春の雪に惑う

北山カノン@お焚き上げ

春の雪に惑う

 シャンシャンと鳴り響く祭囃子の音色が底抜けの青空に吸い込まれていく。

 季節は春。四月の中旬。


 まだ少し肌寒い風が梢を吹き抜けていく。

 心地良い陽光に当てられて私は目を覚ました。

 眠りまなこに差す陽光は力強く、私の目を覚ますには充分だった。

 長い眠りから目を覚ました私は、眼前に広がる色とりどりの世界に目を見張った。

 子どもが片手に持つりんご飴の艶やかな赤。

 海外から来たのか、観光客の集団の中に一人だけいる碧眼の男性の青。

 緊張した面持ちで禰宜が握る神楽鈴の黄。

 冬から春へ移ろいゆく季節に、必死にしがみつく大地に根差した無数の緑。

 境内に向かって走りゆく若者の袴の紫。

 その行き交う人々は、皆一様に空を見上げながら通り過ぎていく。

 私も空を見上げると、雲ひとつない空が広がっている。コバルトブルーを平たく塗ったような空に一点、燦々と輝く太陽。

 絵に描いたような光景だった。

 あまりの美しい景色に私は声を失った。

 私たちが気づかないだけで、日常の至る所に美が埋もれている。

 それを知り尽くすには人生はあまりにも短い。

 だからこそ私は、その短い人生を美の探究に費やすことにした。


 そんなある日のこと。

 毎朝、犬の散歩をしているおじいさんがいた。

 雨の日以外は毎日リードを握ってひょっこらひょっこら歩いている。犬は舌を出しながらゆっくりとおじいさんの歩調に合わせていた。

 これでは犬を散歩させているのか、犬に散歩させられているのかわからない。

 微笑ましい光景だ。

 私がそんな一人と一匹のコンビを見ていると、犬と目が合う。

 犬はグッと砂利の参道を駆け寄って来ると私を見上げる。すると片足を上げておしっこをし始めた。

 なんてこと! 早くおじいさんなんとかして!

 おじいさんはゆっくりとした足取りで、地面に落ちたリードを掴もうと屈んだ。

 その瞬間、身体が前のめりに倒れる。

 危ない! そう思った時にはもう遅かった。

 おじいさんは頭から地面に突っ伏して起き上がる様子はない。

 お供の犬はというと、ことを済ませて満足したのか、スッキリとした顔でおじいさんの顔を舐めている。

 しばらくして、若い女性がおじいさんのことを見つけて慌てた様子で駆け寄って来る。 

 すぐさまスマホを取り出して電話をかけると、どこからともなくサイレンが聞こえてくる。音は次第に大きくなり、参道の砂利道に救急車が現れて、おじいさんを連れて行ってしまう。まさしく嵐のように現れては去って行った。

 そしていつの間にか若い女性も、私に粗相をした犬も消えていた。


 数日後。おじいさんではなく、あの若い女性が犬の散歩に現れた。犬は間違いなく同じ犬。

 なぜ、おじいさんの代わりに女性が散歩に来たのか。

 私の推測だが、女性はおじいさんの家族で、朝の散歩から帰ってこないことを心配して様子を見に来たところ、おじいさんを発見したのだ。

 短い間だが、おじいさんは決まった時間に現れて、決まった時間に去っていく。

 きっとまめな性格のおじいさんなのだろう。あるいは神経質な性格なのか。それとも朝のルーチンなだけか。

 まあ、それらは些末なことだ。

 問題なのは、目の前で女性が犬と一緒に私の足元に花束を添えていることだ。

 あろうことに私に花を添えるとは。

 沸々とした怒りに身を震わせると、朝の冷たい風が吹く。

 なんと間の悪いことか。

 私の頭もすっかりと冷えて冷静になる。

 ふと目線を下げると女性はぽかんとした表情をした後、少し微笑んで犬を引き連れて去って行った。


 また、ある雨の日。土煙る夕方のこと。

 私の前を一つの傘が通り過ぎて行く。

 一つの傘に二人分の足跡が後に続く。

 傘の中にいる男女は毎日、私の前を通って行く。男の子は黒の詰襟の学生服。女子は紺色のブレザーに赤色のネクタイ、タータンチェックのスカート。

 近くにある高校の制服を着た男女は、きっと恋人なのだろう。

 いや、もしかしたらまだ恋人ではなく、付かず離れずの友達以上、恋人未満。あるいは、今日恋仲になりたての初心な関係なのかもしれない。妄想が膨らむが、紛れもない事実として、彼らはよく二人で学校に登校して、帰りはどんなに遅くても一緒に下校する。そして今、目の前で二人は相合い傘をしている。


 もう、焦ったい!

 私が内心呟く。

 すると二人は立ち止まり、私の方を見る。

 なに、なんなの。

 男の子が私を指差して、女の子がその指差す先を見る。つまり私だ。

 本当になんなの!

 一瞬、雨音が止んだように感じた。

 傘に隠れるように女の子の顔の前に、男の子の後頭部が現れる。左回りの綺麗なつむじが雨に濡れる。

 次の瞬間には二人は適度な距離に戻っていた。

 けれどその手は固く、強く結ばれている。

 傘が女の子の側に傾いて、二人は私の元から去って行った。


 それから数日、鴇色に染まる夕方のこと。

 一人の男の子が松葉杖をつきながら私の前を通った。とぼとぼ、俯きながら一歩と杖を進めていく。太めに巻かれたギプスには黒いマッキーでしっちゃかめっちゃかに文字がびっしりと書かれている。全く読めたものじゃない。けれど、必ず最後にある文字だけは、ハッキリと書かれている。

『頑張れ!』

 その一言が、彼にとって、何よりの哀れみの言葉であることは間違いない。そして、かれの内に宿した悔恨は計り知れない。

 すると彼の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。

 砂利を蹴立てながら数人の男の子が彼に追いつく。

 彼らは一足の、ヒモのほどけたスパイクシューズを手渡す。

 彼は松葉杖を脇で抱えてシューズを受け取る。

 彼らは言葉少なめに交わした後、もと来た道を戻っていった。

 しばらくして、男の子のすすり泣く声が聞こえる。

 彼らの言葉が、善意が、彼の心を踏み躙った瞬間だった。悪気がないからこそ、タチが悪い。

 彼は漢泣きに伏して地面にしゃがみ込んだ。

 私の足元にシューズが放り出される。

 きらりと、鋭角な金属のスパイクに私の姿が映し出される。

 そこに映るのは醜い私の姿。

 私は目を逸らしたかった。なにもしないなら彼らと同じになってしまう。だから。

 黄昏と一緒に彼の涙を攫ってしまおうと思った。

 風が吹き、私の半身を彼のまぶたに落とす。

 吹き上がる風が地に落ちた春の雪を舞い上がらせる。

 さあ、今だけは存分に泣きなさい。

 私たちが、あなたの姿を隠しているうちに。


 それから一週間が経った。

 空を見上げるとクジラみたいな雲がゆっくりと流れていく。形を変えながら流れていく。

 風が吹く。

 どうやら私の命もここまでのようだ。

 いずれは散りゆく定めと知りながら、必死に命にしがみついていた。もっと世界を知りたいと深く求めていた。求めてしまった。

 だけど、それも今日でおしまい。

 他の子たちは、私よりも先に散ってしまった。私が最後。

 なればこそ、散り際は華麗に。

 人知れずに散るとしても、春の雪となり、世界を彩ってみせよう。

 さあ! 風よ吹け! 私を遠く、世界の果てまで運んでおくれ!

 祈りにも近い願いが通じたのか、一際強い風が吹いて、私は空を舞う。

 ああ、なんと世界の美しきことか。


 最後にそう言って彼女は散っていった。

 風に吹かれるままに、遠くに、遠くに飛んでいく。

 そして私は、目を失った。

 今まで彼女を通して世界を見ていた。

 人間よりも人間らしい春の雪。

 彼女の見た、聞いた、感じた、望んだ世界を私も共有していた。

 彼女は私で、私は彼女なのだから。

 だが、それも彼女が散った今、私が感じるのは恐怖だけだ。目を失ったことで必要以上に音に敏感になり、吹き抜ける風や叩きつける雨音がとても恐ろしい。

 彼女が現れるまでこんなことはなかった。

 かつて、彼女以上に世界に希望を抱く子はいなかった。みんな一葉に命の定めを知り、花弁を開き、散らしていった。

 誰も考えはしなかった。向きもしなかった。耳も傾けなかった。感じようとしなかった。

 これほどまでに、世界が美に溢れていることに。

 それと同時に、世界を知ってしまった。

 一年の大半を眠って過ごす私はどうすればいい?

 この闇の中に光はあるのか?

 自分の身体が病に侵されていることは、数年前から感じていた。

 それもまた定命と受け入れていた。いやだ。

 まだ人々を喜ばせたい。生きたい。

 来年もまた花を咲かせたい。怖い。

 春だけじゃない。夏も秋も冬にも私は存在していて、桜の樹として存在している。

 こんなことなら知りたくなかった。

 ほら、今にも聞こえてくる。


 砂利道を走るタイヤの振動、私の足元に集まる足音、耳をつんざくチェーンソーのエンジン。

 チェーンソーの刃が足元に当てられて、勢いよく身体に食い込んでいく。痛い!

 一度抜かれて、今度は斜めから切られる。やめて!

 最後に反対側から水平に切られ。

 私の身体は悲鳴をあげながら大地に倒れ伏した。

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