第五話 ハートブレイカー Heartbreaker 2 ①
『……二年D組の霧間凪さん、二年D組の霧間凪さん、学校にまだいるなら、至急放送室にまで来てください。紙木城直子さんのことでお話があります。二年D組の霧間凪さん……』
田中志郎によるその声は、もうすっかり闇に包まれている学校の中に反響した。
それは当然、唯一学校に残っていた宿直の若い独身の男性数学教師の中山春男のところにも届いた。
しかし、中山は、
「ぐう……」
と、つくりかけのカップヌードルカレーを前に、テーブルに突っ伏して鼾をかいていた。
彼は、門番の風紀委員が持ってくるはずのマスターキーの管理者でもあり、その受け取りを日誌に記載しなくてはならないのであるが、そのことを果たす前にこの有様だった。
「ぐう……ぐが」
だが、これは彼が怠慢だったというわけではない。
彼の両手は居眠りというにはあまりにも不自然なほどの脱力で、だらん、と床に垂れていた。頰は机にべたりと張り付くようで、首はほぼ完全に真横を向いており、起きたら寝違えを起こしていることは確実だった。
「ぐう……ぐ、ぐぐぐが……」
鼾も、もともと決して健康的でないものが、彼のものはさながら飢えた野良犬のうなり声のようである。
彼はただ寝ているのではなく、事実上の人事不省状態に陥っていたのだ。
しかも、その部屋にいるのは彼だけではなかった。
その横には、一人の少女が立っていた。
「…………」
彼女は、声の流れ出てくるスピーカーを睨むように見ていた。
部屋の中には、甘ったるい異臭が立ちこめていたが、中山春男を昏倒させたその香りの中でも、長い黒髪を持つ美しい少女は眉一つ寄せていない。
彼女こそその香りの元なのだから当然であった。
彼女は放送が始まってから十秒と経たないうちに、宿直室から飛び出して上の階へと向かった。
残された中山春男は、このあと何年にもわたって、本人には全く身に覚えのないLSDのフラッシュバック現象にも似た、日常生活で偏頭痛のように突然襲ってくる幻覚に悩まされ続けることになる。
彼はこの謎の〝病気〟を呪ったが、彼は己の途方もない強運を知らなかったのである。
彼が命長らえたのは、殺人鬼たちの、あまり殺しすぎると目立つから、というだけの、単なる気まぐれであったことを。
●
「──!?」
霧間凪も、この放送を聞いて顔を上げた。
彼女は、学校の生徒のすべてのロッカーをこじ開けてあさっている最中であった。むろんマンティコアの痕跡を調べるためだ。その横には学生服を着たエコーズも立っていた。
「どうして、オレがまだ学校にいることを知ってるんだ? それに、直子のことまで……」
「放送室……」
エコーズも、放送の中の単語からその名を取りだして口にした。
「エコーズ! 気配はあるのか!?」
霧間凪は彼に尋ねた。彼が自分の複製たるマンティコアとある種の共振があり、気配を感じることは紙木城直子から聞いていた。
「…………」
エコーズは額に指を当てて感じようとしたが、なにもないらしく、首を振った。
「しかし、ここまであからさまに呼び出して、今さら気配を隠す必要はないだろう?」
凪はイラだって言った。
エコーズは首を振るだけだ。だが、マンティコアは自分とは比較にならないほど、人間社会から〝学習〟したであろうことは彼にはわかっていた。これは罠なのだ。
「…………」
彼は凪の肩を摑み、ぐっ、と後ろに押した。来るな、という意志表示だ。
「……なんでだよ。罠だから?」
凪は言った。彼女もわかっていた。
エコーズはうなずいた。
「だったらなおさらだ。この罠でオレたちが引っかからなかったら、奴はまた姿を変えて逃げるだろうよ。この学校からな。そしたらもう追えないぜ」
凪は静かに言った。
「…………」
エコーズはそんな凜々しい彼女を、じっ、と見つめている。そして心の中で呟く。
(……どっちなのだろう?)
だがその声を聞くことのできた少女はもういない。
凪は革の手袋をスカートのポケットから出して塡めると、腰の後ろにベルトで留めてあったスタンガンを取り出した。制服姿にそれは、全然似合ってなかった。
彼女は作動テストで、グリップを握りしめてみた。
バシッ、と二百万ボルトの火花が飛び散った。
●
「……来ないなあ」
田中くんが呟いた。私たちが放送してから、もう五分近く経っていた。
「先生も来ないわね、どうしたのかしら」
私は、今日の宿直が中山先生だったのを思いだした。あの先生はどちらかというと神経質で細かいことをおろそかにしないタイプだから、予定にない放送があって、ほっとくということは考えにくい。居眠りでもしているのだろうか。
「…………」
早乙女くんも深刻な顔をして考え込んでいる。
「どうしよう?」
田中くんが我慢できないと言った調子で私と早乙女くんの方を振り返った。
「もう一度、放送してみよう」
ぽつり、と早乙女くんが呟く。
「でも、さっきのが聞こえなかったはずもないし、やっぱりもう学校にはいないのかも知れないわ」
私は両手を広げた。
「うーん」
と田中くんは唸ったが、早乙女くんはなおも強い口調で、
「いや、やろう」
と言った。
そして彼が放送室の操作卓に指を伸ばしたとたん、突然すべての明かりが一斉に消えた。
「──わっ!?」
放送室には窓がない。完全に真っ暗になった。
「て、停電?」
私たちはあわてた。
「ちっ、ブレーカーか!」
早乙女くんが舌打ちする声がした。何のことかと思った。だが、ブレーカーが落ちたから暗くなったのだ、ということだろう。なるほど。そう言えばそうだ。ずいぶん彼は頭の回転が速い。
でも、なんでいきなりブレーカーが? あれはわざとでもない限り、電気使用量が多いときに落ちるものだと思っていたけど──
私が手探りで、なんとかドアにたどり着いて開けると、廊下の窓からの月明かりが、さーっ、と室内に入ってきた。
それと同時に、黒い影が私の前に立ちはだかる。
「え…」
と顔を向ける間もなかった。その影が私に何かを押し当てると、私の全身を、どん、という衝撃が走った。
「──ひっ」
口から勝手に息とも悲鳴ともつかぬ声が出て、私は床に崩れ落ちた。身体に力が入らなかった。
「委員長!?」
背後から早乙女くんの声が、ひどく遠いものとして聞こえた。影は私の横を素早くすり抜け、早乙女くんにも襲いかかった。
どすん、と早乙女くんが倒れる振動が床を伝わって届く。
「あ、あんたは!?」
と田中くんの悲鳴。
そこまでだった。私の意識はだんだん遠く、かすれていった。
……目が覚めたとき、私はワックスがたっぷりかけられている板張りの床に縛られて転がされていた。
周囲は暗い。だが外の月の光が入ってきているらしくて校内よりは明るい。かなり広い場所だ。
大きな窓面積を持つ、板張りの広い空間は学校では一つしかない。ここは講堂だった。
(──な、なんなのよ……?)
私は身を起こそうとした。
でもまだ全身が鉛のように重かった。さっきの衝撃が残っているのだ。
横には早乙女くんと田中くんも、同じように倒れていた。私は膝で彼らの背中を小突いた。
「ち、ちょっと…!」
「う、ううん」
早乙女くんがもぞもぞと動いて、目を覚ました。
「ここは……」
と彼は言いかけて、そしてはっと口をつぐんだ。
「? どうかし──」
と言いかけて首を回した私も、彼と同様に絶句した。彼の視線の先には二つの人影があったからだ。
「全員、起きたか」
ひとつは霧間凪だった。
もうひとつは、よくわからないが男子生徒のようだった。制服を着ていた。でも見ない顔である。
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