神使猫背と消えた原稿

黒田忽奈

1

 久々に実家に帰ってきた。

 大学生になってからはずっと一人暮らしであり、実家に帰省するのは稀なことである。今回は数か月ぶりの帰還だった。

「いや~長い旅路でした」

「あんたねぇ……」

 リビングにリュックを置き、少し凝った肩を回す。すると早速母が出迎えてくれた。

「バス一本くらいで、何が長い旅路よ」

「普段の私の外出時間に比べればはるかに長いんだよ」

「もっと頻繁に外出しなさい。運動足りてるの?」

「ほうほう、この娘に運動神経がまだ残ってるとお思いですか」

「近所のジムの無料体験レッスンがあるから、夏休み中はそれに通いなさい」

「ほうほう、ほうほうほうほう」

 絶対に嫌だ。

 季節外れの長袖を脱ぎ、ソファにかける。何月であれ、外出するときは長袖を着たいのが猫背の心情だった。そのせいで今日はとても汗をかいたが、しょうがない。日光から肌を守ることも大事だ。

 そう、季節外れの長袖。

 大学が夏休みに入ったのだ。サークルもバイトもない猫背としては、一人暮らしをしていても大して日常が充実しないであろうことが目に見えていた。せっかくの長期休暇に旅行に行こうとか、資格を取ろうとか、そういう考えはぜんぜんなかった。面倒だからだ。

 旅行好きな友人たちを否定するつもりは毛頭ない。好きなだけ色んな場所へ行って青春の痕を刻んでくると良い。私はその思い出話を聞くだけで十分、旅行した気分になれる。

 そんなことを思いながら家の床で横たわっていたとき、実家から招集がかかったのである。ずっと部屋に籠っているとエアコン代が勿体ないので、いっそ実家に帰ってこいとのことだった。

 その実家は猫背のアパートからバス一本二十分の場所にある。端的に近所。大学にも当然近い。別に実家暮らしのまま通学しても良かったのだが、そこは高校三年生のときにさんざん親と議論した。結局、猫背の一人暮らしをしたいという挑戦と、社会人になるための準備期間ということで、一人暮らしは許容された。

 ただしその時の条件は、「アパートと実家が近いので、頻繁に実家に顔を出すこと」だったのだが、猫背は軽やかにこれを反故にした。

 実家に帰ったら、都合の良い労働力としてこき使われることが目に見えていたからだ。両親は共働きなので、日中に家事や買い出しを散々頼まれるだろう。それが嫌だからアパートに籠っていたというのに。

『実家に帰ってこないと、八月の家賃を払わないよ』

 そう言われてしまっては帰省せざるを得ない。一人暮らしをしていても結局のところ、猫背は扶養下の人間なのである。家賃を引き合いに出されたら終わりだ。

 年下の兄弟でもいれば、そいつに家事を押し付けられたのだが。生憎猫背は一人っ子だった。

「猫背、早速で悪いんだけど、あんたに買い物を頼みたいの」

「………………」

 すぐこれだよ。まだ帰ってきて十分も経っていない。

「どうせ家にいても本読むかパソコンいじるかのどっちかでしょう。外の空気吸って来なさい」

「今の今まで外にいたんだけど……」

「バス車内は屋外に含まないよ」

(私にとってはそこも外なんだけどなぁ)

 問答無用で財布とエコバッグを渡され、猫背は再び太陽の元へと突き出された。



 猫背は買い物ついでに、近所の文房具店に寄った。『ノガミ紙店』はこの町に昔からある文房具屋で、猫背も幼い頃から鉛筆やらノートやらを買うために通っていた。久々の帰省ということで、暇つぶしに寄ったのだ。文房具店というものは商品を見ているだけでなんとなく楽しい。

 ワンフロアを丸ごと使った店内に客はいなく、冷房と店端にある巨大なコピー機が駆動音を響かせているのみである。静かだ。店長の野上さんは高齢であり、レジに腰掛けたまま眠っていた。猫背は足音を忍ばせて店内を移動し、カラフルな画用紙が積まれた棚を眺める。

 最近はスーパーや書店、大学でも文房具を買えるので、このような昔ながらの専門店の売り上げは苦しいのではないだろうか。実際客がいないし。

 猫背はフロアの一角を占拠している、家庭用のものに比べて信じられないほどデカい業務用コピー機の傍に立った。機械の振動が足裏に伝わってくる。

 コピー機を見ていると昔を思い出す。学校の教科書をコピーしたり宿題のプリントをコピーしたり、何度かお世話になった覚えがある。

 ふと、無人の店内に猫背以外の者の足音が響いた。店番をしている野上老爺は眠っているので、彼以外の者ということになる。

 足音に付随して、猫背は思い出した。この店に関連する記憶。猫背の人生において大した意味は持たない事件だったが、それでも確実に、小さいながらも確実に、猫背の記憶に残る出来事だった。

(あれは確か、高一の夏……)

 あのときも夏だった。記憶は常に汗の質感と隣り合わせの場所にある。

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