ヘミオラのウサギ

葉咲透織

第1話

 机の天板を雑巾で拭くと、ガタゴトと音を立てて、ぐらつくものがある。授業中にノートを取っているときに、気にならないものだろうか。

 確かこの席は、学年一位の内藤ないとうくんが座っている。弘法筆を選ばず、というやつなのかもしれない。秀才は、どんな環境でも勉強できるからこそ、秀才なのだ。

 もしも私がこんな机を使っていたら、ちっとも授業に集中できないだろう。ついつい揺らしてリズムを取って、周りに迷惑をかけることまで、我ながら容易に想像できてしまった。

 ガタガタゴトゴト。内藤くんは置き勉をしない派だから、引き出しに中身は入っていない。入っていたら、また音が違うんだろう。

 想像しながら手を動かしていたら、彼の机のみ、ピッカピカになってしまった。

「ふう」

 息をつく。これで掃除は終わり。先生に報告しなきゃならないけれど、億劫だった。

 なんでひとりなのって、あの先生、うるさいからなあ。

 忘れたふりで帰ってしまおう。明日の朝、何も言わずに帰宅したことを咎められた方が、いくらかマシだ。お説教は班長の私に集中する。用事があると先に帰宅したクラスメイトたちに、迷惑はかからない。

 自分の席に戻り、鞄の中に、宿題が出た科目の教科書だけ放り込んでいく。

「あれ」

 誕生日に買ってもらった筆箱がなかった。学生が持つには、ちょっと高いレザー。入るペンの本数も限られていて、カラーペンをたくさん使ってノートをカラフルに仕上げる女子たちのものの、四分の一以下のサイズだ。

 赤く滑らかな革は触り心地がよくて、お気に入りだった。その辺に投げ捨てるわけがない。

 今日の時間割を思い出す。

 そういえば、移動教室で音楽室に行った。そこで忘れてきたのかもしれない。

 音楽室は、普通の教室がある棟からは、中庭を挟んで向かい側の三階。階段を上がって、渡り廊下を歩きながら、庭を眺め下ろす。

 一本だけ植えられた桜の木は、葉っぱがほとんどになりながらも、しぶとく先端には花がついている。春から初夏への名残が、風に揺られながらもしがみついていた。

 窓を開けたら、気持ちがよさそうな天気だ。風に乗って最後の花びらが入ってきたら、捕まえて押し花にしたい。栞に加工したら、去りゆく季節を閉じ込められるに違いない。

「はっ」

 いけない。またぼーっとしていた。音楽室に、筆箱を探しにいくんだった。

 パタパタと小走りに辿り着いた音楽室の鍵は、開いていた。

「失礼しまー……」

 てっきり吹奏楽部が練習に使っているのだろうと思ったが、扉を開けた瞬間に聞こえたのは、ピアノの音だけだった。

 メロディーとも言えない。ひとつの鍵盤を一定のリズムで押さえているだけ、強弱すら寸分違わない演奏だった。

 これが超絶技巧の演奏だったり、情感をたっぷり籠めた好きな曲だったりすれば、脚が動かなくなるのもわかる。

 謎の音が響く中、私は扉を閉め、中に入ることを、なぜか忘れていた。

 音の聞こえ方が、密室であったときとは違ったからだろう。ピアノの主が、顔を上げた。私と同じ、セーラー服。ショートヘアがよく似合う、すっきりとした美人だった。 

「ねぇ、扉しめてよ」

 二十年前には、すべての教室に四十人がぎっちぎちに詰め込まれていた我が校も、今となっては各学年、三十人クラスが三つあるだけ。

 ハスキーな声と大人っぽい顔立ちは隣のクラスにも見覚えがない。おそらく三年生だろう。

 一度手を止めた彼女は、再びピアノを弾き始めた。耳を傾けていた私は、「吹奏楽部の入部希望なら、先生は職員室にいるんじゃないかな」と言う言葉を聞いて、用事を思い出した。

「入部希望じゃないです」

 文化部が美術部との二択だけあって、吹奏楽部の部員数は多い。音楽室が拠点のはずなのにピアノの主しかいないのは、パート練を狭い場所でやるわけにはいかず、各教室に散らばっているせいらしい。

「そう」

 興味を失った彼女の、気のない返事を聞きながら、私は授業で使った席に近づき、中を探った。

 空っぽである。

 他の場所の心当たりは、残念ながらない。

「足が生えて、逃げちゃったのかしら……」

 大事にしていたつもりだったのに、嫌われちゃったかな。

 部屋の中にひとりじゃないことを思い出したのは、ピアノのリズムが乱れたからだ。ぶっ、という、上品とはいえない音も。美しい顔とは正反対の、そりゃもう、正しく「噴き出した」である。

「君、面白いね」

「面白い……?」

 ニヤニヤしながら、彼女の指が鍵盤を押さえ続ける。一瞬だけ、リズムが変わった。タン、タン、タン……と延々続くかと思いきや、途中でターン、ターン、ターン、という拍が挟まる。

「なんで、その音ばっかり弾くんですか?」 疑問をぶつけると、「Aの音が好きだから」と、素っ気ない。

 タン、タン、タン、ターン、ターン、ターン、タン、タン……。

「Aの音ってなんですか?」

「君、音楽の授業出てるんじゃないの?」

 必修だから仕方なく出ているだけで、流行りの歌のひとつも知らない。

「音を楽しむっていうのが、そもそも押しつけがましくありませんか? 私は楽しめないです」

 彼女は喉の奥で笑いを殺した。

「本当に君は、面白い……もし忘れ物したとしたら、職員室に届いてるんじゃないかな?」

「はぁ。ありがとうございます?」

 変な人。

 私が音楽室を出ようとしたその瞬間も、彼女はご機嫌に、Aの音を打鍵していた。

 職員室にも立ち寄ったが、ペンケースはない。諦めて帰ろうとしたところ、なぜか教室の自分の席に、ペンケースがあった。

 勘違い? それとも本当に、足が生えた?

 首を捻る私の耳に、クスクスと意地の悪い笑い声が、木霊する。


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