しあわせの味ver杏

「しあわせの味」ver杏


中村 昌(なかむら しょう)

仁科 杏香(にしな きょうか)


兼役

原 紗栄子(はら さえこ)…資生社勤務、中村の上司

青柿 暁人(あおがき あきと)…資生社勤務、中村と同期



中村N「ふんわり香る、サボンの匂い」

仁科「酷いわ。しょうくん」

中村N「彼女が選んだであろうオレンジのカーテンがゆらゆら揺れる。」

仁科「また他人のふり?」

中村N「ぐちゃり、と踏み躙られた音がした。耳にこびり付く他人の薄ら笑い、それが僕の毎日だ」


仁科(たいとるこーる)「しあわせの味」


______


中村「こんにちは。仁科先生、進捗伺いに参りました。」

仁科「中村さん!いらっしゃい。」


中村N「資生社に勤めて早2年、初めて担当として付けてもらったのは恋愛小説家の仁科 杏香先生だ。年齢も僕とあまり変わりなく、いつも美味しい紅茶を淹れてくれる。彼女は締切も守る優秀な作家先生であり、そして仁科グループのご息女様だ。」


仁科「どうぞ。ちょうど今紅茶淹れたばかりなの。」

中村「いつもすみません。これ、お口に合うかわかりませんが最近よく売れてる駅前のケーキです。」

仁科「えー!並んだでしょう?この間も雑誌に掲載されてたのに。ありがとうございます。せっかくですから一緒に頂きましょう」

中村「いえ、一つしか入っておりませんので」

仁科「あら、中村さんの分は?」

中村「僕は。あまり甘いものが得意ではなくて」

仁科「そうだったんですね。私よく紅茶にジャムを入れてましたけど大丈夫でした?」

中村「ああ、どうりで。少し風味が違うと思ってました。いつも美味しいと思って頂いてましたよ」

仁科「よかったです。アプリコットジャムを少しだけ入れるんです。隠し味で」

中村「アプリコット、杏ですね」

仁科「そう。杏です。」


中村N「柔らかく笑う彼女はオーバル型の爪を自らの唇に当てて」


仁科「杏香の名前にもある、同じ杏です。」


中村N「ねとり、と僕を見た。」


仁科「ああ、進捗でしたね。」

中村「はい。」

仁科「それが、少し筆が進まなくって。」

中村「それは。何か悩みでも?」

仁科「お恥ずかしい話なんですが、最近恋愛と縁遠くって。インスピレーションが欠けてるような気がするんです。」

中村「…なるほど。では、デートプランやスポットをある程度まとめてみましょうか。最近の流行などからでも少し刺激が」

仁科「あ!そうだわ!中村さん!」

中村「はい?」

仁科「ごっこ遊び、してください」

中村「な、にを?」


仁科「私と。ごっこ遊びを致しましょう?」


中村N「今思えばこれが、僕の破滅へと繋がった」


______


中村「こんにちは。先生、進捗伺いに」

仁科「しょうくん!おかえりなさい!」


中村N「彼女は僕をただの傀儡にした」


仁科「しょうくん、昨日ね、姉に頼んで美味しいお茶菓子作ってもらったの。マカロン可愛いでしょう?」

中村「先生、僕は」

仁科「酷いわ。しょうくん。」

中村「…」

仁科「また他人のふり?」

中村「…」

仁科「あーあ。どうしましょう。またスランプになって筆も進まなくなって心を病んで今度こそ作家を辞めてしまうかもしれないわ。」

中村「…」

仁科「そうしたら、しょうくんはどうなるんでしょうね?」

中村「…」

仁科「ね?」

中村「…杏香さん。僕はマカロン一つでいいです」

仁科「ええ。しょうくんは甘いものが苦手だから。」

中村「はい」

仁科「とびっきり甘いのを一つにしましょう」

中村「…ありがとうございます」

仁科「ねえ?今日はね、恋人らしいことを一つ思いついたの。」

中村「ええ」

仁科「こうね、ソファーに2人で座るじゃない?ほら隣どうぞ?」

中村「はい」

仁科「それでこう、くっついて、2人で映画を見るの。今日は私の好きなラブロマンスを見ましょう。」

中村「…はい」

仁科「こうやってしょうくんは、私の腰に腕を回すの」

中村「いえ、それは」

仁科「いいから!」

中村「…」

仁科「うふふ。ね?恋人みたいでしょう?」

中村「…はい」

仁科「次の小説にはこういうシーンも入れるつもり」

中村「そうですか」

仁科「このくらいの距離だとしょうくんの体温も十分伝わってくるのね。これで筆も進みそう」

中村「…それは。よかったです」

仁科「ほら、見ましょう?」


中村N「この部屋に充満する甘い砂糖菓子の香りが、僕の胃を酷く締め付けていく。」


中村N「胃粘膜を焼く、自らの胃液。この部屋を出た後は必ず駅で吐いていた。社内で痩せたと言われるようになってきた頃、僕の直属の上司である原さんから声をかけられた。」


原「中村くんちょっといい?」

中村「はい」

原「顔色悪いよ?大丈夫?」

中村「そうですか?」

原「うん。編集長からも、中村が痩せた気がするって聞いたし、気になって。」

中村「大丈夫です」

原「仁科先生と上手くいってない?」

中村「…いえ。」

原「締切もしっかり守る先生だからと思って中村くんに任せてたけど…この間ご自宅伺ったらめちゃくちゃ嫌な顔されてさー。担当替えお願いしたつもりないとか何とか言って。ただ久しぶりに顔出しただけなんだけど。」

中村「はあ、」

原「…」

中村「…上手くやってます。」

原「だったらいいんだけど。余計なお世話、だったかな?」

中村「いえ、気にかけてくださってありがとうございます」

原「…」

中村「では。」

原「中村くん。」

中村「はい」

原「何かあったら、ちゃんと言いなさい。」

中村「…」


中村N「原さんは、世間一般で言う理想の上司だろう。ベストセラー作家を数名任される程の手腕。上からの期待も責任もある立場だ。言えるわけがなかった。任された真面目な作家先生に恋人ごっこを強いられているなんて、そんな馬鹿げたどうでもいい話、できるわけがなかった。」


中村N「喉に詰まった言葉を飲み込んで、軽い会釈をしその場を去った。」


______


仁科N「私は生まれた時から恵まれていた。祖父が作り上げた会社は父が譲り受ける頃には既に大きく成り上がっていたし、母の実家もそれなりに太い。できた姉が跡取りの教育を全て担い、引き篭もりの兄が全てのヘイトを受け持った。そう、私は可愛がられるだけのお姫様だった。姉はそんな私を羨ましがっていたに違いない。空想の恋愛さえ書いていれば母にも父にも褒められる。それが私だ。仁科 杏香だ。私の欲しいものは全部簡単に手に入る」


仁科N「はず、だった。」


中村「先生。」

仁科「しょうくん違うでしょ?」

中村「…杏香さん。」


仁科N「顔のいい編集者を担当に当ててもらった。何にも染まっていないような子。楽して稼がせてやるから私のおもちゃにしたかった。なのに、いつまで経っても私に靡かない。」


中村「次のサイン会に関してですがいくつか伺いたいことがございます。」

仁科「…」

中村「先生?」

仁科「しょうくんって、物覚えが悪いの?」

中村「ああ、すみません。杏香さん。サイン会では握手や、」

仁科「しょうくん。」

中村「…はい」

仁科「あーあ。私、もう書けないかもしれない」

中村「っ、」

仁科「全然ときめかないんだもん。しょうくんったら私が指示しないと何にもできないし、寧ろ指示したってできやしない。」

中村「…すみません」

仁科「恋愛って、刺激がないと熱が冷めちゃうの」

中村「すみません」

仁科「ね?今日はしょうくんから、何かしてみて」

中村「…」

仁科「なんでもいいわ。なんでも」

中村「僕も、勉強が足りず申し訳ありません。次回までには何か、刺激、になるようなものを」

仁科「考えてくれる?」

中村「はい」

仁科「楽しみにしてる」

中村「…はい」


仁科N「白くて可愛いらしい、私のお人形」


仁科N「あーあ。欲しい、あのお人形が」


______


中村N「苦痛だった。彼女の全てが不快で、適応できない僕も不快だった。何もかもが気持ち悪い。僕を見る目も、匂いも、指も、タイピング音すらも。」


中村N「でもこれが僕の仕事だからと、またインターフォンを押す。ガタガタ震える指を反対の手で押さえつけて。」


中村「こんにちは。進捗伺いに参りました。」


仁科「どうぞー。」

中村「杏香さん、これ。」

仁科「あら、今日はちゃんと呼んでくれるんだ」

中村「いつも、すみません」

仁科「ううん、嬉しい。なあに?しょうくん」

中村「これ、差し入れ、あ、いや、お土産です」

仁科「開けてもいい?」

中村「はい」

仁科「わあ、可愛い」

中村「前、花も好きだと仰ってましたので。」

仁科「チューリップなんて。いいの?それも赤」

中村「え?」

仁科「しょうくん、恋愛作家に渡すお花、花言葉くらい調べておかなきゃ」

中村「あ、すみません、何か失礼な」

仁科「ううん!失礼なんてとんでもない。私も同じ気持ちよ。」

中村「え、あの」

仁科「ほら、どうぞ?」


中村N「手を引かれ、連れて行かれたのは未だ入ったことのない部屋で」


中村N「ふんわり香る、サボンの匂い。彼女が選んだであろうオレンジのカーテンがゆらゆら揺れる。天蓋付きの大きなベットが部屋の真ん中に鎮座した、紛れもない寝室だ」


仁科「午後の予定はキャンセルするわ」

中村「え、いや、」

仁科「ほら、どうぞ?」

中村「杏香さん、あの、僕は」

仁科「赤いチューリップは、愛の告白よ。」

中村「っ、」

仁科「だから、ほら、どうぞ?」


中村N「先生の指が、僕の喉を艶かしく這い回る」


仁科「暑い?すごい汗よ?」


中村N「ああ、僕は失敗したんだ、そう理解すると同時に胃液が遡る」


仁科「しょうくん?」

中村「っ、いやだ!!」

仁科「きゃ、」


中村N「ドン、と。僕は彼女をベットに突き飛ばした」


仁科「…ふーん。」


中村「あ、ごめんなさい。怪我は、」

仁科「酷いわ、しょうくん。また他人のふり?」

中村「…」

仁科「こんな事されたら、ショックで書けなくなっちゃう。いいの?それでも。」

中村「っ、」

仁科「いいの?」

中村「…ごめんなさい。」

仁科「でしょ?だから、ほら。」

中村「ごめんなさい!」


仁科「…あっそ。」


中村N「ぐちゃり、と踏み躙られた音がした。僕が渡した赤いチューリップの首がいくつか千切れた音だった。」


中村N「僕は乱暴をしたという理由で、彼女の担当から降ろされた。耳にこびり付く他人の薄ら笑い、それが僕の毎日だ」


______


青柿「杏香さん。こんにちは。進捗伺いに参りました」

仁科「暁人(あきと)くん。いらっしゃい、どうぞ?」

青柿「早く杏香さんの紅茶飲みたいなって思って走ってきちゃった!」

仁科「えー?嬉しいわ、ありがとう。すぐ淹れるわね」

青柿「これ、クッキー買ってきました!駅前のケーキ屋、すっごい並んでて!」

仁科「ありがとう。美味しいって有名だものね」

青柿「今日午後予定は?」

仁科「暁人くん来るっていうから空けてるわ」

青柿「やった。紅茶の後は杏香さん頂こうかな」

仁科「上手いこと言うわね。」


青柿「だからいっぱい書いてくださいね。俺の出世のために」

仁科「そこまでして、中村くんに見せつけたいんだ?」

青柿「まさか、もうあいつは出世街道から外れてますよ。杏香さんのせいで」

仁科「ふふ。」


仁科「ほら一緒に食べよ?」

青柿「相変わらずいい匂い」

仁科「アプリコットジャムを一匙ね」

青柿「それって隠し味?」


仁科「しあわせの味よ」

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