第一話 浪漫の騎士 Romantic Warrior 3 ②

「人間の可能性は善にも悪にも開かれている。二流の社会生活に押さえつけられた可能性が独立して存在を主張するのが多重人格だと私は考えている。それがどんなに病的で本人や周囲に対して破壊性のあるものでも、可能性に善悪の区別はない」とかなんとかわかったようなわからないようなことが書いてある。で、日本ではその大本の行動規範がはっきりとした形を取らないことが多いので、多重人格よりも分裂病になってしまうことが圧倒的に多いらしい。具体的には「神様」と「世間様」の違い、とか説明されている。

 著者名を見ると霧間誠一とあった。奥付にはプロフィールも何も書いてないので、どういう人かはわからない。しかし、なんとなく正しいことを言ってるような気がした。


(じゃあ、ブギーポップはどういう可能性で、何が彼を押さえつけているんだ?)


 僕はベッドにごろりと横たわり、天井を見上げる。

〝泣いている人を見ても、何とも思わないのか?〟

 また、あの言葉が頭に浮かんだ。どういうわけか、ひどく気になるのだった。



「……ということらしいんだが、自分じゃどう思ってるんだ?」


 翌日の放課後、僕はまたブギーポップと会っていた。場所も同じ屋上だ。


「押さえつけられた〝可能性〟ね。ふむ、なるほど。まあそう言われればそうかも知れないが」


 教室に行ったら宮下がいなかったので、もしやと思って来たらやっぱりいたのだ。どうやら授業が終わると同時に〝入れ換わった〟らしい。


「しかしぼくの場合、宮下藤花の可能性というわけでもないしな」

「じゃあ何なんだよ」

「うん。そうだな。……この世界の、さ」


 さらりと自然に言うので、僕は一瞬意味が摑めない。世界? なんのことだ?

 しかし彼は僕の空白にもかまわず続ける。


「ぼくには主体がないんだ。宮下藤花が何を考えているのか、ぼくにはわからない。あるいはぼくを生み出すような秘められた欲望というか、可能性があるのかも知れない。しかしそれとぼくとは関係がないんだ。ぼくには夢というものが欠落している。ぼくは自分がやらねばならない義務というか、使命のためにここにいる」

「……それが、全人類の危機、ってやつか?」

「うん」

「なんで、おまえなんだよ」

「なんでなんだろうね……ぼくも、それが知りたいよ」


 ブギーポップは頭上に広がる空を見上げながら嘆くように言った。

 そして、僕の方を見ないで続ける。


「しかし、なんだね。君はぼくを〝治し〟たいのかな?」


 僕はぎくりとした。無論、そのつもりではいる。なんと言っても宮下藤花は僕の彼女なのだから。しかし、なんとなく〝なにがなんでも治してやらなきゃ〟という気がするかというと……。


「いや、まあ──どうなんだろう」


〝彼〟の反応を警戒してこう答えたのではなく、ほんとうに、よくわからなくなっていた。見たところ誰にも危害を加えるとかそういうのでもないようだし。藤花自身、それで困ってるわけでもないのだ。


(せいぜい俺とのデートをすっぽかすぐらいだしなあ……)


「まあ、実際ぼくなんかはいない方がいいんだろうけどね……義務さえなければ」


 その横顔は、ただでさえ好きになった女の子のそれで、しかもどこか寂しげですらあるので、僕はついうっかりと言ってしまった。


「……大変なんだな、おまえも」


 とても誇大妄想狂の多重人格のたわごとに対する返事とは思えない。


「うん、まあね。でもぼくはほら、出ているのは少しだからさ」


 中途半端な慰めで怒るかと思ったのに、彼はしみじみと返事するのだった。この態度は、ほんとに全然キじるしらしくない。

 僕も彼と一緒になって空を見上げた。その日は曇っていて、この前みたいなきれいな夕焼けはなくどんよりと暗いだけだった。今にも氷雨が降ってきそうな感じの、気が滅入る空だった。


「あのさ──ちょっと訊いていいか?」

「なんだい」

「はじめておまえを見かけたとき、あの浮浪者になんて言ったんだ?」

「大したことじゃない」

「どうして、あいつを泣きやませることができたんだ?」

「単に必要な助言をしただけだ。誰だって、苦しいときには人の助けを必要とするものだ」

「助けを必要としていた? なんでそんなことがわかるんだ?」

「彼は泣いていた。苦しんでいたのは一目瞭然だろう?」


 当然のように、至極あっさりと言う。


「でも、でもさ──」


 僕はうまく口が回らず、そしてため息をついた。


「……俺たち普通のヤツには、そんなわかり方はできないんだよ」


 言いながら、なんだか自分がひどくみじめに思えた。


「君はいい人だなあ」


 急にブギーポップが言った。


「は?」

「いや、宮下藤花が君のことを好きになったのもわかる気がするよ」

「……その顔で、そういうことは言うなよ。明日宮下と会ったとき、どんな顔すりゃいいんだかわからなくなる」


 喋った後で、これはまるっきりブギーポップの独自性の存在を認めた言い方だな、と思った。

 ブギーポップは奇妙な顔つきをした。目深に被った帽子の下で左眼を細めて、口元の右側を吊り上げた。藤花では絶対にしない左右非対称の表情だった。


「気にするなよ。ぼくはぼく、彼女は彼女さ」


 後で思うと、あの表情は苦笑いだったのかも知れないと気づいたが、そのときはわからなかった。ただ、妙に皮肉っぽい、悪魔的な感じのする表情だなと思っただけだ。

 僕は結局、こいつの笑顔というのを最後まで見なかったのだ。

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