第二六話 支配の糸
半刻が過ぎた頃。夜はすっかり深くなり、初夏とはいえ空気が冷え始めた。
ザクロを着替えさせた後、ネズミは部屋の隅でうつらうつら船を漕いでいた。ザクロに何かあった際、自分が寝ていてはならないと、張り切り勤しんで目を開いていたのも束の間だ。寝てはいけないと意識すればするほどに瞼が重く『さっさと寝ろ!』と店仕舞いを強行してくる。
閉店してなるものかと、揺蕩う意識の中で必死に葛藤していると。
「ネズミ……」
衣擦れの音と共に、ザクロが枕から頭を上げた。少女の口から溢れた声を聞きつけ、ネズミは瞬時に身体を跳ねさせる。瞼を拳でこすり、慌てて布団に駆け寄った。
「ザクロさん、大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫」
ザクロが気だるく答えて、気遣わしげな顔をするネズミに笑いかけた。
「着替え、あんがと」
「へ、へい?」
ネズミはギクリと狼狽えて大いに目が泳ぐ。自分が着替えさせたのを察したのか? なんとなく雰囲気で礼を言ってくれただけなのだろうか? そんな疑問を巡らせていると。
「全身が動かなかっただけで、意識はあったから」
咎める響きはない。しかし、致し方ないとは言え、わずかに少女の裸体を見てしまったのは事実だ。
「その、なるべく見ないようにはしたんですけど……後で殴ってください」
ネズミが頭を下げてそんなことを言うと、その頭にザクロの新しい手が伸びた。
「ありがとうって、言ったじゃん。見たきゃいくらでも見ればいい。減るもんでもなければ、減っても私らは、すぐに治るだろ」
言って、黒い義手で優しくネズミの頭を撫でつける。
「ああ……。ちゃんと触ってるって感覚あんな。ふわふわだ」
ザクロは安堵した顔をしてネズミの頭を触り続ける。その力加減がひどく儚げで、ネズミの心を締め付けた。
「ああ、でも……」
ひとしきりネズミの体毛を撫でると、虚な眼差しで義手を見つめ、
「やっぱり血の匂いだ……臭い」
義手を鼻に近づけて落胆した声音を溢す。
それを見てネズミが言葉に窮していると、ザクロが弱々しくまた微笑む。
「でも、なんとか匂いつかないように、飯作ってやるからな」
そんなことを掠れた声で言う。
ネズミは目頭に込み上げるものを堪えて、なんとか頭を上げた。
「どうしてそんなに良くしてくれるんですか? 与え合うのがここの流儀だから?」
聞くと、「バーカ」っと、指で額を弾かれる。
「やりたいようにしてるだけだよ。なんかお前見てると、何だかわからんが……つい、かまいたくなる」
額をさするネズミは途端に後悔した。自分の身を卑下し過ぎて、少女の心意気を汚してしまった。
たまらず「ごめんなさい」とネズミが口にすると、ザクロは胸元を掻きながらバツが悪そうにする。
「お前さんは変わってるな。素直に謝る
「謝るのは、まずいですか?」
「いいや、悪いと思ったら謝るのが普通。普通の人間ならな。私らが異常なんだ。必死にイキがっていないと、母上の花に呑まれそうで怯えているだけだ」
「呑まれる?」
「
言われて、ネズミは我が身を振り返る。確かに初めて
尻尾を切られたときも、怒りの感情さえ湧かず、むしろ腕の一振りで肉と骨を断った凄まじい強さに魅了されていた。
今もそうだ。ザクロに行った振る舞いと、戒めの苛烈さを知ってもなお、香梨紅子に対して畏敬の念と敬愛が心を占めている。神を愛したい、愛されたい感情が常に燻っているのだ。
「鮮花は強い個になりたい生物らしい。だから、母上の花と一つになって、自分も強い個の一部になりたがる。宿主である羅刹の感情さえ操作してな」
「紅子様のような強い羅刹の前だと、命を差し出してしまう?」
「そう。あれくらい圧倒的な羅刹だと、支配の糸で他者を絡めとる。母上に疑問を抱くことさえ、不敬に感じるだろ?」
少女の警告にネズミは背筋を冷たくした。
「……身に覚えが、あり過ぎます」
「でも、お前は少し違う気がする。母上に『離せ』と命じられたのに、私を離さなかった」
「それは……」
なぜだろうか。あの時は悲しみと恐怖で自分が何をしているのかさえわかっていなかった。
今考えると、不敬を働いていたと後悔の念が渦巻いてしまう。
「出来るだけ、母上との接触は避けろ。近くにいればいるほど母上のために生きたくなる。母上への信仰心が高まるほど、カリンやモモみたいに、他者への否定がお前の日常になる」
「さ、幸い、まだ三度しか会っていません」
「油断するなよ。常に自分に疑いを持て。自分が考えていることなのか、お前の鮮花が考えていることなのか。常に頭の片隅に入れておけ。それで少しは……」
マシになる。そう言ってザクロはゆっくり瞼を閉じはじめた。次には穏やかな寝息を立て始める。
それを見届け、ネズミは少し乱れた布団を治して、また部屋の壁に背中を預けた。
──常に自分に疑いを持て。
ネズミは頭の中でザクロとの会話を咀嚼する。
──己か。花か。
噛んで噛んで、呑み込んで、ひたすらに省察を繰り返す。
自分の腑に落ちる頃には、すっかり日が登り始めていた。
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