第一話 浪漫の騎士 Romantic Warrior 3 ①

 その夜、僕はとうとう藤花の家に電話してしまった。


「はい、宮下でございます」


 お袋さんが出たので、僕は真面目くさって言った。


「もしもし、私は深陽学園で風紀委員をやっている竹田というものですが、藤花さんはいらっしゃいますか」


 風紀委員、と聞いて受話器の向こうでお袋さんが息を吞む気配がした。


「あ、あの藤花がまたなにか──でも高校に入ってからはあれも出なくって──」


 あれ、か。


「とにかく、ご本人と話したいのですが」

「は、はい。少々お待ちください」


 高校生のガキに言うような科白でないな。ふつうのおばさんだったら「待っててね」だろう。よほど焦っているみたいだ。


「はい、かわりました」


 彼女の、普通の声がした。


「竹田だけど」

「はい」


 そっけない返事だ。しかしこれはお袋さんが横で聞き耳を立てているのだろう。

 宮下家は、今時親子電話でさえないらしい。


「こないだの日曜だけどさ、どっか出かけた?」

「いいえ、別に」


 と言いながら、彼女はこんこん、と受話器を叩いた。これはきっと、例のサインの二本指を立てるヤツをあらわしているのだろう。

〝ごめんなさい、今はちょっと〟だ。

 わかっている。でもそれでも訊いてみる。


「あのさ」

「はい」

「ブギーポップって知ってる?」

「え?」


 彼女は間抜けな声を出した。虚を突かれて、地が出たのだろう。


「なんですか、それ?」


 演技ではなく、ほんとに知らないという声だった。


「いや、いいんだ。なんでもない。宮下の声がさ、ちょっと聞きたかったんだ。ごめん」

「ありがとうございます」


 彼女はバカ丁寧に言った。しかしこれもお袋さん対策で、実際には「嬉しいわ」と言ってるのだ。

 やっぱり、嫌われたわけではない。


「じゃ、また明日、学校で」

「はい、失礼します」


 受話器は僕が先に置いた。


「…………」


 僕は腕を組んで、考え込んだ。確かにあいつ──ブギーポップの言ったとおりだった。藤花は、昨日のデートの約束と、今朝放課後に会おうと打ち合わせしたのを完全に忘れているのだ。


「彼女は何も知らない」


 あいつは、夕日が射し込む学園の屋上で僕にそう言った。


「知らないという立場を崩すようなことも、同時に知らないようにしている。だから昨日、君とデートしなかったという矛盾を消すために、そもそもデートしようとしたことさえ精神から消し去ってしまうんだ」

「消し去る、って──」


 僕は啞然としながら〝彼〟の話を聞いていた。


「そ、それはつまり約束したことさえ忘れるってことか?」

「そういうことだ。でもこれは決して君を軽んじているからじゃない。むしろ逆さ。彼女は確かに君が好きなんだろうよ。だからこそ、かえって忘れるのを完璧にしている節もある」

「? どうして」

「そうすれば罪悪感を感じないからさ。やっぱり彼女は、君に嫌われるとか考えたくないんだ。しかもそれは、自分じゃどうしようもないことなんだからね」


 と、まさにその彼女の顔で、こいつは言うのである。


「お、おまえは一体何なんだ!? いつから彼女に取り憑いているんだ!」

「取り憑く、ってね、そういう言い方はやめてくれないか。ぼくだって好きで出てきているんじゃないんだ」

「じゃあ、何でだよ!」

「危機が迫っているからだ」


 じっ、とこいつは僕を見つめてきた。

 僕は訳もなくたじろぐ。それは鋭い眼光であった。


「ぼくは自動的なんだよ。周囲に異変を察したときに、宮下藤花から浮かび上がって来るんだ。だから、名を不気味な泡ブギーポップという」


 どうも自分で付けた名前らしい。


「異変って……なんだよ」

「この学校には魔物が巣喰っている」


 そう言う目つきは、こんなことを言うのは僕もおかしいみたいだが、完全に正気に見えた。

 既に陽は落ちかけていて、屋上の上には長い影が走っている。ブギーポップの黒い格好は、その中で半分消えかかっているようにさえ見える。


「しかも周囲に溶けこんでいる。大変危険なヤツだ。今はまだそれほどの活動を開始していないが、本格的に動き出されたら世界はおしまいだ」


 言葉だけみると、完全にサイコさんの科白なのである。だが、実際に見つめられて話されると、ひどく説得力があるのだった。


「……おまえ自身そのクチじゃねーの?」


 僕はそれでも、精一杯の反抗を試みる。確かに、こんなヤツに藤花の身体を乗っ取られたら僕にとって青春せかいは終わりに等しい。

 ところが藤花のもうひとつの人格は平然と言った。


「うん、それはわかっている。だからぼくはそれほど長くは出ていない。これも自動的にだ。あとは宮下藤花として静かに生きている。君と恋を語り合ったりね」

「恋、って──あのなあ」


 どうもこいつの言葉遣いは変に大時代的だ。僕のことを〝君〟とか、まるで明治時代の書生みたいな呼び方をする。


「現に今日も、そろそろぼくの時間は終わりだ。放課後以降はこうして張りこんでいても意味がない。みんな家に帰ってしまうからな」

「……ってことは、おまえの言う危険なヤツというのは、生徒のなかにいるってことか?」


 僕は、ついつられてそんなことを聞いてしまった。

 ブギーポップはうなずいた。


「おそらく」

「なんなんだよ、そいつは?」

「知らない方がいい」

「どうして?」

「危険だからだ。感づかれたら君の身も危ない。宮下藤花の恋人を危険な目にあわせたくないんだ」


 くどいようだが、こういうことを彼女の顔と声で言うのである。


「そんなにヤバいんなら、なおさら教えてくれよ。その身体はおまえだけのものじゃないんだぜ」


 言いながらも、何を真剣に相手してるんだ俺は、という気持ちが一方にあった。こんなもの、精神が不安定になった藤花の、ちょっとした神経症の妄想なのに──それはわかるのだが、しかし目の前にいる人間は、どう見ても藤花であって藤花でないのだった。そうとしか感じられないのだ。

 ふう、とブギーポップはため息をついた。


「しかたないな。だが絶対に他人に言ってはいけないぜ」

「ああ」


 僕は唾をごくりと飲んだ。何を言われても驚くまいとして。

 だが彼氏の言葉は、シンプルすぎてかえって僕の意表を突いた。


「いるのは〝人を喰うもの〟だ」



 ……僕は藤花の家にかけた電話を切ると、がっくりと自分の部屋のベッドに座り込んだ。

 頭が混乱していた。

 二重人格だって?

 学校に、いや全世界に危機が迫っているだって?

 なんじゃいそりゃあ!!

 誇大妄想もはなはだしい。学園モノのRPGの設定じゃあるまいし。


(でも、藤花を精神病院とかに連れてくってのもなあ……)


 ブギーポップは「彼女はすべて忘れる」と言っていた。ということは、下手すりゃ病院なり医者なりに接触しても、その間ブギーポップは出てこず、彼女はひたすら正気で、連れていった方がマヌケ、ということもある。

 僕は学校からの帰りに買った『心の中の叫び─多重人格について』という文庫本を開いてみた。なるたけ易しそうなのを適当に選んだのだが、なにせ本屋で探してみたらあるわあるわ、なんだかそういう精神病理のコーナーさえあり、世の中は充分おかしいという気になったものだ。

 作者が喋っているみたいな文章で書いてあって、読めることは読めるが、それでも難しい字がずらずら並んでいて頭がくらくらしたが、しかし「この症例は日本では極めて少なくて、ほとんど見られない」と書いてあったのには引っかかった。

 よくわからないのだが、多重人格というのは抑圧的な現実に縛られている人間が、その現実生活と相容れない自分の感情を別の人格に託して新しい生活を造ろうとする、というのが基本なのだそうだ。

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