総督の遺言
西季幽司
プロローグ「雲と月」
一八九四年、日本の年号では明治二十七年、中華の大地を支配する大国清の年号では光緒二十年、朝鮮半島での覇権を巡り、日本は清国との開戦に踏み切った。近代化を推し進める日本軍は、旧態依然の腐敗した官僚制度から抜け出せずにいる清国軍を圧倒、瞬く間に平壌城を陥落させた。
勢いに乗った日本軍は、黄海の制海権を巡って、清国の北洋艦隊と激突する。黄海海戦だ。海戦はほぼ互角の勢力を有する近代的な装甲艦同士の激突だった。機動力で勝る日本連合艦隊は伊東祐亨司令長官の巧みな指揮のもと北洋艦隊を圧倒、四時間に及ぶ激戦の末に撃破した。
連合艦隊はほぼ無傷だったが、清国側は主力艦五隻を失う大損害を受けた。
黄海海戦の勝利の報に接した大本営は、北洋艦隊の基地があった旅順要塞を攻略する好機であると判断し、軍を旅順へと進めた。士気の下がっていた清軍は旅順の攻防戦にも破れ、旅順要塞は陥落した。
破竹の勢いに乗る日本軍はその後も終始、戦局を有利に進め、朝鮮半島及び遼東半島を実効支配した。
世に言う日清戦争である。
戦局の不利を悟った清国は、翌年には早くも停戦と講和の為に、全権大使として
一八七〇年、李鴻章は皇帝のお膝元である北京市一帯の直隷地の軍政・民政を統括する直隷総督となり、対外通商と外交事務を担当する北洋通商大臣を兼ねた。
位人臣を極めた――といって良いだろう。
三月十九日、李鴻章が当時「馬関」と呼ばれた今の山口県下関に到着、
交渉の席上、日本側は台湾の割譲を要求、李鴻章は「台湾本土に日本軍は上陸しておらず、筋が通らない」と反論した。
三月二十四日、停戦を求める清国側と譲歩を求める日本側の交渉は平行線を辿るばかりで、李鴻章は失意のまま宿舎である引接寺へと引き上げるしかなかった。
「李全権大使――!」
春帆楼の門前で輿に乗ろうとした李鴻章に声をかける者があった。
門前は清国の全権大使として派遣されて来た李鴻章の姿を一目見ようと、野次馬で溢れていた。声の主を確かめようと李鴻章が野次馬を振り返ると、一人の男が人ごみを割って前に踊り出て来て、懐から短銃を取り出した。
――ごおん!
濁った音が周囲に響いた。
李鴻章はまるで殴られたかのように大きくのけぞると、顔を押さえ、片膝をついてうずくまった。付き人の清国側の役人が「総督!」と李鴻章を助け起こした。
男は致命傷を負わせることができたかどうか、確認しようと銃を片手に「どけ!」と叫びながら李鴻章に近づこうとした。
男が短銃を持っているのを見て、輿を担ぐ人足が「わっ」と悲鳴を上げながら逃げ去った。逃げ惑う人足に混じって清国の役人の姿が見えた。
清国の役人が自らの体を盾に照準を遮りながら、李鴻章の体を輿へと押し込もうとした。男は二発目の銃弾を撃ち込もうと焦った。
その時、駆けつけた憲兵の一人が、背後から男に飛びかかった。男を地面に押し倒すと、直ぐに二人、三人と警察官と憲兵が加わった。
「おのれ~!うぬらは奸賊に味方するのか――!」
男は憲兵に取り押さえられながら喚いた。
男は群馬県館林出身の自由党系の壮士で、名を
狂気を纏った人物だった。
騒ぎが収まって輿を担ぐ人足が戻って来ると、「
僅か二メートルの距離から銃撃された。小山の放った銃弾は的を過たず、李鴻章の顔面、左の眼の一センチ下の頬に着弾していた。
李鴻章の顔面は朱に染まっていたが、意識はしっかりとしていた。李鴻章は輿の中で「
当時の短銃は操作性が極めて悪く、命中精度が低かった。火薬として黒煙火薬が用いられていたことから、殺傷力が弱く、李鴻章の顔面の傷も致命傷には程遠かった。
とは言え、和平交渉の為に訪れていた使節団の全権大使が暴漢に襲われたのだ。馬関は大騒ぎとなった。当然のように講和交渉は一時中断となり、引接寺には李鴻章を見舞う人たちが列をなした。
講和交渉とは言え、国を代表して訪れた他国の全権大使に傷を負わせてしまったことを恥じた馬関の市民たちは、李鴻章の快癒を祈願し、見舞いと称して巨大なガラス水槽に魚や蛸たこを入れて引接寺の病室に搬入したという。
引接寺に弥助という下男がいた。
気の良い若者で何を頼んでも「ほいほい」と引き受けてくれることから、「ほいほいの弥助」と呼ばれていた。
弥助は顔面、血だらけで引接寺に担ぎ込まれた李鴻章を見て肝を潰した。「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」と右往左往するだけで、医者でもない弥助に出来ることなど何もなかった。
(また変な奴が大切な客人を襲ってくるやもしれん)そう思った弥助は、李鴻章が居る部屋の前の縁側で寝ずの番をしようとした。
清国の役人たちは、「日本人は信用できぬ」と自分たちの手で李鴻章を警護しようとした。日本政府からの警察官や憲兵の立ち入りさえ認めなかった。
当然のように弥助も李鴻章の部屋の前から追い払われた。縁側を追われた弥助は、今度は庭に座り込んだ。
「
見かねた清国の通詞が、「弥助、お前は武術の心得がないし、武器も持っていない。そんなお前が庭に座り込んで総督の警護をして、一体、何の役に立つと言うのだ? いざ兇漢が襲って来たら、お前では何の役にも立たない」と言うと、弥助は「こんなわしでも客人の代わりに死ぬことくらいはできる」と飄々と答えた。
「お客人は遠い国から来た、とても偉い人だと聞いている。わしの命なぞ、葉っぱのように軽いもんじゃ。お客人の代わりに死ねるならそれで良い。わしが斬られている間に、お前らで悪い奴を取り押さえてくれ」
弥助の言葉に清国の通詞はもう何も言わなかった。
その話を伝え聞いたのだろう。李鴻章は襖を開けると、庭に座り込んでいる弥助を見た。弥助は李鴻章の痛々しい姿を見ると、雷に打たれたように体を震わせて平伏した。そして「おいたわしや~」とおんおん、声を上げて泣いた。
「
弥助は李鴻章専属の下男のようになった。甲斐甲斐しく李鴻章の身の回りの世話を焼き、通詞から李鴻章が魚を食べたがっていると聞けば、「ほいほい」と馬関の港まで魚を求めて駆けて行った。
国際世論による批難の高まりと停戦を斡旋する米、英、露からの三国干渉を恐れた日本政府は、交渉の早期妥結を目指し、李鴻章襲撃より四日後の二十八日に、まずは休戦を条件とした草案を清国側に提示する。そして三十日には休戦条約が締結されている。だが、弥助にそんなことは分からなかった。
李鴻章は顔面にめり込んだ弾丸を摘出しないまま、引接寺で交渉の指揮に当たり、休戦へと持ち込んだ。
弥助は何時、寝ているのか分からないほど李鴻章の世話を焼いていた。そして、夜になると、相変わらず庭で寝ずの番を続けていた。李鴻章から通詞を通じて、「心配は要らないので少し休むように」と言われたが、弥助は何時ものように「ほいほい」と返事をするだけだった。
「体が丈夫なことだけがわしの取り柄じゃ」と庭を動かなかった。
休戦に引き続き、講和の条件に関しての交渉が続く。
四月一日、日本側から講和に関する条件の草案の提示があった。草案では朝鮮の独立、遼東半島と台湾の割譲、巨額の賠償金の支払いが条件となっていた。
「お客人、寝ていておくんなさい」と弥助は言うが、李鴻章は病床より起きて執務を執っていた。
李鴻章は草案を読んだ途端、「
李鴻章は筆を取ると、さらさらと「朝鮮の独立は両国が認めること」を条件に加え、割譲地は全面否定、賠償金は減額を求めた書簡をしたためた。
清国より負傷した李鴻章の交代として、代表団に同行していた李鴻章の甥、
代役として最適な人選だった。
「李鴻章、襲わる!」の一報に接した清国側は、李経方を欽差全権大臣とする勅使を送って来たのだ。
周りの役人たちは「交渉は李経方様に任せて、閣下は引き続き静養に勤められますように」と進言したが、李鴻章は聞き入れなかった。弥助も「寝ていておくれ」と言うのだが、「傷もようよう癒えて来た。もう大丈夫」と李鴻章は全権を譲らなかった。
李鴻章はこの年、齢、七十二歳、本人は「
引接寺から春帆楼へと通う道筋は、海沿いの街道ではなく、山沿いの細道を行くことにした。輿で行くには骨の折れる道筋だったが、愛国心を勘違いした兇漢の襲撃を避ける為、致し方なかった。小山豊太郎は憲兵により取り押さえられていたが、第二、第三の小山豊太郎が現れないとは限らない。
李鴻章の辿った山道は、今でも「李鴻章道」と呼ばれているという。
弥助も輿について行こうとしたが、李鴻章が許さなかった。李鴻章は弥助に「
弥助に李鴻章の言った言葉の意味は分からなかった。だが、李鴻章の言わんとしていることが、おぼろげに理解できた。何時もは「ほいほい」と何でも言うことを聞く弥助だったが、この時は「閣下のお供をさせてくれい」と涙ながらに訴えた。
李鴻章は目を細めると、通詞を通して弥助に「この寺の風呂は最高だ。熱い風呂を用意して待っていてくれ。寺に戻ったら先ず風呂に入りたい」と伝えさせると輿に消えた。
四月八日、李鴻章は李経方と共に交渉の席に戻った。これ見よがしに血の滲む包帯を顔面に巻いた李鴻章の姿を見て、伊藤博文も陸奥宗光も(やりにくい)と感じたようだ。それでも日本側は講和条件を譲らず、遼東半島の割譲地に多少、変更はあったものの、賠償金二億両という巨額の賠償額を清国側に認めさせ、講和条件は日清両国の合意を得た。
十五日、賠償金の支払い方法など、細部の取り決めを行い、引接寺に戻った李鴻章は弥助の沸かしてくれた風呂で一汗流した後、弥助を部屋に呼んだ。通詞が同席しており、弥助に李鴻章の言葉を伝えた。
「弥助よ。両国の講和も成り、明後日には講和条約を締結し、総督はこの地を離れ、清国にご帰国なさる」
「はあ・・・閣下は国にお戻りになるのか?」
弥助に講和の話は分からなかった。ただ、明後日には李鴻章が馬関の地を後にすることだけは分かった。
「総督はお前の献身的な働きにいたく感動なされ、自ら筆を取り、書をしたためてお前に下されたいというご意向だ。有難くお受けするように」
通詞が仰々しく言い放ったが、弥助には言葉の意味がよく理解できなかった。李鴻章は横で墨を擦っていたが、通詞の言葉が終わると、さらさらと筆を動かした。
流れるような筆で、「三十功名塵與土、八千里路雲和月」と一気に書いた。
南宋の武将、
金との戦いで戦功を上げ、武将として節度使にまで上り詰めた岳飛は、華北の地を奪還すべく、北伐を決意する。北伐に向かう岳飛が心境を読み上げた詩が「満江紅」だと言われている。愛国の情を切々と詠い、必ずや金を滅し、北の大地を取り戻し、恨みを漱いで戻って来るという気概に溢れた詩だ。
「読んで涙を堕さない者は不忠である」と言われた三国時代の名軍師・
一一四〇年五月、金の大軍が南下を始め、北伐を渋っていた南宋朝廷は掌を返したように岳飛に出陣を命じる。南宋の宰相であった
岳飛は連戦連勝、金軍が籠る開封へ迫った。ところがここで不可解な撤退命令が岳飛のもとに届く。秦檜は「南宋の兵は少なく、民は困窮している。何故、岳将軍は敵地に深入りしようとするのでしょうか――⁉」と皇帝に訴え、岳飛の撤退命令を出させたのだ。
命令を受けた岳飛は「十年の力戦が、ここに雲散霧消するのか!」と長嘆息したという。
南宋に戻った岳飛は秦檜に冤罪を着せられ、誅殺されてしまう。稀代の英雄は三十九年の短い生涯を終えた。その死を惜しむ民衆により岳飛は救国の英雄として讃えられ、杭州の西湖のほとりに岳王廟が建立された。
岳飛は神となった。
岳王廟には岳飛を陥れた秦檜が縄で繋がれ、正座させられた像が据えらえている。今でも岳飛は民衆の間で人気の高い武将だ。
明治の初め、西郷隆盛が征韓論を唱えて下野した際、自らの心情を岳飛に例えた。西郷は「秦檜多遺類、武公難再生、正邪今那定、後世必知清」と詠んだ。「(奸計を以って岳飛を貶めた)秦檜のような輩が多く、武公の再生は難しい。(征韓論の)正邪を今は論じる必要はない。後世になれば(自分が)正しかったことが必ず証明されるだろう」と言った意味だろう。
武公とは岳飛のことである。
李鴻章の記した「満江紅」の一節は「三十路を迎えたが、功名は塵と土のようなものだ。そして今、八千里の道を雲と月と行かん」とでも訳すのだろう。岳飛の北伐への決意が伺える一節だ。
李鴻章の年齢は既に七十歳を超えていた。「満江紅」の一節は海を越え遥か日本まで講和交渉にやって来た自分の境遇と心情を現していた。講和交渉を終えて帰国する李鴻章には茨の道が待っていることだろう。事実、李鴻章は台湾を日本に割譲した「売国奴」として、中国本土で長く世間の批判に晒されることになる。
李鴻章は書の出来栄えに満足した様子で、落款をしたため落款印を押すと、書きあがった書を手に立ち上がった。
「弥助。有難くお受けしろ」と通詞の言葉が飛ぶ。
弥助は「ほいほい」とその場に這いつくばると、李鴻章の手から書を押し頂いた。
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