弍ノ花 暮梨村
第十一話 目覚め
ひどく心地の悪い夢を見ていた。
頭の中で鳴り響く、複数の声から声が、さざ波のように押し寄せては引いてゆく。
『良い日和です。良い縁が起こりました。あなただけの花を──』
『お前の親父は、最後までお前を──』
誰だ。誰が何を言っている。
聞いたことがある声。身に覚えのない声。
次から次へと押し寄せては、過ぎ去ってゆく。
『大人しく母を差し出していればいいものを──』
『誰も見ていない。誰も私たちを見ていないの──』
『抱っこして──』
それらは自分にとってのなんなのか、判然としない。
耳を傾ければ傾けるほどに、悲しくなり、腹も煮えてくる。
『お母さんを許して──』
言葉の濁流の圧迫が、肉体に浮遊感にも似た心細さを感じさせる。
心臓は早鐘のように鳴り、焦燥感で背中が汗ばんでいる。
次第にじりじりと縄で首を絞められているような錯覚に陥り、
「やめてくれッ」
少年は堪らなくなって跳ね起きた。身体にかかった布団も煩わしいとばかりに腕で払って、乱れた呼気を整えるため、肩で息を吸って深く吐き切る。
憤怒、悲壮、悔恨。それら頭の中のどす黒い残り香が、少しずつ呼吸と共に胡散してゆく。
先程まで聞こえていた声の濁流、あれはなんだったのか。思考を巡らせると、また気分の悪い焦燥感が背中を這った。
──やめよう。どうせ思い出せやしない。
少年は省察を打ち切って、障子から溢れる陽光に顔を照らす。優しい温みが泥の中に沈んだ意識の
しばらくそうしていると、
「俺の名前は──」
開き切らない喉でぽとりと呟き、途端に慌てて目を擦る。
「ネズミ」
その名前が滑らかに舌先で転がって、胸を撫で下ろした。またあの絶望の朝を迎えなくてよかった。
自分の名前がないと、個として所在が掴めない気持ち悪さで鬱々とした気分になる。
自分に名前がある寝起きは、この世に根を下ろせているという安心感がある。
ネズミは安堵の溜息を一つ吐き、改めて自分の寝ていた部屋を見渡す。
「女性の家……かな?」
十二畳ほどの家屋だった。上質な木の板の床に趣のある囲炉裏、釜と水桶が設置された土間。部屋の隅には上品な漆塗りの箪笥。その上に華やかな柄が踊る着物が何着も雑に折り重なっていて、ひと目で女物であると判断できた。
背後を振り返ると、ヒビ割れた鏡が嵌め込まれた化粧台と乱雑に置かれた化粧道具。家主の荒い気性が窺える。
とにかく立ち上がろうと腰を浮かせると、身体の均衡を崩して尻餅をついた。
「あ、そういえば」
意識を失う前に何があったか思い出し、反射的に手で尻に触れる。
骨と肉を丸ごと両断されたにも関わらず、尻尾があった場所は綺麗に体毛が生え揃っていた。
誰かが手当てしてくれた、という次元ではない。最初から尻尾なんて生えていなかったような仕上がりだ。
「お、起きてるな」
しばらく尻を検めていると、ふと玄関から声をかけられた。
そちらを振り返ると、美しい白髪の少女が木皿を片手に上がり込んでくる。
ふわりと白米の良い香りがして、食事を持ってきてくれたのだとネズミは察した。
「おはよう、ネズミ」
「おはようございます。ザク……ロさん?」
「ザクロでいい」
そう言うと、ザクロはなぜか少し怪訝な顔で持っていた木皿を布団の傍に置き、どさりと荒々しく胡座をかく。置いた皿の上には握り飯と沢庵、それに竹製の水筒が添えられていた。
「すみません、ご飯なんて……。あの、ここはザクロさんのお家ですか?」
尋ねてみると、ザクロは更に眉根を寄せて片肘をつく。
「敬語と敬称を取っ払えたら答えてやんよ」
「ええ……そんな無茶な……」
知り合ったばかりの人間は誰であれ呼び捨てにできないし、異性なら尚更だ。
そんな風に突っぱねれば、より機嫌を損ねてしまうだろうとネズミが逡巡していると、
「まあ、それも追々だな」
急に笑顔を作って、皿に乗った握り飯を差し出してくる。
随分と表情がコロコロ変わる少女だ。ネズミは小さく会釈して皿を受け取った。
「昨日は散々だったな」
「え、ああ。カリンさんに目玉を潰されそうになってたことですか? その節は助けて頂いてありがとうございます」
「違う違う、あの馬鹿のことじゃない。尻尾のこと」
「ああ、そうですね……。なんか綺麗に傷も塞がってるんで、むしろありがたいというか」
「ビビっただろ? ちょいと試していいか?」
「え? あ、はい」
ザクロの問いに反射的に返事をすると、おもむろに片方の手を強引に引き寄せられた。
「ちょいと痛むぞ」
言うと、ザクロは懐から小刀を取り出し、鞘を口に加えながら刃を抜き放った。
鋭く光る刃先を見たネズミが戦慄するより先に、手の甲に素早く切っ先を走らせる。
「──ッ」
一筋の細い切り傷ができ、プクリと血溜まりが膨らんだ。かと思えば、傷口に沿って線香花火のような小さな火花がパチパチと上がり、傷が綺麗に塞がってしまった。
「これは!?」
「母上の鮮花の能力〈生物の変質変化〉だ。つまりは、生き物であれば母上の思い通りに肉体を改造できる。私たちと同じ、中々死ねない肉体にされたな……」
──なんということだ。
あの大いなる存在から恩恵を賜われたことに喜びを、誇りを感じる。受けた恩に相応しい者にならなければと背筋を伸びる。神の権能、鮮花の能力とは凄まじいものだ。いずれ自分も能力を開花させて、この御恩に報いらなければならない。
ふと、そんな思考が濁流のごとく脳裏に走る。
──なぜだ。
ネズミは我に帰り頭を振る。なぜ、そんな風に思うのか。
確かに香梨紅子は名前も居場所もくれた上に、自分を認めてくれた。
しかし、香梨紅子という人物を大して知らないにも関わらず〝誇り〟を感じるにはあまりにも不自然な思考だった。
──オレはあの方を知っていた?
ネズミが失った記憶に想いを巡らせていると、はたと重い沈黙が流れていたことに気がつく。
ザクロがネズミの手を握ったまま表情を曇らせていたのだ。何を考えているか察することができず、なんとも居た堪れなくなり、ネズミは口を開いた。
「あ、あの、すみません、ご迷惑おかけして。ここってザクロさんのお家ですよね? 寝床とお布団ありがとうございます」
「いいよ。今日からここがお前の家になるんだし」
ネズミの手を開放して、ザクロがそんなことを言う。
「え、じゃあザクロさんは何処に?」
「私は何処だって寝れる。なんだったら近くのリンゴ姉か、ミカン姉の家でも寝れるし」
それは流石に気が引けると、ネズミは頭を振る。
「オレなんかのためにわざわざ悪いです。新参者がお家を横取りするようなこと」
「じゃあここで寝る」
「いやいや、男女で同じの屋根の下でなんて。俺はどっか外で寝ますから、引き続きザクロさんがこのお家をお一人で───」
「おい!」
突如、ザクロの両手がネズミの顔に向かって突き出された。それに驚いて身を引いた次の瞬間には、万力のような腕力で頭を固定されていた。
「それ以上面倒なこと言ったら握り飯を剥奪する! 私はなぁ、ゴネゴネとゴネくり回されるのが一番嫌いだ! 面倒じゃない方向に頭を切り替えろ! 今日からお前は竹の子だ! ここで根を下ろせ! 天井を貫通するまで居座り続けろぉ!」
そんな怒声を散らして手に力が込められ、少女と思えぬ怪力によってネズミの頭蓋骨が悲鳴を上げた。
「ぐああああ! なんちゅう力ァアア!」
堪らずネズミは観念する。
「わかりましたァ! この家は俺が乗っ取ったァ!」
「良いノリだ、ネズミ! 期待以上だッ、フハハハハ!」
何やらご満悦の様子で大いに笑い、ネズミの頭部は解放された。
「危ない……ぺちゃんこになるかと思った……」
「この力も母上の鮮花の能力だ。普通の人間より怪力に改造されてる。多分、お前さんもな」
「なんと……」
「試しに後で重そうな石でも持ち上げてみろ」
言って、ザクロは立ち上がり、さっさと玄関まで歩いてゆく。
「飯食ったら外出てこい。ミカン姉が話したいってさ」
それだけ言い残し、ザクロは玄関の戸を閉じた。
──夏の嵐のような人だなぁ。
残されたネズミは、布団の傍に置かれた握り飯を一つ手に取り、白米の香りを嗅いだ。
獣の肉体になってから初めての食事だ。味覚まで変わっていないか? ネズミという動物は白米を食べていいものなのか? 少しだけ不安に感じ、ゆっくりと握り飯を口に運ぶ。
「……うめェ!」
それは幸福の味だった。米の一粒一粒の甘みが染み渡るように舌の上を踊り、海苔の良い香りが鼻をくすぐり通り抜けてゆく。
皿の端にちょこんと添えられた沢庵も、水筒に入った水の味も、人間の味覚と変わらない。むしろ人間の味覚より多くを受け取れている気がした。
──よかった。
米を存分に咀嚼して、ネズミは頬を綻ばせた。
飯を食べて幸せな気分になれる。それは自分が人間だからだろう。
それが、何よりのことだった。
✿
『……うめェ!』
ネズミの声は家屋の外に漏れ聞こえ、今しがた玄関を出た少女の耳にも届いた。
──んよし!
自分は器用な方ではない。いや、かなり不器用な方だ。
釣り竿を握れば、食い気を悟られて魚は逃げる。
針仕事などにしても、力加減を間違えて何度も糸を千切ってしまう。
握り飯も、握るというより握り潰してしまっていて、餅の成り損ないが出来上がる始末だった。
しかし今日、食べさせたい者の顔を想像して握ってみれば、不思議と上手くいった。
また明日も握ってやろう。明日もきっと美味いと言ってもらえる。
少女は気持ちを軽やかにして、弾む足取りでその場を後にした。
✿
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