6代 大久保忠寛内閣
6代 大久保忠寛内閣 (2546(明治19・1886)年11月25日~2547(明治20・1887)年8月27日)
▽来歴・概要
元幕臣。子爵。
前述の通り、ワンポイントリリーフとして発足した大久保内閣は、大蔵省の混乱を治めるとの名分の元、内閣総理大臣が大蔵大臣を兼任するという異例のスタートとなった。但し、首相の職は激務であり、また重職であるため、兼任と言う形では政務が滞る事になりかねない。大久保忠寛を補佐するため、小栗が無任所の班列大臣として入閣した(本官は元老院議員)。小栗の再登板とならなかったのは、退陣する大久保利通の薩摩藩出身者に配慮してのことである。大蔵省内における対立は、大久保・松方を頂点とする薩摩藩出身者と大隈重信を背景に持つ肥前藩出身者との対立である。
閣僚のほとんどを大久保利通内閣期から留任させてスタートした大久保忠寛内閣の最重要課題は大蔵省の健全化と来年度予算の策定である。首相官邸ではなく蔵相官邸を居にした忠寛は、大蔵省の健全化に向けて積極的に取り組んだ。大蔵次官に佐野常民を据えたことで大隈派に配慮しつつ、インフレ対策のため次官級の職(財務官)を新たに作り、これを大久保利通・松方の腹心たる渡辺国武に任せた。年を開けた2月の末ごろに明治20年度予算案が仕上がった。デフレ抑制は薄れたものとなったが、4年間かけた、政商への官営模範工場の払い下げ、煙草税や酒造税などの増徴による歳入増加策、政府予算の縮小等といった松方財政の結果、本位貨幣の準備高は4割に達成しており、国内の景気浮揚策への転換が行われることとなった。
忠寛は、予算の執行状況を確認し、来年度予算の大枠が定まったことを受けて、大蔵省の健全化が一定の成果をみたと解し、首相職と蔵相職を辞任した。
△在任中の主な出来事
△内閣の出した主な法令
▽内閣の対応した帝國議会
・帝國議会設置前
△内閣閣僚
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