大日本帝国歴代内閣

@monamoro

内閣制度前史

 江戸幕府の三大改革とは、享保の改革、天明の改革、天保の改革を言い、幕末の三大改革とは、安政の改革、文久の改革、慶応の改革を言うが、その最後にあたる「慶応の改革」において、内閣制度の前身が誕生した。江戸幕府の機構は、老中4、5人が月番で政務に当たる体制となっていた。勝手掛老中という財政問題を専管する老中もいたが、それ以外の老中には専管はなかった。慶喜は陸軍総裁、海軍総裁に老中を充てるとともに、会計総裁、国内事務総裁、外国事務総裁の職を新設しこれにも老中を充てて、老中の月番制度を廃止した。この際に無任所の板倉勝静を老中首座に任じ、老中中の首席の地位を与えた。これが我が国の内閣制度の前身となった。

 大政奉還と慶喜の将軍職辞任という変化があったものの、朝廷よりこれまで通り国内の政治に従事するようにと言う勅許を得、慶喜による新たな国家統治の構想は進んでいった。鳥羽伏見の乱の後、朝廷は慶喜に対する大政再委任の動きを見せる。しかし、従来の幕府政治が限界にきていると判断した慶喜は新たな国家体制の構築を進めることとした。慶喜は元々勤王の精神に篤い水戸徳川家出身でもあることから、朝廷を尊崇する感情が他の大名よりも強かったことから、公武合体論による朝廷と幕府の融合による新制度の創設を意図した動きを見せた。それは、慶喜が自身の新たな権力の源泉として太政大臣を望んだことからもうかがえる。

 太政大臣として、太政官を統制下に置くことで朝廷と幕府とで分離していた国家統治組織を再統合する意図があった。但し、太政大臣として職務を遂行するとしても、太政官に職務を遂行させるわけにはいかない。太政官には日本全国を統治能力はないからである。それゆえに、慶喜は太政大臣として、公武の頂点に立つ一方で、前征夷大将軍(さきのせいいたいしょうぐん)として、幕府機構を全国統治の基盤として利用した。

 慶喜は、凡そ10年をめどとして、国家統治の新体制に移行する準備を為すように旧幕機構に指示した。慶喜の側近であった西周や津田真道などは、欧州に渡って政治制度の調査を行う者や日本全国の藩政府の役人から地方制度の状況を観察し、郡県制の公布に向けた取り組みを進めた。

 江戸幕府の諸機構は、建前としては江戸徳川家・徳川宗家の家政機関である。講学上、江戸幕府が全国を統治する機関として扱われることがあるが、封建制度の建前においては一家の私的機関である。これがために、いわゆる外様大名やその藩士が老中、若年寄や奉行などに選任される例はなかった。慶喜は、薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通といった人物と面識があり、有能な人物を国家運営に参画させることが、西洋列強職に伍していくために必要であると考えていた。このような考えから、慶喜は幕府機構の近代化への脱皮を図るために版籍奉還と御親兵設置を断行した。

 版籍奉還は、全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革をいうが、これにより旧来の封建体制下における主従関係にあった藩主と藩士の関係が再定義される形となった。これまでの封建領主とその家臣がそれぞれ先祖代々受け継いできた主従の関係性は公的には否定されることは無かったものの、朝廷が藩士を召し出すに際しては、領主の許可を得ることなく、朝廷が独自に行うことになったという点でそれまでの主従の関係性に変化が生じることとなった。

 この際に、旧幕機構に存在した総裁職を頂点とする組織である陸軍局、海軍局、会計局、国内事務局、外国事務局の組織改編が行われた。陸軍局、海軍局はそのままで、会計局は名称が変更され大蔵局に、国内事務局は内務局に、外国事務局は外務局に変更され、新たに司法局と文部局、宮内局が新設された。朝廷の2官8省は従前の通り存置されるものとして、大蔵卿や民部大輔といった従来の官名は残されたが、国家統治の実権が8省へ移ったわけではない。朝廷が召し出した藩士たちは朝廷の8省にそれぞれ所属するが、実際の勤務地は東京となった。即ち、兵部省に出仕した者は陸軍局か海軍局へ、民部省、大蔵省へ出仕した者は大蔵局へ、治部省は外務局へ、刑部省は司法省へ、式部省は文部局へと言った具合であった。内務局は8省に相当する機関が無かったため、中務省や各省出仕者の中からは選別されて配属されることとなった。出仕者本人へは朝廷への出仕ということで、これまで仕えていた封建領主のさらに上位者に仕えるという態であるため、旧主である封建領主の名誉感情を満たしつつも、当時の慣習では、旧幕府の統治機構は依然として徳川家の家政機関であるという見方がなされていたため、陪臣が徳川宗家に出仕するというような奇妙な状況が併存していた。

 この奇妙な関係は、慶喜の構想の通り10年程度存続したが、それまでの間に慶喜は朝廷工作を行い、律令制度上の官制を名実ともに公武で合体させるように動いていった。律令制度の官制には官位相当制が用いられており、官職に据えるには必要な位階が与えられていなければならない。省の長官である卿の位階は正四位上下に当たり、旧幕時代には大藩の大名当主にしか叙されていなかった位である。慶喜としても世の大勢を占める名誉感情は無視できなかったため、卿や次官である大輔の地位が空白となるように動いていった。即ち、律令制度の省のそもそもの権能が旧幕機構である局へと移行するために、有名無実となった律令制の省そのものを改定して再構築するため、旧来の組織のトップを不在にして自然消滅を図ろうとしたのである。

 その中で一つの事件が起こる。朝廷工作の甲斐もあってか、明治6年には大蔵卿と大蔵大輔の席が空白となり朝廷は後継を定めなかった。そこで、慶喜は、大蔵権大輔に当時の大蔵総裁であった大久保忠寛が任じられるように朝廷工作を行った。権官は、定員外の役職であり、正規の官が空白であるときに任じられることは無い。さらに、幕府旗本、それも大身の家であれば、従五位の位には叙されることもあるが、大輔の地位は正五位が相当であるため、旧幕時代の身分制度では就任は不可能であった。

 それでも慶喜は、省の長官ではなく次官、それも権官であることを理由として押し切った。ただし、長官である卿も次官である大輔も空職であるため、大久保忠寛は事実上朝廷の一省の責任者たる地位となった。この経緯を巡っては、朝廷内・旧幕府内でも動揺が起こり、慶喜の動きを急進的とみるか、漸進的とみるかでの立場の違いから野に下った者もいた(明治六年の政変)。

 慶喜は明治8年ごろから次第に政治の中心となる立場を退き、その頃から、政府の運営を総裁首座の者に任せるようになっていった。発足時には老中(譜代大名が就任)が就任していた各総裁職にも、慶喜の将軍職辞任後には老中格や若年寄が就任するようになり、大久保忠寛を始めとした旗本出身者も就任する例が増えていった。明治7年には、内務総裁の下の次官にあたる内務奉行には、薩摩藩出身の小松清廉が任じられるなど多彩な人材登用も進んでいた。

 親王が任官されていた中務卿や式部卿には、「称号」のとしての名乗りを許す勅許が出されたこともあり、慶喜は、律令制度の創設以来続いていた朝廷の在り方を根本から改めはしなかったが、「太政官」の解体に向けて統治機構の改造を行った。

 明治10年、内閣制度が発足した。内閣総理大臣と各国務大臣により構成される内閣が、これまでの総裁首座と各総裁により構成されていた総裁会議に代わって設けられることとなった。これまで太政大臣として公武の頂点に立っていた慶喜は、太政大臣の職が無くなるのを期として、新たに新設された元老院の議長職に移った。元老院は、法令案の制定に際して、内閣から諮問を受けて、意見の述べる機関であり、現在の帝國議会のように立法権を協賛する機関とまではいかなかったが、慶喜が議長職である以上は、現実的には内閣側が元老院の意見を無視することはできなかった。

 明治10年から帝國議会開設までの期間を通して、法律の制定機関たる立法機関と法律の執行機関たる行政機関の分化が進むようになり、今日の帝國憲政の基礎が出来上がっていくこととなった。

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