第十八話 奥之院②

「では、どうぞお食べなさい」


 突如、紅子がそんなことを言う。


「食べる? 鮮花を? 金剛のように硬いって言ってませんでした?」


 歯が折れますよ? とネズミが抗議の声を上げると、紅子は表情を崩さず答えた。


「鮮花は他者の鮮花を取り込んで、その身を強く成長させる、共食いを行う花なのです」


「共食い……」


「故に、あなたがこれを食べれば開かぬ鮮花が飛び起き、開花するかもしれません。安心なさい。口に入れればその瞬間に喉の中に吸い込まれ、今あるネズミの花と一体化しますので」


 ネズミはゴクリとの生唾を呑む。今しがた、死体から引き抜いた花を食べなければならない。これはひどく忌避感が強い。神前であっても、つい躊躇してしまう。


「あのぅ……バチとか、当たりません?」


 文机に置かれた生首を横目で見て、ネズミは身震いする。


「安心なさい。羅神教に天国も地獄もありません」


 一人で厠に行けない子供を躾けるように言って、紅子は生首に片手を添える。

 すると、途端に生首はけたたましく火花を散らして一瞬の内に紅の蝶の群れとなってそこらに飛翔してゆく。


「こういうのは時間を置けば置くほどに躊躇いが増します」


 その配慮に、ネズミは流石に覚悟を固めて居住まいを正した。


「ありがとうございます」


 いただきます。ネズミは香梨紅子に会釈をして深く息を吐く。神から与えられた贈り物を拒否する痴れ者になるわけにはいかない。それに、落としてしまった記憶も取り戻せるかもしれないのだ。

 やるならさっさと一思いに、とネズミは勢いよく鮮花を口の中に放った。


「──ゴッ!」


 言われていた通り、鮮花はすぐに喉の中に吸い込まれていった。ネズミの扁桃腺に擦り、声帯にぶつかり、気管の中頃で鋭い痛みが走った。


「ゲホゲホ! アアッ!」


 喉の中に硝子片でも飛び込んできたかと思う異物感と激痛に、ネズミは激しく咳き込んだ。そうして息を絶え絶えに吐いていると、濃い花の香りが喉を通って鼻腔を抜ける。その香りを吐き切る頃には、痛みも大分マシになる。


「ああ、痛かったぁ」


「大丈夫ですか?」


「喉が焼けそうです。でもなんとか──」


 気遣われ、それに応えようと顔を上げたネズミは呼吸を止めた。

 違う。声をかけてくれた香梨紅子の姿がさっきとは違う。


 糸だ。


 白く光り輝く無数の糸。


 それが蛇の交尾のように蠢き絡まり合って、女性の形を編んでいる。


「──ッ!?」


 周辺を飛んでいた蝶々も、自分の肉体でさえも。

 違う。糸が絡み合ってできた人形だ。陽炎のように揺らめく白光を帯びた糸束の集合体。そんな白く奇妙な存在に成り変わっていた。


 周囲を見渡せば、座っていた座布団も室内も、無機物だったものはすべて白い糸によって編まれた荒い網目状の麻布のように見える。

 眼前の一変してしまった世界に困惑していると、女性の糸玉人形が話しかけてきた。


「どうやらの世界──〈羅生界らしょうかい〉が見えているようですね」


 聞き違えるはずもない紅子の美しい声が響くと、人の手を模る糸束がネズミの頬に伸び、宥めるように撫でつけた。


「こ、これは」


「あなたが見ているものは、〈羅生界〉と呼称される鮮花が見ている景色です。人には人の、猫には猫の、花には花の世界があります。同じ世界に住んでいても、見たり感じたりするものは、まったくの別物」


 曰く、蜂やダニなどは生物の温度を見ている。牛や馬なども人の見えている世界より色のない世界を見ている、と紅子は言う。


「羅神教では羅生界を真実の世界であると説いています。肉体と心を編む、生命の糸。自身と他者を結ぶ、縁の糸。それらが重なりに重なり合って、網目の細かい〝〟となる、輝く世界であると」


 紅子の言う輝く糸の世界を見ているせいか、ネズミは感じ取っていた。白布に覆われている香梨紅子の視線が、好奇なものになって自分に注がれている。

 それが糸人形の目玉から糸が伸びて自分に絡みつく不気味な体験であり、首を絞められているように息苦しい。


 ネズミが堪らず顔を覆うと、紅子が一つ柏手を打った。

 途端にネズミの視界に色が戻る。ネズミ自身の灰色の体毛に紅子の美しい白肌、文机の黒柿色が、その色を思い出したように鮮やかに蘇った。


「ああ、よかったぁ」


 深く安堵を吐いて、ネズミは胸を撫で下ろす。鮮花の世界は生命が生命に見えない孤独な世界だった。色の付いた世界でないと生きた心地がしない。


「で、いかがですか?」


「はい?」


「能力が開花した実感はありますか?」


 問われてネズミは思い出す。生首に羅生界。次から次へと混乱させられ忘れ去っていた。自分の能力を開花するために鮮花を食らったのだったと。


 ネズミは自身の喉を揉んで感触を確かめる。


「びっくりして胃液が上がっただけで、特段……変わった感じはないですね」


「ふむ」


 頬に手を当て思案する紅子に、ネズミは恐る恐る聞く。


「もし、羅刹じゃない者が鮮花を食べるとどうなるんですか?」


「三日と経たずに灰神に転化します」


「え……じゃあ……俺がもし羅刹じゃなかったら」


「安心なさい。あなたの肉体の中に鮮花があるのは間違いありません。羅神である香梨紅子が保証します」


 その言葉にネズミが胸を撫で下ろした束の間、紅子が退屈そうに息をつく。


「変化を感じないと言うことは、開花の時ではないということですね」


「あ、その……ごめんなさい。貴重な鮮花を頂いたのに、何もないなんて」


 ネズミは申し訳なさそうに耳を垂れて謝罪を口にすると、紅子から微笑が転がった。


「花咲くを待つ夜は長く。山巓さんてん仰ぐは遥か遠く。光さすは忘れる者なり」


 つらつら唱えた詩に、ネズミが首を傾げると。


「羅神である私でさえ忘れそうになる」


 しとりと自省を溢し、紅子が衣擦れの音が立たせる。


「引き続き抱擁法を行いなさい。鮮花は生命の拍動に魅かれる生物です。他者の温もりを感じ取ることで、あなたの頑固な花も徐々に開くやも」


 しれませんね、と紅子は立ち上がった。ネズミの疑問を置き去りに、神はそそくさとその場を後にする。


 振り向きもしないその背中はあまりに素っ気なく、ネズミは両の手を着いて項垂れた。


「ぁぁぁ……なんか知らないけど、やっちゃったかもォ」


 ひどく落胆させてしまったのではないか。これは取り返しがつかないのではないか。そんな自問自答を繰り返すも答えは出ず。しばらくの後、ネズミは力のない足取りで帰路に立った。


       ✿


 居宅へ戻ると、畳んだ布団の横に握り飯二つと漬物が添えられていた。どうやらザクロがまた朝食を持ってきてくれていたらしい。

 随分と時間が経ってしまった。米は乾いていないかと握り飯を手に取ると、まだ白米は艶やかに光沢を帯びていた。


「いただきます」


 米の旨みを存分に咀嚼していると、ザクロが『気にすんな』と慰めてくれているような気がした。こうして食事を振る舞ってくれるのだから、さほどお門違いな解釈ではないはずだ。


 そんな風にあの少女のことを考えていると、告げ口のようなことをしてしまったことに、激しく後悔の念が湧き立った。自分のせいで、ひどいことになってはいないかと。 

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