第五話 ハートブレイカー Heartbreaker 3 ②


 ──どどん、という鈍い音が校庭の方から聞こえてきた。

 私は、はっ、と我に返った。

 目の前に早乙女正美のナイフが迫っていた。

 振り下ろされてきた一撃を、私は必死で地面に転がるようにしてよけた。

 逃げだそうと走り出しかけたが、足が、ずるっ、と滑るものに取られてぶざまに転倒してしまった。

 ぬるっとする、それは霧間凪が斬られて出た血の水たまりだった。


「──きゃああああああああっ!!」


 私は、ここではじめて悲鳴を上げた。

 早乙女正美が近づいてくる。

 私は振り返ろうとした。その指先に何かが触れた。

 黒光りするそれは、霧間凪が落としたスタンガンであった。


「……!」


 私はひったくるようにしてその武器を拾った。


「む…」


 早乙女正美が眉を寄せた。


「こ、来ないで!」


 私は、とにかく武器の先を彼に向けて、スイッチらしき握りのところを絞った。

 ばしっ、と火花が先端部で生じた。しかし、ほんの数センチだった。小さな光は、それだけではすごく頼りなく見えた。


「……ふん」


 早乙女正美が冷笑を浮かべた。


「それで、僕をどうしようって言うんです、委員長。その武器じゃ人は殺せませんよ」

「……な、なんなのよ、あなたたち──百合原美奈子は、いったいあれは何なのよ!?」

「彼女は百合原美奈子であって百合原美奈子ではない。本物はもう死んでいる。彼女はマンティコアだ」

「マンティコア……?」


 どこかで聞いたことのある名前だった。なんかのゲームで見たことがあった。たしかその意味は──

〝人を喰うもの〟……

 ま、まさか……それでは、それでは直子さんは──

 私の表情を見て、早乙女正美はこっちの考えていることがわかったらしい。にやりと笑った。


「そのとおり。すでに消化済みだ」


 平然と言った。罪悪感などかけらもない言い方だった。


「そ、それじゃあ、このところいなくなっていた人たちは、みんな──」

「まあ大体は。だが僕らとは関係なく家出したヤツもいるけどね」

「霧間凪は、あなたたちを捜してたのね……」


 それで、私たちを捕まえたのか。しかし私たちは無関係だと思って、そして離したのだが、まさにその中に彼女の敵が紛れ込んでいたということだったのか──


「私たちを隠れ蓑にしたのね……!」

「役に立ったよ。馬鹿なひとだ。自分たちはエコーズの味方をしていたくせに、敵にも同じように味方がいるとは思わなかったらしい」


 その落ち着き払った態度に、私の身体の奥から燃えるような怒りが湧いてきた。それは恐怖よりも大きかった。


「彼女が好きだとかいうのもデタラメだったのね!」

「いや、それは本当だ。しかしあの彼女はもういらない。それでも彼女だけはマンティコアにやらせずに、この手で殺したかったんだ。わかるかな? この感覚」

「わかるわけないでしょうが!」


 私は彼に向かって武器を突き出した。彼はひらりと簡単によけた。


「いいね、委員長。その目はいい──僕はそういう意志のある力強い目が大好きなんだ」


 私はかっとなった。


「こ、この……!」


 闇雲に武器を振り回した。かすりもしなかった。

 そのとき、私たちの頭上を何かが通り過ぎていった。

 あの〝エコーズ〟というひとだった。彼はグラウンドに叩きつけられた。ぶっ飛ばされてきたのだ。

 全身がもうボロボロだった。

 彼に気を取られたその隙に、早乙女正美が私の手首を蹴った。


「あっ!?」


 と声を上げたときにはもうスタンガンは手から離れて飛ばされていた。

 そのとき、背後から百合原美奈子の声がした。


「もういいわ、早乙女君。あとは私がやるから」

「そうかい」


 と早乙女正美がスタンガンを拾って一歩後ろに下がったので、私はエコーズのところに駆け寄った。

 彼はひどい有様だった。右腕が肩から半分ちぎれかかっていた。身体中傷だらけで、血まみれだった。


「だ、大丈夫!?」


 私は彼を抱き起こした。

 彼は弱々しく目を開けた。


「う、あ……」


 苦しげな声が紫色の唇から漏れた。


「委員長、そいつに助けを求めても無駄よ。もう死ぬもの」


 百合原美奈子が──いやマンティコアという名の怪物がせせら笑いつつ言った。


「しかし、ずいぶんと簡単だったな。これなら余計な手間をかけずとも、君の実力だけで倒せたんじゃないかい」


 早乙女正美が気楽な口調で言った。


「まあね、こんなに弱いとは思わなかったわ。もっと強かったはずなんだけどね」


 マンティコアは、ふふ、と含み笑いをした。

 私は、きっ、と彼女を睨みつけた。


「あんたたちは悪魔よ! この人でなし!」


       ●


 ひとでなし、と自分を抱き留めている少女がさけぶのを、死にかけているエコーズは聞いた。

 ひとではない、人間の資格がない、という意味の言葉だった。

 彼にはとうとうわからなかった。

 人間は、どっちなのだろうか?

 普通の人間でない彼を捕らえて、強引かつ容赦なく肉体を調べたのは人間であった。マンティコアを造ってしまったのも人間であった。そして、さまよっていた彼を助けてくれた黒帽子の少年や紙木城直子、それに霧間凪も同じ人間であった。

 どっちなのだ?

 どっちが本当なのだ?


「ははは! バッカじゃないの、あんた!」


 マンティコアが少女を嘲笑っている。


「私は元から人間なんかじゃないわよ。それに早乙女君だって、あんたらみたいな愚かな人間とは全然ちがうのよ。悪魔? おおいに結構! あんたたちにそう呼ばれるのはむしろ心地いいわ!」

「必ず、あんたたちは滅びるわ!」


 少女はひるまずに言い返した。


「私とこの人はここで死ぬけれども、私と同じように、あんたたちを許せないと考える人は必ずいる! あんたたちが地に潜って隠れたとしても、あんたたちが利用しようとするような世の中の歪みを憎む人間が、いつか必ずあんたを再び見つけるわ! 霧間凪のようにね!」


 少女は、ボロボロと涙をこぼしていた。

 悔しいのだろう。

 自分が殺されることがか?

 もしそうなら、なぜこの少女は彼を、こんなにもしっかりと抱き留めているのだろう?

 まるで、彼をマンティコアから守っているかのように。

 傷ついて街をさまよっていた彼を介抱した紙木城直子のように──


(……人間──)


 彼には、もう時間がなかった。

 決断するのは、今しかなかった。


       ●


「霧間凪、ねえ?」


 マンティコアはくっくっと笑った。


「霧間凪には、これから変わるのよ」

「……?」


 私には意味がわからなかった。


「なんのことよ?」

「だから、このあと私は百合原美奈子から霧間凪に変わる、と言っているのよ」


 一瞬理解できずに頭が空白になり、次に愕然となった。


「──な、なんですって!?」

「格好の素材なのよ。変人だから多少奇妙な行動をしても誰にも咎められないし、資産も情報収集力も普通の人間とは比べものにならない。まさにうってつけだわ。百合原美奈子が失踪することで生じる騒ぎは目立つから避けたいところだけど、それを覚悟してでも手に入れるべきメリットだわ」

「…………!」


 私は、びくっ、と痙攣するように彼女の後ろに立っている早乙女正美を見た。彼はさっき言った──〝あの彼女はもういらない〟と……それは〝新しいこの彼女がいるからだ〟という意味だったのである。

 早乙女正美は無表情で、私たちの方を見ている。

 私は言葉を失った。


「それに、新刻敬──あんたも世間的には死ぬことはない。改造され〝スレイブ〟として生き続けることになる。あんたの心はなくなって、たとえ好きだった男に会ったとしても何にも感じなくなっちゃうけどね……」


 マンティコアはそう続けた。

 私は愕然となった。

 その姿がありありと見えたのだ。

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