第二四話 五戒

 顔を暖かな湿り気に拭われて、ネズミの意識は浮上した。

 見知った天井に向かって湯煙が昇っている。その蒸気の元を視線で辿ると、大きな桶に湯が張っており、赤く汚れた手拭いがいくつか掛かっていた。


「あ、起きた」


 横になったネズミの傍で、次女ミカンが微笑んでいる。じゃぶじゃぶと桶に手拭いを浸して絞り、血で汚れたネズミの肉体を拭いてくれていた。


 ネズミが目覚めたのはザクロの自宅であった。竹林で倒れているところを、どうやらミカンが運んできてくれたらしい。ミカンの白い着物の右肩に土埃と血糊が付着している。

 縁側に繋がる障子を見れば、今にも消え入りそうな茜色の日差しが照っている。ネズミが気絶してから一刻ほど経過したところだろう。


「ネズミはん大丈夫か?」


 聞いたリンゴは土間から新しい湯の入った桶を持って、ネズミの傍に膝を付く。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 掠れた声で言って、ネズミは身体を起こす。

 朧げな意識も少しずつ覚醒し始めると、本日起こった惨事が胸を締め上げた。


「ああ……俺のせいでザクロさんが……」


 漏らした悲痛に、リンゴとミカンはネズミの背中を洗いながら首を振る。


「何が起こうたのか聞いとる。あんたのせいやないで」


「そうだよ。これはね、母上の娘としての風習みたいなものなの」


 言うと、ミカンはネズミに見えるように左手の義手を開いては閉じる。リンゴも右足の義足を晒して指で叩く。


「これ付けるとな、私らの鮮花の能力が底上げされんねん。やから──」


 心配せんで良い。気に病まなくて良い、とリンゴとミカンは慰めの言葉をかけてくれるも、ネズミは呆然と聞き流していた。

 失った右腕を見て涙を溢すザクロ。その凄惨な光景が脳裏に焼き付いて離れない。自分はどうするべきだったのか。どうしていたら、あの悲しみを回避できたのだろうか。

 心の中に駆け巡って、止まない自問自答の渦に溺れてゆく。そうして頭を抱えていると、ある一つのことを思い出した。 


「戒めって……なんですか?」


 ネズミが溢すように聞くと、リンゴとミカンがピタリと動きを止めた。


「もう、聞いたんやな?」


「詳しくはまだ。嘘を吐くな、としか」


「さよか」


 リンゴは頬に手を当てて、少し悩んでから立ち上がった。

 すると、ザクロの化粧台の一番下の棚を開いてゴソゴソと漁り出した。


「確か、この辺に……あったわ」


 リンゴが取り出したのは随分と古びた冊子の書物。端は所々擦り切れ、経年劣化の黄ばみが色濃い。それを捲って、ネズミの眼前に広げて見せる。

 外見の劣化具合と比例して文字も霞んで読むのに苦労するが、そこにはこう書かれていた。

 


 ─── 教義戒律きょうぎかいりつ 五戒ごかい ──── 


 暮梨村に住まう者、五つの戒めを厳守せよ。


 不飲酒戒ふいんしゅかい─酒を飲むべからず。この禁を破りし者、飲んだ酒と同量の血液を、香梨に献上すべし。


 不妄語戒ふもうごかい─他者を欺くことを禁ず。この禁を破りし者、自らの舌を縦に裂き、二枚の舌にて己が恥を自覚すべし。


 不偸盗戒ふとうちゅうかい─他者の持ち物を奪うべからず。この禁を破りし者、自らの両目を抉り取り、二度と他者を羨むことなきよう励むべし。


 不邪婬戒ふじゃいんかい─無断で命を孕み産むべからず。この禁を破りし者、生まれる赤子を香梨に献上し、割腹を行って赦しを乞うべし。


 不閑却戒ふかんきゃくかい─これらの禁を破りし者を見過ごすべからず。この禁を破りし者、全ての戒めに値する罰を受けるべし。 


 これら五つの戒め、五戒ごかいと呼称する。

 これら罰則の執行、その裁量のすべては、当代の羅神の手に委ねられる。



 読み終えて、ネズミは思わず息を呑んだ。


「こ、これは──ッ」


「香梨紅子が、暮梨村に敷いてる戒律」


 ネズミが必死に指でなぞる文字には、どれもが流血を伴う罰則が用意されている。


「こんな戒律があるなんてことは、誰も一言も……」


「ごめんね。一週間は黙っておくようにって、母上に厳命されていたの。ネズミちゃんが五戒のことを知ると、戒めを恐れて言葉を重くするからって……」


 ミカンが申し訳なそうに言うと、リンゴは頭を掻いて嘆息し、ネズミに見せるように書を指でなぞる。


不妄語戒ふもうごかい──他者を欺くことを禁ず。この禁を破りし者、自らの舌を縦に裂き、二枚の舌にて己が恥を自覚すべし。モモの舌、見たやろ?」


 言われて、少女の蛇のような二枚舌がネズミの脳裏に過ぎった。


「舌を……縦に割く……。モモさんの舌は──」


「モモはなぁ、まだあの子が八歳くらいんときかなぁ。なんや母上に嘘吐いたらしくてな。社の前で倒れてるのをザクロが見つけたら、既にあんな舌になってたんやと。娘だろうが容赦ないんよ」


「そんなのって──」


 あんまりだ。ネズミの口に衝いて出た言葉が床を這った。それにリンゴは悲しく笑う。 


「他の戒律も同様やね。ここに書いてあることは全部本当に実行されてきた。彩李はなんとかネズミはんに見えないようにしとったみたいやけど、目玉のない村人も舌が二枚の人間も、あの村で普通に暮らしとるよ。不邪婬戒で割腹して死んだ女も男もおるし、酒の罰則は……まあ、他の人里との交流がないから、手に入れようがないんやけどね」


 ネズミが苦悶の表情で相槌を打つと、続けてリンゴは指で最後の項目をトンっと叩いた。


「これ、この五つ目の不閑却戒ふかんきゃくかい。この効力が特に絶大でなぁ。暮梨村は『支え合い、与え合ってる』ってのも事実なんやけど、四六時中お互いを『監視し合ってる』ってのも事実なんよ」


 不閑却戒──罪を見過ごした人間はすべての罰を受けなければならない。


 つまり罪人を見過ごすならば、血を抜かれ、舌を割られ、目玉を失い、自害しなければならない。

 その残酷な戒律がある限り、他者が罪を犯すことに四六時中怯えなければならない。罪を目撃するのを、恐れることになる。


「だから、私らはできる限り村の方に行くんは嫌なんよ。誰かが戒律を破ってんの見てもうたら、母上のところまで引っ立てんといけんし、誰かが私らのところまで罪人を連れてきてまうかもしれへん。めっちゃ気分悪いやろ?」


 ネズミは答えに窮した。リンゴの口から出る事実を受け止めきれない。


「誰かが罪を犯したと、告げ口する人はいたんですか?」


 聞くと、ミカンが目線を床に落として肩をすぼめた。


「山のようにいたよ。罪人を差し出すと、母上と謁見する機会があるから。みんな子供が親に捕まえたクワガタを自慢するように、喜んで罪人を差し出してくるの」


 親と子であろうが。そう告げるミカンの虚な眼は、ネズミの胃をどんよりと重くした。

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