第三話 世に永遠に生くる者なし No One Lives forever 2
早乙女正美が、生まれてはじめて好きになった相手、二年生の霧間凪に告白したのは五月のことだった。しかし、結果はあっさりと振られてしまった。
「悪いけど、そんなヒマはないんだ」
と言うのが彼女の答えだった。
「……年下はいやですか」
「いや、そーじゃなくって……あんた、フツーのヤツだろ。オレに関わるとトラブルになるからさ。ごめんね。気持ちはうれしいけど」
「……そうですか」
だが彼は不思議なことに、このことであまり傷つかなかった。むしろ彼女に冷たくあしらわれたことに安堵さえしていた。
彼がその時の気持ちの正体に気づくのはこれより二ヶ月後のことである。
「おい、早乙女。おまえ草津を送ってけよ。おれは野口と行くからよ」
カラオケも切り上げ時が近くなって、坂本が正美に囁いた。
「ああ、わかった。うまくやれよ」
正美も囁き返した。
四人が店を出たところで、急に、
「あたし、なんか気分が悪いわ……」
草津秋子が青い顔をして言った。
「そりゃまずいな。じゃ、僕が家まで送ってくよ」
と正美がすかさず彼女の肩を抱いて言った。
「えーっ、ちょっと早乙女君」
野口佐知子があわてた。このままでは彼女は坂本と二人きりになってしまう。
「君らはこのまま楽しんでろよ。大丈夫、僕が責任もって彼女を面倒見るからさ」
「えーっ、でもぉ……」
「早乙女もこう言ってるんだ、俺たちは俺たちで行こうぜ、な?」
坂本が言い、そして男二人の打ち合わせ通りに二人ずつになった。野口佐知子は、坂本の「なんにもしないって!」という言葉に押し切られる形になった。
正美たちと別れた後で、彼らは結局ホテルに行って関係を持ってしまい、しかもそれが野口佐知子の両親に知られて、古風な野口の父親が激怒して坂本が学校にいるところに怒鳴り込んできたりして、その騒ぎのために彼らはこの後で起きる事件に関わり合う余裕がなくなってしまうことになる。当然、早乙女正美と一緒に行動したことさえも忘れてしまったのであった。
「じゃあな」
「おう」
四人はこうしてふたつに離れていった。
「気持ち、悪い……」
正美に支えられ、運ばれながら草津秋子の声はだんだん弱々しくなっていった。
正美は話しかけようとはせず、ただ黙って彼女を荷物のように扱った。
草津秋子もそれで気を悪くする余裕はなかった。彼女の顔色は蒼白を通り越して、今や血管が浮き上がって見えるほどになっていた。
正美はかまわず、そのまま裏通りに入っていった。街のにぎやかな表通りから一本道路を移動しただけで、そこはもう喧噪とは何光年も離れたような静まり返った墓場の如き場所である。
そこに、再開発に失敗してほったらかしにされている巨大な立体駐車場があった。本来はビルになるはずの土地だったのだが、テナントの借り手の目処がまるで立たなかったために、駐車場にするしかなかったという場所だ。それも、管理者が破産してしまって、今では国の不良債権の一つとして放置されている。
柵に覆われているそこに、正美は草津秋子を抱えて入っていった。秋子は何も言わない。いや、そのとき彼女はすでに息をするのをやめていた。
正美は彼女を引きずって、駐車場の七階まで上がった。ここまで来れば、イタズラで入り込む者がいても出くわすことのない高さだ。
草津秋子を放り出すと、彼は駐車場から外に顔を出した。と言っても周囲は真っ暗で、普通の人間であれば下から見上げても彼の姿を捉えることはできない。
彼は腕時計を見た。ライト機能のついたデジタルである。アナログと違って音がしないという利点がある。
時刻を確認し、彼は一人うなずく。
下の暗黒に向かって、彼は手を振った。
すると、はるかな底で、こつん、というまるで板に釘を打ち込むような音が響きわたった。
そして、正美の前の空間に、突如として一つの人影が浮かび上がる。
少女である。
その影は正美の横をすり抜けて、駐車場の中に入ってきた。ちょうど最高点に達したところで着地したので、下の地面を蹴ったときのような音はない。
そう、少女はジャンプして、七階の高さを跳んできたのである。
長い豊かな、頭にぴったりと張り付くような黒髪の少女は正美の方を振り返った。手には予備校帰りのバッグを持ったままだ。
百合原美奈子である。
「……首尾はどう?」
彼女は正美に訊く。
正美はうなずいた。
「ほら、そこに」
と横たわったままぴくりとも動かない草津秋子の死体を指さす。
「こっちなの。もう一方の女の方が良かったわ」
百合原は眉を寄せて言った。まるで動揺というもののない口調だ。
「いや、そうでもない。こっちの女の方が意外に交友関係が広いんだ。中学の頃の友人がかなりいるし」
正美も冷え切った声で答える。
「そう? まあいいわ。早乙女君の方が詳しいだろうし」
百合原は正美にバッグを渡した。正美はホテルのボーイのように受け取る。
百合原は、草津秋子の前に屈み込む。
「……しかし、今すぐ喰えないのは生殺しだわ」
美しい顔をゆがめて言う。
「なに、こいつで釣れば、すぐに四、五人は摂取できるさ」
正美がかすかに笑う。
「いまは辛抱だよ、マンティコア」
「人間社会ってのは、面倒くさいものね」
マンティコアと呼ばれた百合原は、ため息をつきながらも草津秋子の顔に自分の顔を近づけていった。
長い髪が下に垂れそうになるのを指先で払いあげつつ、その死体にキスをする。
舌で相手の口をこじ開けて、人工呼吸のようにその体内で合成したエキスをガス状にして草津秋子のなかに流し込む。
その妖しげで不気味な光景を暗がりの中で見つめながら、正美はうっとりとした顔をする。性的な快楽を得ているような顔で、射精の瞬間さえこうもとろりと表情はとろけまいという目である。
たっぷり三十秒ほど、百合原はくちづけを続けた。
やがて離れると、その口を手の甲で拭った。真っ赤な唇のくせにそれはルージュではなく、その色が手に移ることはない。
それどころか薄化粧をしているとしか思えぬすべらかな肌の色さえも地のままなのだ。本物の百合原美奈子をコピーした際にそのまま写してしまったからである。
「……しばらくすれば再活性化が始まるわよ」
百合原は満足そうな笑みを浮かべた。
「ふむ」
と正美がかるく死体を蹴ると、その指先がびくんと跳ねた。
がくがく、と激しく死体の全身が小刻みに震えだす。高圧電流に感電しているかのようだった。
そして、バネ仕掛けのように上体が跳ね上がった。
目と口がかっと開き、その両方から涙とも唾液ともつかない青い液体がだらだらと垂れ落ちる。
「──おっと。これを吸うわけにはいかないんだったな」
正美は液体の揮発成分の甘い香りから逃げるために少し離れた。
「そうよ。人間で言うところの麻薬ですもの。早乙女君にまで中毒になられちゃ困るわ」
百合原は正美と入れ替わりに草津秋子の前に立った。そして命じる。
「──こっちを向け、女」
死んでいるはずの草津秋子は、言われるままにゆっくりと首を動かして百合原の方を向く。液体の流出はすでに止まっていた。
「おまえには能力を与えた。人間を堕落させる能力だ。その能力を使って私に人間を貢げ」
百合原の、普通の社会では考えられない常識離れの言葉に、さっきまで死んでいた娘はこっくりとうなずいた。
「いいか、堕落させて、周囲の人間が突然そいつが消えても、最近は素行不良だったからなと勝手に納得してくれるようにするのだ……おまえ自身も含めてな」
その後ろで、正美が授業参観で我が子が先生の質問に的確に答えたときの親のように、満足げにうなずいている。
百合原の囁きは続く。
「そしておまえはここで起こったことを記憶しない。おまえはあくまで自分の意志で堕ちていくのだ……」
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