7代 第二次小栗忠順内閣

7代 第二次小栗忠順内閣 (2547(明治20・1887)年8月27日~2549(明治22・1889)年10月25日)

▽来歴・概要

 第二次小栗内閣の重要課題は憲法制定である。明治21年4月、枢密院が設置され、憲法審議が始まった。枢密院議長には憲法草案の作成に尽力した伊藤博文が就任し、議事をリードした。首相に小栗、内大臣に大久保利通の体制で憲法審議が行われた。”詳細は「帝國憲法制定審議経過」を参照”

 地方制度の整備という観点からは、この内閣で一定の完成を見た。それが、「市制町村制」である。基礎自治体としての「市町村」制度が確立し、都市の市と地方の町村で、自治体組織に差異が設けられた。市には市参事会と言う市会よりも小規模な副議決機関が存在し、その構成員は市役所の職員が多数を握っていた。また、町村会においては、町村長が町村議会の議長を兼任する事例も多く存在した。このように地方自治という点では不十分な面もあったが、地方自治の萌芽は着実に根を張っていった。

 対外政策では、領事裁判権を規定せず、関税自主権を定めた初の非アジア国との平等条約である日墨修好通商条約の締結が顕著な功績として挙げられる。駐米公使の陸奥宗光が締結した。

 メキシコ以外の国々とも条約改正の交渉を続けていた。この陣頭指揮に当たっていたのが、子爵大隈重信外務大臣である。明治十六年の政変によって下野した大隈は、その後立憲改進党の設立や東京専門学校の創設などの活躍で一定の存在感を見せ続け、経済界や教育界に顔が聞き、海外でも知られた顔となっていた。小栗は、大隈を説得し、大久保利通との間にも和解をさせた上で彼を外務大臣に就任させた。条約改正問題にあたった大隈が、條約改正の草案として提出したのが、外国人司法官の任用である。日本国籍を取得した外国人を判事に採用することを条件にして、領事裁判権の撤廃に動こうとしたが、これに対する抵抗が激しく、ついには大隈に対する爆弾テロが発生するに至った。現役閣僚に対するテロ事件に対する責任を取って小栗は退陣した。

▽在任中の主な出来事

・日本標準時の制定

・枢密院設置

・海軍兵学校が江田島へ移転

・宮城宮殿落成

・日墨修好通商条約締結

・大日本帝國憲法、皇室典範、衆議院議員選挙法

・子爵大隈重信外相遭難事件

▽内閣の出した主な法令

・市制町村制制定

・枢密院官制及枢密院事務規程制定

・徴兵令改正

・大日本帝國憲法公布

・皇室典範制定

・衆議院議員選挙法制定

▽内閣の対応した帝國議会

・帝國議会設置前

△内閣閣僚

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