瞳孔が開いていた。大きな声を出してはいなかったが、それはライアンの心の叫びだった。

 ワグナーは初めて見るライアンのその様子に、驚いた顔になった。

「みんな離れていったよ」

 ライアンは悲しげな表情になった。

「恋人のキャサリンも、友人のジャックとポールも、トレーシーコーチも、親友のマイクも、そして俺を陸上に導いてくれたムーア先生も」

 彼らにもこの話を聞けば言い分はあるだろう。特にマイクなどは、ずっと温かく接してくれていたのだから。しかしそのマイクも、最後までライアンの成功を期待してところが、ライアンには引っかかったのかもしれない。

 ライアンは何かを思いだす感じで、また口を開いた。

「ところが——」


 半年以上前、ワグナーがメディアのインタビューに答えていた。

「ワグナー選手、絶好調ですが、現在の目標は何でしょうか?」

 真面目そうな男性のインタビュアーが尋ねた。

「そうですね、ニック・ライアンに勝つことですかね」

 ワグナーは当然とでもいった様子でそう返した。

「え? もう勝っているではないですか」

 インタビュアーは疑問の顔になった。

「確かに今はね。しかし、あれはニック本来の走りじゃないですから」

「ライアン選手はここのところずっとあの変わった走り方で精彩を欠いていますけれど、復活すると?」

「はい。そう思いますし、そう願っています」

「ライアン選手に関しては、大半の専門家があのフォームで結果が出ないのは当たり前だとおっしゃっていますが、そもそもどういう意図や狙いがあって、ああいう走り方をしているのだと思われますか?」

「わかりません」

 ワグナーは首を横に振った。

「それよりも、皆さん彼のことを悪く言いますけれども、できればそれはやめてほしい」

 語気がやや強くなった。

「彼はずっとトップにいた。負けられないプレッシャーのなかで戦い、勝ち続けてきた。それは並大抵じゃないんですよ。同じ立場にならなければわからない。それに彼は選手としてだけでなく、真面目で一生懸命で人間的にも素晴らしいんです。ぜひもう一度、以前の本当の実力の彼と勝負して勝ちたいですし、もしそれが無理でも、彼に認められる選手に私はなりたいんです」


 選手たちはスタート位置に進み、しゃがんだ。

「俺は……」

 ライアンは最後にもう一言だけ口にした。

「お前がいなかったら陸上をやめていたところだ」

 その目には力がみなぎっていた。

 スタートを告げる号砲が鳴り響き、選手たちは勢いよく走りだした。

 そう。俺がオリンピックの金メダルの次に、いや、金メダル以上に欲しかったのは、ワールドレコードじゃない。周りの評価など関係なく、俺という人間を認めて、受け入れてくれる存在——。

「あーっと! 速い、速い、速い! 速いぞー! ライアンー!」

 ライアンは元の、マッカーシーに似た力強い走り方になっていた。

「ぶっちぎりだー!」

 観客は皆、驚いた顔で声が出ず、場内は静まり返った。

 それが、わずかの間に一気に大歓声へと変わった。

「な……なんと、出ました、ワールドレコード! マッカーシーの記録を〇・〇一上回る、九秒四六の世界新記録が、ニック・ライアンによってもたらされましたー!」

 走り終えて息を整えながら歩くワグナーに、声がかけられた。

「ジム」

 ライアンが九秒四六と表示された電光掲示板のところから、その数字を指さしながら言った。

「このワールドレコードはお前に捧げるぜ」

 ワグナーはニヤッと微笑んだ。

「見てろ。すぐに俺がその記録を破ってやるからな」

 ライアンも笑みを浮かべた。

「期待してるぞ」

 二人を祝福するかのように、曇っていた空から光線のような日差しが競技場に降り注いだのだった。

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ワールドレコード 柿井優嬉 @kakiiyuki

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