肆ノ花 闘争

第二七話 まどろみ

 川岸で少女の嗚咽が響いていた。

 目の下を真っ赤に腫れさせ、ずぶ濡れの白髪は乱れ、枯れた喉を振り絞っている。


 そして、少女はその腕の中に、中年の男性を抱いていた。

 顔は青白く血の気がない。ひと目で事切れているとわかる。


「私のせいだ! 私が遅かったから!」


 駆け寄る者にそう伝え、声を張り裂けんばかりに自責し続けている。

 そんな少女は、視界に一人の少年を捉えると、首を絞められたように声を絞る。


「許してくれ……お前の父ちゃん……死なせちまった……」


 言われて、少年は急いで駆け寄る。

 父ちゃん、父ちゃん、と声を荒げて呼び続ける。

 だが、父に触れれば触れるほど、この世にいないと察することができた。

 魂がない。なんの根拠もなく、触れた瞬間に理解できた。

 自分の父は、もう生命の糸となって旅立ってしまったのだ。


「許してくれ……」


 もはや憔悴して、うわ言のように繰り返す少女に、少年は何も言えなかった。

 それを今でも後悔している。あなたのせいじゃないと、その一言がなぜ言えなかったのだ。

 ただ、少女の背中を支えるように、手を当てることしかできなかった。


「聞いてくれ……」


 少年の手の感触が伝わって、微かに少女の瞳に色が戻った。

 真っ赤な美しい瞳が少年を写すと、震える唇から言葉が溢れた。


「最後にな……お前の父ちゃんが……お前に伝えてくれって」


 少女の口から編まれた、父の最後の言葉。


『母ちゃんを頼むぞ。泣き虫小僧』


 聞いて少年の瞳に大粒の涙が溢れた。

 父ちゃんらしい、死ぬ最後まで皮肉屋だ。

 それを口にして俯くと、少女の腕が少年の頭を抱き寄せた。


「ごめん……助けられるくらい、強くなるから」


 その言葉に、自分は応えられただろうか。

 男に生まれたのだ。女が泣いているのなら、傷を埋める一言くらい言ってやれと。

 生前の父に言われた言葉だ。

 ありがとうの一言でもいい。言えただろうか。


      ✿


 微睡む意識の中、ネズミはゆっくり瞼を開けた。

 頬に当たる天板が盛大に濡れていて、ヨダレでも垂らして寝ていたのだと嘆息する。

 万年桜の花弁がひとひら落ちて、唾液の上を優雅に泳いでゆくのをネズミは朦朧とした頭で見つめた。


「よう寝とったね」


 燦々と照りつける昼の陽光を嫌い、リンゴが扇子で影を作ってネズミに微笑んでいた。


「すみません、寝ちゃってました……」


 慌ててネズミが文机に広がった唾液を腕の毛で拭うと、見かねたリンゴが袖から手巾を取り出して手際良く天板を洗った。

 ネズミが申し訳なさそうに会釈すると、ミカンが冷えたほうじ茶を湯呑みに注いで首を横に振った。


「しょうがないよ。ザクロの介護、頑張ってくれてるんだし」


 ザクロに義手が取り付けられてから二日が経過していた。腕の一本を失った代償として、ザクロは二日間ほとんど昏睡状態に陥っている。たまに起きてネズミに語りかけてくることもあるが、半刻も持たずにまた夢の中へ戻ってしまうのだ。


 その間、ネズミは夜を徹してザクロの傍で介抱を行なっていた。ザクロの腹が鳴れば粥などの流動食を口に入れてやり、ザクロが寝小便を垂れれば、リンゴかミカンを呼んで着替えをさせてもらい、自分は汚れた着物と寝具の洗濯に勤しむ。

 今も住居の縁側の障子を開け放ち、常に寝ているザクロを視界に収められるように気を回していた。


「あんま寝てないんちゃう? 適当でええのに」


 リンゴとミカンが言うには、新しい腕に肉体が適応するのに時間を要しているだけであるらしく、一週間もすれば元通りの元気な姿を見せてくれるらしい。だから、さほど心配することはないと。


「うーん。でも、起きたときに一人っきりだと、寂しいかなって」


「ええ男やね、ネズミはんは。でも、ほんまに適当でええよ」


 そうリンゴに言われるが、ネズミは「いえ」ともう一度強く瞼を擦る。

 張り切っているのは、単純にザクロが心配であるという思いだけではない。少女の身を案じている間だけは、自分の『これから』を忘れることができたからだ。


「頑張りたいんです」


「さよか」


 多くを語らないネズミに、リンゴは複雑な面持ちで頷いた。


「それより、起きたのなら箸の練習の続きしようか」


 ミカンが仕切り直すように手を叩いて、二つの皿をネズミの前に滑らせた。

 そうだったとネズミは思い出す。獣の肉体であるせいか、箸の扱いが異様であるとミカンから指摘を貰い、万年桜の木下で箸の練習を行なっていたのだった。


「そりゃァア!」


「力技はダメ」


 ミカンの義手から作られた丸い植物の種を、右の皿から左の皿に移す特訓。これが中々上手くいかない。力を抜き過ぎると、スルッと箸の間をすり抜ける。力を入れ過ぎると、バチンっと箸から種が弾け飛んでしまう。


「やっぱり、急に豆粒は難しいちゃう?」


「大は小を兼ねるでしょ?」


 一人でこれをやっていたとしたら早々に投げ出していたことだろう。だが、今は美人二人に温かく見守られていることもあり、ネズミは少しでも良いところを見せたいと張り切っていた。


「ネズミはん、立ち上がるときに右手を先に着いとったけど、箸は左で良いん?」


「え、左の方がしっくり来てるんですけど」


「記憶ないなる前は、両利きだったんかな?」


「どうなんでしょう? あれ……待てよ。さっき右手でヨダレを拭いたような」


 左手の方が右手よりは箸を握った時の感触がしっくりくる。だが、思い返せば障子や戸を開けるときは右手を使っていたような気もする。厠で尻を拭く時も右手を使っていたような気もしてくる。

 左手右手と箸を持ち替え、その動きの感触を試行錯誤していると、どうにも頭が混乱する。それに疲れて、ネズミが腕を組んで唸ると、ミカンは激しくリンゴを睨めつけた。


「リンゴ姉! 混乱させるようなこと言わないで!」


「なんや! ちょっと話振ってただけやろッ、それと急に豆粒は難易度おかしいやろがい!」


「ほっといてッ、この子は私が育てるの!」


「あっかん。こんな小姑みたいなババアにまかしとったら、ネズミはんが一生、箸持てへん」


「ババアって何よ───!」


 以前まではこうではなかった。どうやら努めて猫を被ってくれていたようだ。仲良くなればなるほど、ネズミの眼前で繰り広げられる姉妹の言い争いは苛烈を極めてゆく。

 居眠りする前も。ザクロが昏睡してからもそうだ。二人は事あるごとにネズミの育成方針で言い争っていた。この口論が実にネズミの心を焦らせる。いつか『どっちの味方?』などと詰め寄られそうで心労がひどく蓄積する。


 しかも、二人の口論が白熱すると、結局最後は腕力の勝負。


「「ヒギギギギギギギギィイ!」」


 とうとうネズミを放ったらかしに、互いの顔面を片手で鷲掴み、互いの握力と頭蓋骨の耐久力を賭けた勝負にもつれこんだ。


「おどれぇええミカァアン! ほんまに握り潰すど!」


「上等ォォオ! 私が腕力で負けるもんかァアアア!」 


 恐ろしい。本当にやめてほしいとネズミは頭を抱える。香梨紅子こうなしべにこの娘達はいちいち熾烈な喧嘩を行う。それに意味があると、今はネズミも理解している。


 羅刹の喉奥に宿る鮮花というのは、強い鮮花に取り込んでもらい強力な個になりたがる。つまりは、自分の宿主(羅刹)より強力な宿主が目の前に居た場合、元の宿主を屈服させ、より強力な方へ擦り寄って命を差し出してしまう。

 故に、羅刹同士の争いは己が強者であると誇示する必要がある。精神的に負けを認めた時点で、勝負は決してしまう。


「長女の私に敵う思うたんか我ェエッ、思いあがんなボケコラァア!」


「舐めんなァアッ、このまま握り潰して魚の餌にしてやるからァア!」


 互いのこめかみに爪を食い込ませ、激しく回復の火花を散らす。食いしばった歯茎から一筋の血糊を流し始めた。

 このままでは本当に引っ込みが付かなくなりそうだ。ネズミは気を回し、この場に新しい風を送り込もうと、パンと一つ柏手かしわでを打った。


「ああッ無性に物書きの練習したいなぁ! 誰か紙と筆を借してくれないかなー!」


 大声をでそう言うと、顔面を掴み合う姉妹は、ゆっくりとネズミの方に首を動かした。

 ぎょろりと剥かれた眼球は血走っていて、ネズミを大いに恐怖させる。

 戦慄するその相貌を見て、姉妹はあっけなくお互いの顔面を解放した。


「よろしい! 紙と筆取ってくるね」


 嬉々として、ミカンは足取りを弾ませてザクロの住居に向かった。


「ありがとうございます……本当に……」


 自分の成長を手助けしてくれるリンゴとミカンの心意気は、ネズミを孤独の底に沈めなかった。獣の肉体となった上に記憶を失い、さぞ心細いだろうと優しく声をかけ続けてくれている。猫の皮が剥がれてもなお、二人の清らかな心根が伝わってきて、ここに来られて本当に良かったと心から思える。後は喧嘩さえやめてくれればと願うばかりだ。


「ネズミはん、女の扱いうまない? その姿になる前は大層モテてたんやろうなぁ」


 感心するように言われて、ネズミは頭を掻いてはにかんだ。


「えへへ、どうですかね。そうだと良いなぁ」


「それか、あん……たの……花が……」


 突然のことだ。リンゴの言葉が減速し、瞳が一点を驚愕に染まった。


「あかん……来てもうた……」


 その緊張を帯びる声音に、ネズミは即座に察した。


「──紅子様ッ」


 鳥のさえずりや虫の鳴き声さえ静かになり、ほんのり肌に吸い付くような冷気がネズミの体毛を撫でつけた。ミカンも母の来訪に勘付いたのか、リンゴとネズミの側まで駆け寄って、共に平伏のために膝をつく。


 そうして三人で待っていると、しとりしとりと葉を踏む音を響かせて、間もなく香梨紅子が桜の木陰から姿を現した。


「おやおや、揃っていますね」


 三人の垂れたこうべを見渡して、香梨紅子は機嫌の良さそうな声音で言う。


「ネズミ、二人きりでお話しできますか?」

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