9代 第一次山縣有朋内閣
9代 第一次山縣有朋内閣 (2551(明治24・1891)年5月6日~2552(明治25・1892年)6月20日)
▽来歴・概要
元長州藩士。陸軍中将。男爵。陸軍大臣。参謀次長。
伊藤内閣内部の議会対策を巡る対立は、伊藤の辞任により超然主義的意見が一応の優勢を観た。この後を受けて組閣することとなったのが、伊藤内閣の陸軍大臣であった山縣有朋である。山縣が後継首班といて推進されたとき、時の参謀総長であった大村益次郎は大反対したと言われている。首相職は帝国全体のかじ取りを担う役目であり、山縣のような軍人では不適当であるとのことであった。大村の反対を押し切って山縣は組閣した。
成立直後の山縣内閣を襲ったのが、大津事件である。時のロシア皇太子が日本国内を旅行中に巡査に切りつけられるという事件が発生した。”詳細は「大津事件」を参照。”
大津事件の責任を取って数人の大臣が辞職するに至ったが、事件の処理に成功した山縣は政権担当に自信を深め、第2議会に挑んだ。しかし、議会勢力と山縣内閣との対決は早期に訪れた。山縣内閣の樺山資紀海軍大臣が、衆議院本気議において行った演説が野党側を刺激した。議事は空転し、野党勢力は樺山海相に対する非難決議を議事日程に提出しようとしたが、山縣首相は衆議院に対して停会を命令した。山縣首相は、議会停会中に事態の打開を図った。非公式の場にて、野党幹部に対して樺山海相に陳謝をさせることを提案したが、野党側は少なくとも注意の決議を出すことを主張した。山縣首相を始め内閣側が公開の議場での対応を拒否したため、山縣首相は衆議院解散を奏上した。
選挙に臨んで、山縣内閣は大規模な選挙干渉を行った。品川弥次郎内務大臣は、警視庁と府県警察部を指揮し、野党系立候補者に対する選挙取締りを強化した。野盗系立候補者の選挙法違反はどんなに軽微なものであったとしても取締り、政府の意向に沿うことを予め表明した議員対しては、あからさまな買収などがあったとしても告発を握りつぶした。
しかし、政府の努力も空しく、辛うじて議会第一党は野党となった。前回議会において、「土佐派の裏切り」という党内分裂を招いたことで、立憲自由党から一部の議員が離党し、最大時は130議席を持っていた自由党は解散時92議席となっていた。選挙後の議席は88議席と若干落ち込んだものの改選300議席中の第一党となった。
第二党となったのは、院内会派中央交渉会である。第一回議会において、政府系の議員を中心にした院内会派大成会は、あくまで議員有志による団体であって、政党ではないという姿勢を堅持した。衆議院解散に際して、会派解散の届などは特に提出していなかった。これは、総選挙で再度議員に選出されれば、そのまま前回の会派に所属するものと思われていたからとされている。ところが、品川内相による選挙干渉は大きな波紋を呼び、政府系と呼ばれていた議員の多くも眉を顰める状態となった。解散時79議席を数えた大成会系の議員は、78議席と解散時の議席を維持したが、選挙期間中大成会という所属を口にするのは、控えざるを得ない状況となった。そこで、中央交渉会という会派を称することとなった。
第三党は立憲改進党である。伊藤内閣の総辞職後、大隈は山縣首相に対しても是々非々の態度で臨むとしていたが、蛮勇演説を巡る対応では、終始反政府側に回った。こちらも改選前43議席から40議席へと減少した。
その他与党系野党系共に少人数の政党があったり、旗幟を明らかにしない無所属議員や会派があるなどしたが、明確な与党系が102議席、野党系が138議席と改選前よりも政府系の勢力は後退した形となった。それでも、この当時は衆議院選挙の結果が内閣の死命を制するという政治体制ではなかったので、山縣首相は政権担当を継続した。
明治25年度予算が先の国会中に議決されなかったので、憲法の規定に依り前年度予算が執行されていた。しかし、政府が推し進める海軍力整備には、新規予算の成立が必要であり、そのためには、本年度予算の衆議院通過が必要であった。5月2日に召集された第3議会においては、山縣首相は開会当初から選挙干渉問題で苦しい立場に置かれた。早期の海軍力増強を必要としていた海軍関係者の苛立ちが募っている5月末に、山縣首相周辺からこの事態の原因を作ったとして樺山海相の更迭の噂が飛び込んだ。陸軍出身の山縣が樺山海相に腹を切らせるという動きに海軍関係者は山縣降ろしを画策した。
海軍には薩摩藩出身者が多い。軍人による政界工作の動きを知った、政界に於ける薩摩閥の長老、現内大臣の伯爵大久保利通はこの工作に激怒した。彼はすぐさま貴族院勅撰議員となり、院内会派研究会を組織していた小栗忠順伯爵と連絡を取り、善後策を協議し始めた。5月31日、大久保、小栗、そして山縣の三者は会談を開き、政府原案にできるだけ近い形で予算を通すので、貴族院での成立後に退陣するよう迫った。会談には、参謀総長であった大村益次郎、前総理の伊藤博文も招聘され、山縣は予算成立後の退陣に同意した。会談は麹町区三年町にある大久保伯爵邸で行われた。大久保の雅号を取り、甲東邸会談と呼称される。
小栗と大久保を中心に、自由党板垣総理、改進党大隈総理及び党幹部との間に調整が行われ、6月8日衆議院で予算が通過した。貴族院での審議は、小栗が主導権を握ったことで、速やかに予算審議を修了させ、6月13日に可決させた。
後継首班の選定に関しては、山縣の意見が考慮された。曰く、衆議院の動向に振り回されていては安定的な政権運営はできない。しかも、日本の海軍力拡張は急務でありながら、この動きに過激派(野党のこと。当時、政権内部では与党を温和派、野党を過激派と呼んでいた。)勢力は断固たる拒否を突きつけている。立憲政治を継続していくことが我が国にとって重要であることは理解しているが、しかし、政府が衆議院に対して、吾輩の内閣のように予算と引き換えに引導を渡すということは我が国の今後を危うくするものではないか。山縣は、以上のような内容と共に、次期内閣首班には、はじめから裏工作を行い、戦いを放棄するのではなく、なるべく政府の意向を通すよう動くべきであると説いた。
小栗や大久保と言った長老クラスは既に政党を政権側に取り込むことを考え始めていた。だが、政党の要求をすぐさま国政に反映させるようなこともまた危険視していた。新規の軍艦建造費を盛り込んだ予算を否決に追い込んだ政党勢力は、支持者である地方地主層の利益である民力休養・政費節減を代弁する存在にすぎないと喝破していた。それがため、伊藤博文が枢密院議長を辞任し、政党を組織しようとした動きを時期尚早として押しとどめていた。
しかし、立憲政治を運営していくうえで、議会対策は重視しなければならないことは確かである。野党勢力の「民力休養・政費節減」論に敢然と立ち向かうためには、しっかりとした理論武装が必要であると判断した小栗ら長老は、山縣の後継首班に財政の専門家であった松方正義を推挙した。
▽在任中の主な出来事
・大津事件
・蛮勇演説
・品川内相による選挙干渉
・第2回衆議院議員総選挙
・甲東邸会談
▽内閣の出した主な法令
・鉄道敷設法
・民法典(第2議会・審議未了)
▽内閣の対応した帝國議会
・第2回帝國議會・通常会
召集:明治24年11月21日
開会:明治24年11月26日
解散:明治24年12月25日
・第2回衆議院議員総選挙
改選数:300
投票日:明治25年2月15日
選挙制度:小選挙区制(一部2人区制)
実施地域:45府県(北海道、沖縄県、小笠原諸島を除く)
選挙権:
直接国税15円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、裁判官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
・第3回帝國議會・臨時会
召集:明治25年5月2日
開会:明治25年5月6日
閉会:明治25年6月14日
△内閣閣僚
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