ミラージュパレスAGG

柴又又

ミラージュパレスの世界へようこそ。

第1話 初動

 メスオークだと告げられた。

 そんななんてことのない一言で、私は人生を壊してしまった。

 中学生だった。他人が自分をどう眺めているのかを意識した。

 思春期だった。急に自分の存在を認識して恥ずかしくなった。

 意識するとお腹が震えるようになり、教室にいられなくなって保健室登校になった。確かにメスオークみたいな体型だと、鏡を眺めれば自分でも理解してしまった。太っていたのだ。


 九歳の時、父と母が離婚した。

 それからは父と二人だけの生活。私は父っ子だったので不思議と寂しいとは感じなかった。ただ母がいなくなっただけ。私を何時も抱きしめてくれたのは父で、そして母がいなくなってもそれは変わらなかった。

 でも父は違う。痩せた。衰えた。あまり眠らなくなった。わたしを眺めると少し苦しそうな表情をした。父には母が必要だった。そして母に似た私は父にとって毒だった。


 私は父に甘やかされて育った。甘いケーキに外食に。父は何時も美味しいものを食べさせてくれた。太っていく私と対照的に、父はいつも何処か遠くを眺め憔悴していた。

 幼い頃はそんな父の様子など気にもしなかった。ただ無邪気で馬鹿みたいに父に甘えていた。


 小学生の時、ブタだと男子に告げられた。痛くもかゆくもなかった。

 でも中学校になり私は急に世界を感じるようになってしまった。

「メスオークだよ‼ あれは‼」

「それな‼ あの顔見た? マジ信じられねーよ‼」

「体育の時の⁉ フゴッ‼ フゴフゴフゴ‼」

「ぎゃははっ」

 それがひどくショックだったのだ。

 私が保健室登校になっても父は怒ったり騒いだりしなかった。ただいつもと同じように疲れた瞳とこけた頬で緩慢に笑みを作り、私の頭を撫でた。


 そんな父に負い目を感じて家事をするようになった。

 洗濯炊事掃除をするようになった。

 朝起きて朝食を作り、父を見送り洗濯をして、保健室へ登校する。

 保健室には私の他にも数名の生徒がおり、先生達の作ったプリントを参考に問題を解いていた。


 学校の先生達は思いのほか皆優しくて、わざわざ私達のために、今日の授業範囲をプリントにして渡してくれた。どの先生も温和で表情通りに優しかった。時代には恵まれていたと感じる。


 なんとか頑張って進学校へと入学した。

 高校入学までに、なんとか痩せようと夕方にランニングをした。甘い物を控え野菜を多めに食べた。

 おかげで六十キロあった体重は、四十九キロまで下がった。

 肌のケア等は理解していなくて、みんなケアしているのだと知った。でも私は詳しくなくて化粧にも、詳しくはなかった。


 残業の日、父は疲れて帰って来る。たまに上司とお酒を嗜み、だらしなく靴下がフローリングに転がっている。ツンと鼻をつく汗のニオイ。お酒のニオイ。だらしない父の裏返った靴下。

 でも不思議と、私はそんな父が嫌いではなかった。


 私が自炊をするようになってから、父は私に十万円を渡し、一ヶ月これでやりくりしてみようかと告げてきた。

 十万円は大金。その使い道。残ったお金はお小遣いにして良いと告げられた。

 食費に光熱費、家計簿と数字の羅列、私の学業に必要なもの、父の服、楽な月もあれば、厳しい月もあった。

「今日も頑張ってくれてありがとう。お父さん」

 私はリビングで疲れ果てて眠る父の姿を眺めるのが好きだった。

 靴下を回収してネクタイをゆるめとり電気を消して。

 おやすみをした。


 父がだらしなくなって眠った次の日は、何時もお粥とシジミの味噌汁。それときゅうりの辛子漬けをテーブルへと並べた。

 朝、目を覚ましてお風呂へ直行した父が、お風呂からあがり着替えると申し訳なさそうに私をチラチラと眺めながら食卓の椅子へと腰を下ろす。それを微笑ましく感じていた。

「……ごめんな?」

「ううん? お父さん。いつもお仕事頑張ってくれてありがとう」

「……お前は、やっぱりお母さん、お前のお母さんとは違うんだな」

 そう呟く父の台詞が考えれば不思議ではあった。

「お父さん。今日のお弁当」

「……いつもすまない。ありがとう」

「そう思うんだったら、お酒はほどほどにね」

 頑張る父に対して私は心が弱くてダメだった。


 私は高校でも見事に失敗した。

 髪の毛を染めたわけではないし制服を着崩しているわけでもない。

 スカートを短くしているわけではないし、お化粧をしているわけでもない。

 髪が何時もお姫様カットなのが悪かったのかもしれない。

 でもこれが一番楽で、自分で切りそろえられたから美容院代も浮いた。


 何が原因かって……中学校の頃の写真だった。

 高校デビューだと告げられた。

 頑張って痩せたのに。たったそれだけ。たったその一言で、私は恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまった。

 三年間ボッチ。

 何かあると元はデブスだと写真を出してからかわれた。

 高校生だし、年下の後輩の男の子が告白してくれた時も、先輩が告白してくれた時も、周りの人たちがアイツはやめたほうがいいと語り、私も結局彼らの事が信じられなくて話すらうまくできなかった。

 傷つきたくなかった。罰ゲームだと告げられたら、いよいよ立ち直れない。

 あの時の男子生徒達の笑い声がまだ耳に残っている。

 女子生徒達の冷たい視線が胸に刺さっている。

 彼の事、この子が好きだから。

 そう――。視線を逸らすしかなかった。

 私はその彼が誰で私に対して何の関係があるのかすら理解してはいなかった。

 それがダメだったのだと感じる。


 真面目ではないし、ギャルと語れるほどギャルでもない。

 高校は何とか卒業できたけれど、大学へはいかなかった。

 何かしたい事もなく、どうしたらいいのか答えがなかった。

 何かやりたい事があるわけじゃなくて、何かやりたい事があるわけでもなかった。


 家事をこなし空いた時間をゲームで現実逃避。父の休日には旅行へ行ったり、山に登ったり、キノコ狩りに行ったり、そうして過ごすうちに十年もの歳月が流れてしまった。

 二十八の時、いよいよこのままではまずいと感じて、配信者として活動をしたこともあったけれど、個人で続けるには周りの攻撃にあまりにも対応できなかった。

 流れる言葉の刃や、権利を侵害していると投げられる訴えに何も対抗できず、打たれてベコベコと凹んでしまった。

 ハローワークでなんとか中小企業のクレーム処理やオペレーターの仕事を得られてやっと落ち着いた。


 父はこれまで、一度も私を怒らなかった。

 ひきこもりになっても、父は私を責めたり怒鳴ったりはしなかった。

「ごめんね。お父さん」

 そう告げると、父は困ったような笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。

「お父さんこそ、ごめんな。お前に甘えてしまって。何時も、ありがとう。お父さんにとって、お前は大切な、たった一人の大切な大切な人だ。だから、焦らずゆっくり、自分の道を探して歩きなさい」

 そう告げる父は何処か寂しそうでもあった。


 母から一度、手紙が来たことがある。

 母は再婚していた。相手はお金持ちらしい。

 母がくたびれた父に怒鳴っていたのをなんとなく覚えている。裏返った靴下とクサい靴やワイシャツに怒っていたのを覚えている。

 それは誰と比べているの。

 そういう生活より、高級レストランで食事をしたりブランド物を買って貰ったり、そういう生活が好きだったみたいだ。

 誰と――そういうお店に行っているの。

 私は高級レストランで食事をするよりも、ブランド品を買って貰うよりも、自分のために頑張って草臥(くたび)れてくれる人の方が、父の方が良いと感じて、父に引き取られていて良かったと心の底から安堵していた。

 お腹を痛めて得た私よりも――。


 私を引き取りたいと向こうから打診もあったけれど断ってしまった。

 私には高級ブランドの価値が理解できなかった。母が勧める服も、母の再婚相手が勧めるバッグも確かに良いものだったけれど、これと自分のために頑張ってくれている人とを比べると父の方が遥かに重かった。

 でももし母のような生活をしていたら、私も母のように高級ブランドが好きだったのかもしれない。半分は、母の血が流れているから。

 一生は七割が周りの影響で決まる。そんな誰かの台詞を考えていた。

 良いお洋服もブランド品も、私には分不相応。


 母の気持ちを少し理解できてしまう。それが嫌でもあった。

 今好きな人よりも素敵な人が現れたら――それを比べてしまったら。

 家族よりも付き合う時間が長い人が現れてしまったら。それを意識してしまったら。職場で強制八時間。仕事終わりは飲み会。では家では何時間。夫と接する時間は何時間。

 これから先、この人生がずっと続くのかと意識してしまったら――。

 お洒落は。楽しみは。自分の事は。

 家事と育児と夫の世話で人生は終わりなの。

 私もきっと迷う。心は揺れ動く。それを炎にくべられるか否か。


 母に手紙で、もう連絡しないでくださいと伝えた。

 草臥れて寝てしまった父の頭を膝に乗せて撫でていた。

 父の血液型はAB型。私の血液型もAB型。

 AB型は一人を好むというけれど、それは絶対じゃない。

 人を愛しすぎるから、相手をどれくらい愛していいのか探ってしまう。

 傷つくのが怖いから、自分にセーブをかけて距離を測ろうとしてしまう。本当はね。もっと傍に来ていいよって告げて欲しい。もっと好きになっていいよと告げて欲しい。

 本当はね。突っぱねてもトコトン付き合ってほしい。踏み込んで来てほしい。本気になって良いと信じさせてほしい。でも大抵差し出されるそれは釣り餌だ。

 面倒臭いね。


 私が三十六の時、父は亡くなってしまった。

 父からの手紙には、俺の娘に生まれてくれてありがとうと書いてあった。

 そして、今までこうして生きてこられたのはお前が居てくれたからだとも書いてあった。母が離れてからあまり笑わなくなったと書いてあった。

 人を信用できなくなったけれど、お前のおかげで幸せだったと書いてあった。

 実の娘に妻のような振舞いをさせてしまった事を申し訳ないと、異性として愛してしまっていたことを申し訳ないと書いてあった。

 心から幸せだった。と。

 お前が傍にいてくれて救われた。と。


 父は遺産として、私がこれから一生を生活するのに困らないだけの金額を残してくれた。

 私が生きていく上で、一生を困らないぐらいのお金を用意してくれていた。

 だから引きこもっても怒らなかったし、最初から……。

 異性としてとは書いてあったけれど、そんな素振りはなかったし、お父さんのそういう一面は私にはちょっとハテナだった。


 父との思い出は沢山ある。

 旅行はいっぱいした。

 京都のパワースポット巡りは今でも良く覚えている。

 風鈴の音が心地良く鳴って、少しのそよ風とつむじ風が木の葉を躍らせる。天然石を利用した階段は苔生し木漏れ日が道を案内してくれる。

 江の島では前日降り注いだ雨でしっとりとした道を歩いた。

 前日は嵐で、諦めようかと考えていたけれど、幸い私が訪れた時には雨は止み、前日の嵐が嘘と思えるほど静かだった。

 明かりの灯る灯篭と、ポタリポタリと落ちる雫の音に酔いしれた。

 道の端から現れた猫。屈み這わせる毛並みは一入で。


 私は人生を台無しにしてしまった。

 メスオークだなんて、そこまで傷つくような悪口でもないし、高校デビューだと告げられても、構わぬ存ぜぬで良かったのに。

 社会人になってからはクレーム処理で何時も怒鳴られているから余計にそう感じるのかもしれない。

 もう三十八歳。

 気が付くとおばさんになっていた。

 結局私は傷つきたくないだけで踏み出す勇気がなかったのだ。

 飲み会に誘われても断ってしまった。

 お局様とか語られている。今更恋愛なんて。

 でも心の奥底から良かったと安堵もしていた。

 恋愛をしなくて良かった。経験が無くて良かった。一人で良かった。

 好きになった人と別れたら私は立ち直れない。裏切られたら私は立ち直れない。

 快楽にはまって逃げられなくなっていたかもしれない。沈んでいたかもしれない。

 私は心の底から安心してベッドへと潜り込める。微睡みだけが私の好きなもの。

 嫌悪する自分にだけはなっていないと、心の底から安堵して、時折不安定にもなるけれど。

 それだけにはとても安堵していた。嫌悪するような自分にだけはなっていない。


 ある日の夕方。

 眩しい夕日。玄関の鍵穴。捻って回し――玄関の扉を開けた直後だった。


 視界の中に無数のフォトフレーム、デジタルフォトフレームのような四角い空間が無数に現れて、一軒家の自宅に帰って来たはずなのに、気づくとマンションの廊下に立っていた。

 口を半開きにしていると気付いて閉じる。

 どうしたのだろうと周りを見回し掴んでいる取手とドアに困惑する。

 くるりと回したノブ――少し扉を重いと感じた。開いてしまったドアと部屋の中。遅れてやってくる音。夕日。私が感じていたよりもずっと赤い。

「寧々‼ 何処にいたの⁉ お母さん心配したのよ⁉ 良かった……」

 困惑した。まったく身に覚えのない女性が佇んでいた。おそらく私に向けて声を投げている。首を傾けてしまい、傍へと近づいた女性は私の服を掴み見上げていた。質量と温もり、音を伴って。

「寧々?」

「あなたは……誰ですか?」

 私は女性にそんな間抜けな台詞を投げてしまった。


 現状を理解できず、把握しきれず、そんな台詞を投げてしまった。その台詞が、母の仄菓(ほのか)さんにとっては致命傷な台詞だとも考えず。

「寧々⁉ ねね……? お母さんよ? わからないの? お母さんよ? 寧々⁉ どうしたの⁉ 寧々‼ お願い‼ お母さんって言って‼ 寧々‼」


 部屋の中に連れ込まれ、腕の中で頬を濡らす女性はひたすらに嗚咽を漏らし続けた。困惑してしまう。記憶の中の母とは違う。整形……化粧なのかもしれないと、そんな風に考えつつ、まくられた袖と、履いたことのないスカートに自分の服装に気づいて唖然する。

 寧々――私が知っている寧々と呼ばれる人物は一人だけだ。それは歴史上の人物ではない。

 寧々……サツキ。

「仄菓……さん。仄菓。お母さん」

「……そうよ? 寧々。お母さんよ。良かった。思い出してくれたのね……。良かった。良かった」

 こんな事、あるわけない。こんな事……。

 この人がもし仮に私の知っている人物なのだとしたら、こうして寧々に執着するのも理解はできる。もし仮に、私が寧々(サツキ)なのだとしたら頭が混乱している。

 手の形が違う。光の捉え方が違う。母ってこんな感じなのかな。母のニオイ。服のニオイ。困惑していた。困惑している。こんな事、あるわけない。

 それを認めたくない。それを理解できない。こんな事あるわけない。逃げているみたい。現実はこうはならない。

 そしてその意味が理解できない。理解できなかった。私の人生は楽しいものではなかったけれど。悪いものでもなかった。こうなるのを理解できない。

 何時になれば楽になれる――その先にある答えを私は噤んでいる。

 私はそれほど良い人間ではなかった。

 混乱している。混乱している。

 私はムスビ。寧々ではない。ゲームは現実ではない。私はムスビ。

 こんなのはおかしい。間違えている。現実逃避みたい。認めたくない。

 私はムスビ。いくら瞼の裏でそう唱えても、目の前の現実に変化はなかった。

 もしかしたら、ムスビの人生そのものが、まやかしだったのかもしれない。そんなわけないのにね。


 寧々はゲームプレイヤーキャラの一人だ。

 【ミラージュパレス A Go‼ Go‼】

 タイトルに反してかなりディープなアクション探索ロールプレイングゲームだ。

 私が、十年引きこもってやっていたゲーム。配信もした。

 物語は高校生の入学式から始まる。やる事は簡単で暗夜町という街に住み生活しながらゲーム内の迷宮や怪異、ミラージュパレスを攻略してゆくある意味ハクスラ。


 ミラージュパレスは神々が用意した遊び場。

 プレイヤーは主要キャラ三十二人の中から好きなキャラクターを選び行動する。ソロでもいいし仲間を募ってもいい。NPCでもいいし中身がプレイヤーでもよい。一人一人にメインストーリーがあり、サブイベントは共通。

 一応メインストーリーはあるけれど、やってもいいしやらなくてもいい。

 他のキャラと恋愛してもいいし友達になってもいい。敵対してもいいし倒してもいい。

 結婚してもいいし裏切ってもいい。


 高校から始まるけれど終わりは亡くなるまである。

 文字通り亡くなるまである。年月はちゃんと流れるし、もし不慮の事故等で亡くならなければ老衰で亡くなる。

 結婚もできるし子供もできる。


 ベースレベルとモナドレベルがある。

 ゲーム内ではカードと呼ばれるデジタルフォトフレームにステータスが表示される。

「……少しぼんやりしてた。ごめんね。お母さん」

「もう……もうもうもう‼ ひどい‼ 寧々‼ 心配させないで‼ お母さんを苦しめて楽しいの⁉」

「……ごめんなさい」

 寧々はプレイヤーが選択できるキャラクターの一人だ。私は好んで寧々を使っていた。

 寧々の事なら何でも知っている。隅々まで舐めるように使っていたキャラクターだ。お気に入りだったから。身長165㎝。体重55kg。性別、男。髪の先からつま先の爪まで、何もかもがお気に入り。

 身長176㎝。体重52kg。性別、女。私とは違うから。


 寧々の本名はサツキ。

 目の前の女性、仄菓さんはサツキの本当の母親じゃない。

 設定がある。

「お母さん?」

「いや‼ 嫌よ‼ 離さない‼ 寧々‼ 寧々‼ お願い……何処にも行かないで、お願いよう……ねねぇ……」

「何処にも行かないよ。お母さん」

 設定通りなら、この人は可哀そうな人だ。

 このキャラクター。サツキには寧々と言う名の幼馴染の女の子がいた。

 サツキは名家の出身で菜日乃束(なかのつか)本家の出、寧々はその幼馴染の女の子で菜日乃束分家の出。

 ある日、サツキと寧々が一緒に遊んでいた所、犯罪者集団に誘拐されてしまう。その時たまたま二人は服装を交換しており誘拐犯はサツキと寧々を間違えてしまった。

 その結果というわけではないけれど、サツキは帰って来て、寧々は帰ってこなかった。


 その事で、仄菓さんは心を壊してしまった。

 これが設定通りなら、この人は本来の寧々のお母さん。

 心を壊してしまった仄菓さんは服装を取り換えていたサツキを寧々だと思い込むことで心の均衡を保とうとした。

 そして本家がサツキの代わりに寧々を取り上げようとしているとサツキを誘拐して逃げた。

 サツキはそれを理解しつつも、寧々の事があるために受け入れた。


 だから本来男性であるサツキが寧々の恰好をしている。女性の恰好をしているのはそのため。髪が長いのもそのため。サツキは元々身長が小さいし骨格も女性と相違ない。胸は小さいけれど僅かに膨らみを帯びスラリとして柔らかい。一応その理由はある。

 髪は長く少しの癖があり、光の中では濃いブラウンに、暗闇の中では鴉の濡れ羽のような淡い光沢となる。切れ長で整った瞼の形、大きな瞳、スルリと撫でられる鼻と、ぷっくりとした薄く白に近い桃色の唇が特徴。

 日本人形に、ほんの一滴だけ北欧の血を加えたかのような。

 リアルの私とは異なっている。

 リアルの私は眉毛がね。うん。眉毛が武士みたいなのだ。うん。


 大人の女性に抱きしめられるのはこれが初めてだった。

 母の思い出に、抱きしめられたという感覚はない。

 これがお母さんなのだと本能に告げられる感覚が、妙に愛おしくて背中に回した手に力を込めて体を密着させてしまった。心配してくれている。私の母とは違う。愛おしいという気持ちが溢れて困る。

「お母さん。おかあさん」

 抱きしめて何度も頬を押し付ける。

「ねねぇ……」

 絡みついてくる手と指。耳、頬、頭。胸の中に納められて髪を撫でられて、リップ音と鼓動が強く聞こえて何度も首を柔らかくふり頬ずりをしてしまう。


 これ好き。なんだかんだ母親に甘えたかったのかもしれない。

 私がサツキを使っていた理由の一つがコレだし。

 どちらにしても実の母親ではないけれど。

 お母さん。お母さん。これが三十八歳女の末路である。

 仄菓さんには悪いけれど、こうして執着してくれるのが堪らなく嬉しいのだ。


 なんでこんな事になっているのかしらとナデナデされながら考える。

 仄菓さんは本当に好き。このままゴールインしてしまうかもしれない。むしろしたい。歓迎……とは語ってもね。

 本当に寧々(サツキ)になってしまったのか。

 どうして寧々になってしまったのか。

 原因は何なのか。元に戻れるのか。ずっとこのままなのか。


 初動――自分の瞳孔が強く開くのを感じた。このゲームの初動。

 このゲームには初動で手にいられるチートアイテムが七個ある。

「お母さん。ごめん。ちょっと離れて」

「えぇ⁉ なんで⁉」

「反抗期」

「反抗期⁉ 今⁉」

 ポケットを弄り財布を取り出す――三千円。黒い長財布。

 確か寧々は初動でヘソクリが十万あったはず。

「ごめんお母さん。ちょっと出かけてくる」

「今から⁉ ダメよ‼」

「すぐ帰って来るから。帰ってきたら一緒にお風呂入るし、添い寝するから」

「えっ‼ 一緒に⁉ おふりょ⁉ お母さんとおふりょはいってくれるの⁉ 添い寝も⁉」


 母から離れ自分の部屋の戸と思わしき襖を開けて中へと入る。

 畳、机、畳まれた敷布団。引き出し、封筒、中身、十万、ばっちり。

「すぐ帰るから‼」

「携帯忘れないで‼ あとこれ発信機‼」

 娘に発信機をもたせる母親の図はこちらです。

「会話も聞こえる高性能だから‼」

 そう言う問題じゃないけれど、受け取らないと母が怒るので携帯と重ねてポケットに……スカートのポケットって性能が弱い。

「このジャケット借りてくね」

「ちゃんとすぐ帰って来るのよ? 帰って来なかったらお母さん迎えにいくからね‼ 夜道に女一人で探しにいくからね‼」

 境遇を考えるとあんまり心配しないでとは告げられなかった。


 玄関のドアの前、壁の鏡、ちらりと眺めた顔――違和感が強い。

 靴を履いてドアの外へ――マンション。マンション三階。エレベーターか階段か、階段を使う。スカートの中は黒いショートパンツ。足の形がカモシカみたい。足の形が若干獣っぽい。実際のカモシカを視界へ納めた事はない。

 トムソンガゼルの足。サラブレットの足。どれだろう。


 マンション出口を駆け、街中を走る路面電車へ飛び乗る。

 息が切れて汗を拭っていた。視界の映像が画面じゃなくて現実だった。心臓が鳴り、足の負荷と痛みが走る。頬を少しつねってみる。現実。サツキの息、モモのニオイがする。やばっ。いいニオイ。

 レトロでモダンな路面電車――通り過ぎる景色。夕日。光の流れ。グラフィック負荷の限界を超えている。

 そんな事より急がなくては……。

 

 もし、もし、この世界が本当に私の知っている世界なのなら……そして私がこうして寧々になったのなら、他のプレイヤーが存在した場合、他のキャラになっている可能性が懸念が沸いていた。

 それは各プレイヤーに一つずつ与えられるチートアイテムが、世界に一つずつしかないのではないかという懸念を生み出していた。


 ポケットに入れていた携帯電話。スマートフォン。この世界ではカードと呼ばれている端末を開く。

 画面をスライド、ショートメールがいくつか。ニュース、天気予報、アプリを調べる。

 モナドプラグラムはまだインストールされていない。

 まだ高校に入学していない。今は何時。カレンダーを開き、3月31日の日付を確認。

 入学式は明日だ。

 モナドプログラムはミラージュパレスに挑むに絶対に必要なものだ。ステータスを表示するアプリで、迷宮内や怪異内では独自のレベルとステータスを付与される。そのステータスは迷宮内や怪異内でのみ適用され、外の世界では本来適用されない。


 モナドやアイテムを考慮して、最適なビルドを生成するのがこのゲームの醍醐味。

 まずはベースレベル。これは個人の素のレベルの事。体力とか知力とか筋力の話。

 次いでモナドレベル。これは所謂職業とかジョブとかそのレベルとかの話。熟練度が上昇するとスキルレベルが上昇し、スキルレベルが上昇するとレベルが上昇する。モナドのレベルが上昇すればステータスが上昇し、ベースレベルのステータスへと加算される。

 ベースレベルは経験値により上昇する。

 モナドレベルは熟練度により上昇する。


 ベースステータス。

 STR(筋力)。DEX(器用)。AGI(速度)。MND(精神力)。INT(知恵)。LUK(運)。CHA(魅力)。

 STR。筋力が高いと肉体的強度や持久力が高くなる。

 DEX。指先の器用さに影響する。

 AGI。行動の速さに影響する。

 MDN。精神力に影響し、一部の状態異常や恐怖耐性に影響する。また回復支援系統の威力に影響する。

 INT。頭の良さに影響する。魔術系統の威力に影響する。

 LUK。運。未知的指数。不確定要素に強く影響する。確率に影響する。

 CHA。魅力。人として恋愛的に好かれるかどうかに影響する。


 初期ステータスはキャラクター毎に定められた数値と最低10~68割り振られるポイントにより決定される。

 この数値は初期LUK値が関係している。ランダム。一発勝負なのでどうにもならない。数値が高いと最初は楽。私はあんまり高い数値には期待していない。


 例。

 初期数値が44の場合。

 STR10。DEX20。AGI10.MDN30.INT20。LUK44.CHA87。

 割り振りSTR1。DEX10。AGI20。MND1。INT1。LUK9。CHA1。

 合計STR11.DEX21.AGI30。MDN31。INT21.LUK53.CHA88.


 ゲーム時のようにリセマラ(リセットマラソン)ができるとは考えられないので、ビルドは慎重に考えないといけない。

 肉体的ステータスはキャラで初期値が違うので、キャラで進むべきモナド(キャラクタークラス)はある程度絞られる。

 寧々は魅力が一番高い。NPCと恋愛しやすい。好かれやすい。母親があんなに心配性になるのも魅力値が高いからだ。


 七大アイテム。

 ゲーム序盤から存在し、各プレイヤーが一つだけ手にいられる通常アイテムとは異なる強力なアイテム。


【リリスの瞳】

 CHA+150。

 超常なる存在リリスの瞳。襟首に寄生させることにより神経系を掌握し、本人の意思にかかわらず高いポテンシャルを可能とする。また肉体的強度、神経伝達速度を上昇させ、その代わりリリスに溺愛される。

 リリスは瞳の持ち主が男だった場合溺愛し、女だった場合は呪う。

 純粋な魅力の数値が100以上の場合、筋力、器用、速度にプラス40される。

 CHA補正が高く、好感度が上がりやすくなる半面、ソロ専用で他人とパーティー等を組むと無効化される。


【無明菊一文字】

 DEX+33。

 刀身より残光の栄える美しい刀。

 殺撃七連という固有技が使える。

 器用の数値が88より上の場合、速度にプラス80されたはず。何か他にも技が使えたような気がするけど、忘れてしまった。


【聖者の行進】

 MDN+72

 先端にかけて捻じれるおよそ金属と思われる棒。先端に向かうほど僅かに重く太くなる。

 精神力の数値が33、66、99に到達すると重さが増す。重さが増すほどに単純に攻撃力が高くなる。又不死なる者、邪なる者に対して絶大な効果を発揮する。


【吸血人形アンニョイちゃん】

 自動可動する可愛らしい洋人形。

 持ち主の血を摂取することで、その血を使い稼働し、持ち主より僅かに低いステータスのユニットになる。ステータスが僅かに低いだけでスキルも使用できる。

 素のSTRの数値を30、44、77、支払う事により暴走モードへ移行し、純粋な力だけなら持ち主を越える。

 30の場合は暴走モード。

 44の場合は凶悪モード。

 77の場合は力の権化モードへ移行する。


【スワロウテイル】

 蝶を模した髪飾り。

 AGI+22。

 七色を帯びた蝶の髪飾り。

 分身を七体呼び出し、あらゆる攻撃を七回まで無効化する。

 蝶の色が分身の数を表し、真っ黒になると分身がゼロの状態を示す。

 分身が無くなってから十分すると色が一つずつ戻る。

 素のAGI数値により分身の回復時間が上昇し数値10で10秒短縮される。


【フォーチェンオブクローバー】

 クローバ型のキーホルダー。

 Luk+27

 金属製、金色の縁に緑で四つの葉を象るキーホルダー。

 四回まで死亡を無効化できる。

 最後の一枚を消費してから復活するまでに一枚一日かかる。

 又素のLUK数値によりドロップアイテムや宝箱から入手できるアイテムに補正がかかる。

 素のLUK値が百二十を超えると入手アイテムに+1加算される確率が上昇する。


 魔法使いの小瓶。

 小さな青色の小瓶。

 持っているだけでINT+40。

 決して壊れることがなく、常に中が液体で満たされている。

 本人にとって一番過酷な状況を打破する薬が常に生成される。

 素のINTの値が33,44,55,66,77の値で生成される薬のグレードが上昇する。

 素のINT値が100を超える場合、任意でドーピングアイテム、システムA、システムBが生成可能となる。

 システムA、Bの効果は以下の通り。

 システムA。

 十分間STR+80、DEX-40、AGI+100。

 システムB。

 十分間INT+80、MDN-40、LUK+100。

 再びドーピングアイテムを生成するには三十分間全てのステータスを20捧げなければならない。


 あと今は無理だけど、欲しいアイテムが三つある。

【ルージュオブルージュ】

 CHR+24。

 AGI+24。

 STR+24。

 口に塗る事で効果が発動し体力を持続回復する。化粧落としでルージュを落とすか自然に落ちるまで継続する。

 また空中に文字を描くことができる。その際に文字に魔術的な意味合がある場合は発動する。


【ファムファタル。運命の5番】

 散布型の香水。

 空中に散布し、消えるまでの僅かな間(約5秒間)。半径5メートル以内で何度でもワープすることができる。

 残り香は風と共に去る。

 散布されたフレグランスは5秒の間、あらゆる魔術を打ち消す。

 後一つは忘れてしまった。何だろう。確か……スカートだったような。コートだったような。銃だったような。


 覚えている限りの情報なので若干異なっているかもしれない。

 全部欲しいけれど【魔法使いの小瓶】と【アンニョイちゃん】は絶対欲しい。

 この後を考えたら【フォーチェンオブクローバー】も絶対欲しい。


 路面電車を降りて商店街を駆ける――暗夜町。

 見覚えのある街並み、ここ、本当に暗夜町なのだと認識する。

 物語の舞台。隔絶都市暗夜町。

 【ルージュオブルージュ】と【ファムファタル】は入手できるお店がそもそもまだ開店していないので入手は不可能と考える。


 駆けこんだのはゲームセンター。ガチャポン売り場のランダムガチャポン。

 財布を取り出して小銭を取り出す。

 百円だ。昨今は絶滅してきた百円ガチャポン。

 中身はおよそ六個。絶望的――もう無理じゃない。一応回すけれど。

 百円を取り出して投入、グルグル回して降りて来た黒塗りのカプセル。

 開くと手の中にころりと艶めかしい目玉が転がった。


 【リリスの瞳】。

 【リリスの瞳】よね。義眼、ガラス造り、みたいな。鑑定できないからこれが本物かどうか判別できない。もう一度百円を投入してガラリと回す。妙に黒いカプセル。開くと金属製のデフォルメ人形が収まっていた。

 こういうのはあんまり詳しくないのよね。

 全部は引かない。その場を離れる。改めて瞳を観察。紫色の虹彩。どう眺めても百円で買えるものじゃない。【リリスの瞳】は癖があるので使うのは……悪くはないのだけれど。


 ゲームセンターから外へ。丁度前を通りかかった路面電車へと乗り込む。

 暗夜町は車が走っていない。基本的に路面電車が移動手段となる。

 次に向かうのはリサイクルショップ。

 【リリスの瞳】をジャケットの内ポケットに仕舞い込む。


 喉が渇くかのような焦燥感に襲われている。気が付いて喉が鳴る。髪が長い。髪は肩で揃えていたから、腰まであるのはさすがに。

 顎を伝う汗を袖で拭う。

 元の体は代謝が悪かったけれど、この体は代謝が良い。しかも汗からモモのニオイがする。体臭が桃のニオイってなんなの。咽かえるような自分の体臭と、周りの人達に臭いと思われているのではないかと不安になり距離をとってしまう。

「ねー? なんか桃のニオイするねー」

「ねー。桃食べたいねー」

 桃のニオイはいいニオイだけど、体臭なので何度も心の中で謝ってしまう。


 リサイクルショップの看板が目に止まり電車から降りる。

 駆けて入り口前――自動ドアが開いて、中へ入るとひんやりとした空気が流れていた。

 リサイクルショップ一番右の棚。雑貨などが置いてあり、端から眺めて回る。

 奥まで向かいため息が漏れた。愕然とする。嘘。ないの。嘘でしょ。【魔法使いの小瓶】が一番欲しいアイテムなのに。念のためもう一度棚をじっくりと探る。オルゴール。ガラスの置物。チェスの駒。何度見直しても【魔法使いの小瓶】らしきものは見当たらない。


 念のため別の場所を――模造刀の棚。

 ない――【無明菊一文字】を得るために必要な模造刀一文字が無い。

 やられた。他のプレイヤーがいる可能性が一気に高くなる。


 お店から外へ。【魔法使いの小瓶】が無かった事にひどく落ち込んでいた。

 この体になってからここまで来るのにそんな時間はかかっていないはず……。

 それから【アンニョイちゃん】、【聖者の行進】、【スワロウテイル】、【フォーチェンオブクローバー】が無いのを確認した。

 もう確定でしょう。私以外のプレイヤーがいる。

 ため息が漏れる。

 【魔法使いの小瓶】は絶対欲しかったのに……。

 手元にあるのは【リリスの瞳】だけ。


 自販機で飲んだ事もないようなスポーツドリンクを買い、喉に流し込んだ。

 もう夕日が沈み辺りは夜に包まれ始めていた。

 最後に【無明菊一文字】を探しに行く。


 【無明菊一文字】があるのは古びた神社。

 博物館前で路面電車を降りる。

 カードに着信。ひっきりなしに着信。お母さんから。仄菓さんから。

「お母さん?」

「やっとでた‼ もうぅううう‼ お母さんをそんなに‼ そんなにお母さんを殺したいの⁉ そんなにお母さんにどうにかなってほしいの⁉」

「ごめんなさい。今から帰るから」

「もういい‼ お母さん迎えに行くから‼」

 【無明菊一文字】は諦めかしら。そもそも窃盗になる。神社は誰も管理していない設定だった。


 リサイクルショップで模造刀を買い、その模造刀と入れ替える形で神社から持ち出せる。刀を納めた部屋に仕掛けがあり、同じ重さの刀を置かなければ部屋に閉じ込められる。

 博物館の裏手にある神社。

 先客がいることに気が付いた。


 ぬかるんだ地面に足跡がある。

「はぁ……」

 息を吐く。

 【リリスの瞳】を取り出す。これは本当に本物の【リリスの瞳】なのだろうか。


 でもある意味、【リリスの瞳】なら当たりかもしれない。

 他の六つのアイテムが全てなかったことを考慮すると、もしかしたら……。

 内ポケットから取り出して、袖でごしごしと拭う。

 口元へ近づけると、イチジクのニオイがした。


 軽く唇を添える。甘い……。しっとりとしており、なぜだかアップルティーを飲んでいるかのような感覚に陥って困る。指で口の中に押し込むと、バターのように溶けて無くなっていくのを感じた。これ、ただのお菓子だったかもしれない。

 やっぱり違ったのかな――瞬間、意識が揺らめいていた。空気が歪むような錯覚に囚われて視界が揺れていた。脱力した体。でも不思議と地面へは倒れない。

 背後から誰かに優しく抱きかかえられる感覚。

 細く白く長い指と腕。

 抱えられて立たされて、まるで背後から抱きしめられているかのように。人形のようにマリオネットのように立たされている感覚。

『捕まえた』

 耳もとに息遣い。どうやら、【リリスの瞳】で間違えなかったようだ。

「離せよ‼」

「泥棒‼」

 一人は男性の声、一人は女性の声。

 体が勝手に林の中へと動き出していた。動かされていた。


 影が通り過ぎ、何かが転がって来た――次いでもう一影。

「待って‼ 返して‼ それは私のよ‼ 待ちなさい‼」

 最初の影を次の影が追っていく。

 足元に転がっていたそれは、鞘と柄、刀だった。

 使い方は自然と理解していた。否、私は理解していないのかもしれない。体が使い方を知っており、私の意識と共有して勝手に動く。


 殺撃七連。自然とその技が虚空をなぞっていた。煌めき瞬く剣閃と鞘の中へ刀身が治まってゆく。【無明菊一文字】。

 カチンッと音がした。刀身が完全に納まっている。

 でも、私のビルドって殴りビショップだから、この武器はいらないのよね。

 悩ましいと考えてしまった。


 リリスの瞳の優先度は低かったけれど、ある意味、私にはこれが一番必要だったかもしれない。

 ゲームではゲームの中だからと暴力的な行動が出来たけれど、いくら敵だからと、殺すのは私には無理だ。ボタンポチポチとは異なる。


 刀は古神社境内下の裏の溝へと隠した。

 さすがに刀を持って街中は歩けない。

 すっかり夜。

 カードには仄菓さんからの着信とショートメールの嵐。

「何してるの⁉ 寧々? 寧々よね? 返事して‼ お願い‼ 寧々‼」

 通話状態にして元来た道を戻りやってきた電車へと乗こむ。仄菓さんと話をしながら合流した。

「もうううううう‼ 寧々‼ どうしてお母さんを困らせるの‼」

 時計を見ると二十時。そんなに遅いつもりはなかったけれど、学生としては遅い時間なのかもしれない。

「……ちょっと、どうしても外せない用事があって。ごめんなさいお母さん」

「いいわよいいわよ。そうやってお母さんを虐めればいいわよ」

 体を掴んで離さない仄菓さんの背中へと手を滑らせる。

「ごめんなさい。お母さん」

「ねねぇ……お願い。心配させないで」

 父以外でこんなに触れあうのは初めてだった。

 やっぱり仄菓さんは最高だわ。過去を考えればちょっと可哀そうだし、私の考えは最低なのだけれど。仄菓さんが心配しているのは寧々であって私じゃない。離れたくないのは私ではなく、実の娘の寧々さんだ。

 それを感じながらも、もっともっと命を賭けて心配して欲しいとほくそ笑まずにはいられない。最高に最低で最高に素敵――。だから寧々は好きなのだ。


 家に帰ったら一緒にお風呂。約束だから。妹の夏飴さんにも会ったけれど、警戒され距離をとられてしまった。それを微笑ましいと感じてしまう。

 夏飴さんは仄菓さんの実娘。本来の寧々の妹さん。寧々の正体がサツキだと知っているけれど、仄菓さんの状態を知っているので何も告げずにいる。


 そもそも仄菓さんに誘拐されてここへ連れてこられたのが、サツキが小学三年生の時で、今は高校生だから約七年一緒に生活している事となる。

 夏飴さんは私の一つ下。今年から中学三年生。色々難しい時期なのかもしれないと少し不憫にも微笑んでしまった。


 仄菓さんは私が勝手に何処かへ行ったのでかなり錯乱しており、落ち着かせたら約束通り一緒に入浴した。髪を洗い、髪を洗われ、背中を流し、背中を流され、くっついて湯船へと収まった。

 やっと落ち着いてきたのか、仄菓さんの顔が緩んでゆく。

「明日もお仕事ですか?」

「そうよぉ。何かあったら、遠慮なく電話していいからね?」

「はい。お母さん」

「お母さん仕事疲れたの。よしよしして? よしよしして?」

「お母さんお疲れ様。よしよーし。よしよし」


 それにしても寧々はプロポーションが良い。プロポーションが良いというのはどうなのかと、変な話なのだけれど、撫で肩、ほっそりとした白い腕、インナーマッスルが鍛えられているのに脂肪が程よくある。胸は形が良く柔らかい。

 私の元の体の胸は末広がりであんまり形が好みではなかった。


 体の性能に差異を感じる。

 寧々の体は元の体より体力があり、筋肉質で神経の接続が良い。体が微細に動かせる。

「寧々? どうしたの?」

「ううん。ちょっと考え事」

「お母さんから離れちゃダメよ」

「うん」


 仄菓さん。小さい。身長が。入浴を終えたら疲れてしまっていてすぐに眠ってしまった。約束通り添い寝する。


 男性になりわかったのは、一分が制御不能な事。

 男性について理解していなかったけれど、何かきっかけがあれば制御不能になり、行動が制限されてしまう。鎮めるにも時間を有し、理性を伴っていても思い通りにはならない。それは次の日、朝起きて股間を眺め触れて思い知った。


 隣で眠る仄菓さんのニオイ。

 男性の体は女性の体に触れるのを好むと知る。

 頬を寄せ胸を押し付けて擦りつける。

「んー……」

 眠気眼の仄菓さん。唇を喉元に擦りつける。

「んん? 寧々?」

「おはよう。お母さん」

「んーふふっ寧々。おはよう寧々」

 薄目を開けた瞳、押し付けられる胸元。唇が触れて、胸元に沈む。柔らかい。衣擦れ、リップ音、捕まれた腕、唇を押し付ける。


 親子はこんなスキンシップはとらないと理解している。

 私は仄菓さんが他人だと知っているので、体がこの行為を好ましいと感じていると理解する。オキシトシンとセロトニンが分泌している。


 起き上がろうと体を起こすと仄菓さんが嫌がるように強く腕を絡められた。

「だーめぇ。離れちゃだーめぇ」

 逆に胸の中に仄菓さんを収める。手入れの行き届いた手触りの良い髪に指を通して頭皮に触れる。強く埋もれてくるので強く柔らかく体を押し付ける。


 唇をムグムグしているのを肌で感じる。

「寧々ぇ……何処にも行かないで。寧々。お母さん寧々がこうして傍にいるだけで幸せなの」

 また微睡みの中へと溶け込んでいった仄菓さんのコメカミに唇を寄せる。


 実の娘でなくて申し訳ないのと共に、サツキですらないのに申し訳なさが重なる。

 枕元に置いたカード、掴むとパネルが点灯する。表示された時間は朝四時。

 私が何時も起床する時間だ。

 起き上がり洗面所へ――歯を磨き顔を洗う。やっぱり顔は寧々のまま。


 切れ長で整った形の瞳。瞼の縁は僅かに黒く、エジプトの壁画のように僅かだけれど力強い。目の形が綺麗。そして大きな瞳。瞳が大きいので美人なのに見つめ合うと幼さを感じる。柔らかい鼻元、横を向いても顔はぺったんこではない。肌は白く薄桃色の唇は艶めかしい。

 私から眺めても寧々はとても美人だ。


 普段は朝から走るのだけれど、今日は入学式なのでやめておく。

 ゲームの中で覚えていた制服に着替え、やはりスカートを着ないとダメよねとスカートを着用する。

 スカートの裾は膝下まで。大丈夫なようにちゃんとボクサーパンツを着用している。


 冷蔵庫を開いて材料を確認。

 わかめ、豆腐、オクラ、ニンジン、ベーコン、卵、マヨネーズ、マスタード、食パン、生ハム、レタス、キャベツ。

 お米は昨日のうちに炊飯器へとセットしてあった。夏飴さんかしら。いい子だね。

 私、キャベツの千切りは好きじゃないのよね。

 コンソメスープの素、とりがら、昆布は無いのね。かつおぶしもなし。味噌はあり、醤油はちょっと良いもの、シイタケとマイタケは見つけた。

 弁当箱……編み込みバケットがある。食品包装用ラップで包めばいけるかしら。


 わかめと豆腐の味噌汁、オクラのお浸し、ニンジンの蒸し焼き、ベーコンエッグ。

 お弁当はサンドウィッチが良いかしら。

 味噌汁には隠し味で梅干しと乾燥シイタケの粉末を入れるのが私流だけれど、梅干しも乾燥シイタケもない。出汁もとってないから、シイタケを切り入れて味を調整する。

 やはり、梅干しが無いと酸味が足りないわね。

 このわかめ、渋くないかしら。


 炊飯器を開き、炊けたお米をシャモジでかき混ぜる。

 私、白米は白米だけで食べられないタイプの人間なのよね。

 きゅうりの辛子漬けが欲しいわ。納豆でもいいけれど。


 簡単にベーコンエッグを作っていると、襖の開く音と仄菓さんの姿が視界へ入った。

「寧々‼ あー……良かった。何してるの⁉ 急にいなくなったらびっくりするでしょ‼」

「おはようお母さん。歯磨きして、お顔洗ってきて? ご飯作ったから、一緒に食べよ?」

「え? 寧々、朝食作ってくれたの?」

「今まで、家事とか、手伝わなかったよね。負担ばかりかけてごめんなさい。大変なのに。だから、これからは私も家事手伝いしたいの」

「ねねぇ……」

 するりとお腹に回って来た手。背後に感じる心地よい重さ。

「ありがとう寧々」

「お弁当も作ってるから」

「お弁当まで⁉」


 完成したベーコンエッグ。

 テーブルの上に準備したら妹を起こしに行く。


 玄関入り口右の部屋が妹、夏飴さんの部屋。

 フローリング。カーテン。ピンク色のカーテン。

 棚に少女漫画。

 妹は普通に眠っていた。

「夏飴さん。起きて? 今日は入学式でしょう?」

「うーん……ママ? 今何時?」

「今は六時半ですよ」

 少し生意気そうな目つき、前髪の一部の色が異なる。ピンク色。ピンク色が好きなのかしら。インナーカラー、それともバンクカラーかしら。

 髪の色を染める行為は残念ながら私には縁遠いものだ。


 それにしても可愛らしい寝顔。

 口元にかかった髪を手で整えて退ける。

「へへっ。ママってば」

「ほら、起きてください」

「へへっ。もう少し。もう少し」

「起きないと、額にチュウしちゃいますよ」

「へへへ。してみれあ? すぅぴぃ」

 身を傾けて垂れて来た髪を押さえ、額に唇をつける。

 唇を離して改めて眺めていると、夏飴さんは上半身を急激に持ち上げた。

「へっ? ママ? 今キスした?」

「寝ぼけてますね? 起きてください。朝ご飯出来ていますよ」

「はぁ? はぁあああああああああああ⁉」

 おっと耳が痛いです。

 しまった。私今男の子だった。妹みたいな子でも額にキスするべきではなかったかしら。気をつけないと。母性って厄介だわ。

「ちょっと‼ なんであんたがここに‼ 私の部屋に入って来ないでよ‼」

「あんたじゃないでしょう? お姉ちゃんでしょう? まったく。早く起きなさい」

「はぁ? はぁあああああ⁉」

 だから耳が痛いです。


 制服に着替えて洗面所で身だしなみを整え、朝食の席に着いた夏飴さんは少し拗ねているような顔をしていた。

 目の前の朝食に顔はさらに不機嫌となる。


 対して仄菓さんは機嫌良く味噌汁の椀に唇を添えておりました。

「このお味噌汁美味しいわ」

「そうですか? 私はもっと複雑な味が好みなのですが」

「えー? そうなのー? これで十分よ。寧々が作ってくれたお料理なんだから」

「……気持ち悪い」

 夏飴さんのオクラのお浸しに鰹節をふりかけ醤油を垂らします。

「オクラ、食べてくださいね? 夏飴さん」

「……いらない」

「好き嫌いはいけませんよ?」

「寧々ぇ? ママのには? ママのにはかけてくれないの?」

 お母さんからママになってしまいました。ママの方が可愛らしい呼び方かもしれません。

 仄菓さんの分のオクラにも鰹節を振りかけ、醤油をタラリと回します。


「ねぇママ?」

「なぁに? 夏飴ちゃん」

「この人、どうかしたの? 何かあった?」

「こらっ。お姉ちゃんに対してなんですか? その言い草は」

「夏飴さん。今まで母に「ママ‼」ママに負担をかけてきましたので、これからは家事も少し担当しようと考えております」

「そう」

「夏飴さんはアスパラの豚肉巻が好きでしたよね? 今日の夜ご飯はそれにしますので、楽しみにしていてください」

「なにか……なにかあったの⁉ 変だよ‼ 変だよお⁉」

「変ではありません。これまでは夏飴さんにも負担を強いてきましたね。お姉さんに、これからはその負担も軽減させてください」

「絶対変だよ‼」

 二人の前にサンドイッチの入ったバケットを差し出します。

「今日のお弁当です」

「きゃーふふっ。愛娘がお弁当作ってくれるなんて‼ お母さん今日は頑張っちゃおうかな‼」

「……何を企んでいるの?」

「パン耳でカリカリスティックも作ったので、感想聞かせてください」

 実は今朝の料理で一番自信があるのはパン耳カリカリスティックだ。

 薄く敷いた油でパン耳をカリカリに揚げて砂糖をまぶしてある。

 健康に配慮して黒砂糖等を使いカロリーなる罪悪感を排除したかったのですが、残念ながら普通の上白糖しかありませんでした。


 朝食を食べ終え、母が後片付けをしようとするので制します。

「なに? どうかした?」

「お母さんは「ママよ‼」ママはこれから仕事頑張るのだから片付けは私がやります」

「えっ‼ そんな‼」

「お茶入れるから、おか「ママ‼」ゆっくりしていて下さい」

「……ありがとう寧々」

 母と妹にお茶を出してのんびりして貰い後片付けをします。後片付けを終えたらガス、IH、お風呂、火の回りをしっかりと確認、水が流れていないのも確認。部屋中の鍵が閉まっているのを確認して、7時半。出勤時間です。


 妹とは行き先が同じだけれど、母とは途中から反対方向のようですね。

「私、友達のとこ行くから」

 夏飴さんはそう告げいそいそと離れようとするので手を掴んで引き留めます。

「えっ⁉ なに⁉」

 着用されたネクタイの乱れを直し、セットされた髪の崩れを正します。唇が少し乾燥していますね。今度リップクリームを用意しましょう。

「よし。いってらっしゃい」

「マジきもい……」

 まぁまぁそう言わずに。家族なのですから。

「ママには?」


 仄菓さんはレディスーツを着こなしておりました。なんでしょうか。仄菓さんはふわふわのお姉さん系だと感じます。ダウナー系と語れば良いのか、男にモテそうだと変な感想を浮かべてしまいます。

 同時になぜか心の中に火が灯るような、喉元まで熱が上がって来るかのような妙な感覚に囚われて、独占欲というのか嫉妬心と申しましょうか。

「学校からは真っすぐ帰って来るのよ? 遅くならないように。何かしてても、アプリでわかるからね?」

「お母さん「ママ‼」ママこそ、真っすぐ帰ってきてね? 飲み会とか絶対ダメだから。早く帰ってこなかったら怒るから」

「うふふっ。残業にならないように頑張るわね」

「気持ち悪い……」

 心の底から気味が悪いと夏飴さんの表情に現れております。


 仄菓さんがほっぺにチュウをしてきたので、お返しにほっぺにチュウをします。

 次いで逃げようとしていた夏飴さんの袖を掴んで捕まえます。

「ねぇ? 離して? 私にそれしないわよね? ねぇ? 嫌だからね⁉ 嫌だからね‼ セクハラ‼ セクハラだから‼」

 セクシャルハラスメントの使い方を間違っております。

「もー夏飴ちゃんたら照れちゃって」

「照れてない‼ マジキモイ‼ マジキモイから‼」

「家族なのだから遠慮しなくていいのに」

「マジキモイ‼」

 そうは語りつつも夏飴さんは本気で振り払おうとはしておりません。身を寄せて頬に唇を寄せます。

「うー……やだっやめてよ‼」

 その割には突き放さないので、やはり家族なのだなと感じてしまいます。申しわけないのだけれど、愛情を押し付けさせて頂きます。そうでなければ諸事情により設定こみで夏飴さんは不良になってしまいます。


 路面電車に乗り母とは途中で別れます。

 夏飴さんは友達の所へ向かうからお別れかと考えておりましたが、隣に腰かけております。きっと友達のいない私に配慮してくれているのでしょう。優しいですね。わかります。

 カードをポチポチと弄り。

「……それで? 何が狙いなわけ?」

 こちらに視線を向けずに、夏飴さんはそう告げました。

「仮初とは言え家族です。これまで沢山迷惑をおかけしてきましたので、せめて二人が楽になるようにと考えています」

「ママに免じて家族ごっこは許してあげる。でもママを傷つけたら許さないから」

「夏飴さんは家族思いですね」

「ふんっ」

「ところで、進路は決まりましたか?」

「……なんで?」

「私は今年からミラージュパレスに挑みます。何かできることがあればと存じます」

「……そう」

「頼ってくださいね。仮初ですが、私は貴方を本当の妹にように考えることにしました」

「おっも……」

「でも、もっと突き放されると考えていたので、意外です」

 夏飴さんを眺めながらそう告げると、夏飴さんは露骨なため息をつきました。

「ママの、ママのせいで貴方は……だから、少しは、我慢するわ」

「いい子ですね」

 そう告げると夏飴さんは少し肩をすくめたようでした。

 髪を撫でてあげたいけれど、せっかくセットした髪が崩れたら大変です。


 実は夏飴さんが強く拒絶しないのは知っていました。

 設定では夏飴さんも恋人や結婚の候補だからです。

 母の仄菓さんが心を壊してしまい寧々に執着するものだから、夏飴さんは仄菓さんからろくに愛情を受けられず、愛情に飢えていると設定があります。寧々が捕まえていなければ、夏飴さんはグレてしまいます。

 もう過ぎてしまった過去、今更変えようのない過去だと存じます。


 時間は待ってはくれません。

 いよいよ入学式です。しかしながら私は入学式に出席する気がありませんでした。カードに入っている追跡アプリで母に私の行動は筒抜けなのでフリはします。

 何を言わずとも夏飴さんは自然と離れて行きました。

 増えて参りました学生達の音はアンサンブルのように活発に響き渡っております。

 路面電車を降りた先――大きな学園が窺えて少し立ち眩み。

 今更学生なんて……学生時代に良い思い出の無い私にとって、そこはある意味難攻不落のダンジョンのように窺えてしまいました。

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