夢の浮橋を渡った先
佐倉伸哉
前:ロッキングチェアに揺られ
ぼんやりとした頭が眠りから
ここ最近、お気に入りのロッキングチェアで寝落ちする日が続いている。ベッドで寝ないとと毎回思うが、チェアから立つ気が起こらない。
揺れを利用し立ち上がると、体のあちこちから悲鳴が上がる。全身を包み込み気持ちを落ち着かせる快適性はあれど、横になって眠るのと比べれば回復も負担も
向かいにあるチェアが目に入り、誰も座ってない事を認識しアタシの
夫の死で、アタシは天涯孤独の身となった。アタシが二歳の時に両親は離婚、母は一人娘のアタシを育てる為に身を
心の広さに限らず、博識で、才能に満ち溢れながら努力家で、常に謙虚で感謝を忘れなかった。アタシには勿体無い素敵な人だったけど、価値観や
『ずっと君の側に居る』
プロポーズで誓った夫の約束は果たされず、アタシを残して先に逝ってしまった。遺体を確認してないのもあり、夫の死を未だに受け容れられていない。ふらっとアタシの前に帰ってきてくれる、そんな気持ちが心の片隅にまだ残っていた。
夫の
唯一の好材料は、お金の心配は要らない点か。自宅は結婚を機に大規模リフォームし新築同然、母と夫の死亡保険金に加えて夫の勤務先から多額の賠償金が支払われ、
泣いて泣いて泣き腫らし、涙は
ノロノロとした足取りでキッチンへ向かう。リビングもキッチンも、あの日から
(……喪服)
吊るされている喪服。葬儀で袖を通したからにはクリーニングへ出さないといけない。コップに注いだ水を飲み干したアタシは、それをやろうと決めた。
外出するからには、ずっと着続けた部屋着にノーメイクとはいくまい。身支度を進めるアタシは、久し振りに人間らしい事をしていると思った。
軽く化粧し
喪服に財布・スマホなど必要最小限の物を持ち、玄関の扉を
自宅の敷地外へ出た瞬間、立ち
直後、不運にも誰かとぶつかってしまった。その衝撃で地面に倒れ込む。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫です……」
頭上から声を掛けられ、咄嗟にそう答える。実際、出血や痛みは無かった。
だが、思いとは裏腹に立ち上がろうとして
「失礼ながら、
相手から手を取られ立ち上がらせてもらうと、体を支えられながら自宅へ戻る。そのままリビングの椅子に座らせてもらい、相手から持って来てもらった水を飲んでようやく一心地ついた。
話が出来る状態に回復したと判断した相手は、向かいの椅子に座り深々と頭を下げる。
「この度は申し訳ありませんでした」
「いえ、そんな……!!」
そもそもアタシの不注意が原因なのに
今まで気付かなかったが、相手はなかなか特徴的な人だった。
髪はマリーゴールドを思い起こす鮮やかなオレンジ色、キツネのように細い目にスッとした鼻、しっとりとした乳白色の肌。スーツは
「
隣の椅子の
しんみりとした空気が暫く続いてから、相手は慎重に口を
「申し遅れました。
懐の名刺入れから取り出した一枚の名刺を、アタシに差し出す。『ハッピーライフコンサルタント froh』と記されていた。
名前の読み方が分からず小首を
「“フロウ”と読みます。ドイツ語で“楽しい・愉快な・
言葉の響きから一瞬“浮浪・不労”とネガティブなイメージが浮かんだが、説明を聞いて一変した。ニコッと笑った時の糸みたいな目に人へ安心感を与える声色、正しく名前の通りだと思う。
「その……『ハッピーライフコンサルタント』とは、どういったご職業なのでしょうか?」
初めて見る肩書について訊ねてみると、これもよくある事らしくフロウは慣れた様子で答えてくれた。
「社会が多様化する昨今、価値観や仕組みの変化に追いつけず心身面で不調を
スラスラと述べられた説明に思わず「へぇ……」と感嘆の声が漏れる。世の中には色んな仕事があるものだなと率直に思う。
「そうだ! 今日こうしてお会いしたのも何かの縁。お洋服を汚してしまったお詫びに、私共のサービスを体験してみませんか? 勿論、お代は頂戴致しません」
フロウの唐突な提案にアタシは最初断ろうかと思ったが、グッと言葉を呑み込む。『幸せのお手伝い』のフレーズが気になったからだ。
固辞する姿勢を見せない事を承諾と捉えたフロウは、静かに訊ねた。
「旦那様を亡くされた現在、何が一番お辛いでしょうか?」
「……夫に、夫に会いたいです」
質問にアタシは即答する。突然居なくなった夫と、兎に角会いたかった。
切なる願いを受けたフロウは「
「こちらの品は“夢の
「では、そちらをお願いします」
「
促されたアタシは、お気に入りのロッキングチェアに腰を下ろす。フロウはローテーブルに皿のお香立てに
ユラユラと揺れるチェアに薫物の甘い匂いが合わさり、瞬く間に眠りの世界へ
気が付けば、アタシは深い
「あなた……」
亡くなった筈の夫が、目の前に居る。感動のあまり、夫へ抱きつく。匂い、温もり、包み込む優しい腕の力。全て、生前と一緒だ。
言いたい事や聞きたい事は沢山あった筈なのに、いざ再会した途端吹き飛んでしまった。言葉なんかより、体温や感触の方が確かだった。
「済まない。君を置いて先に逝くなんて」
「いいの。こうしてまた会えたから」
夫の謝罪にアタシは首を振る。
「……痩せたように映るけど、ちゃんと食べてるかい?」
「うぅん。食欲が湧かないの」
アタシが正直に明かすと、夫は「ダメだよ」と
「君が倒れると困る。元気な姿を見ていたい」
夫の
すると、夫の顔が曇る。
「……ごめん。もう行かないと」
どうやら別れの時が迫っているみたいだ。それでも二度と会えない夫と対面を果たし言葉を交わせただけで大満足である。
「くれぐれも、体だけは気を付けて。見守っているから」
「
フロウの呼び掛けで、現実に戻った事に気付いた。時計を見れば
「……はい。とても素敵な夢を見れました」
「それはよろしゅうございました。とても幸せそうな寝顔をされておられましたよ」
赤の他人から指摘され、恥ずかしさから頬が熱くなる。ただ、居心地の悪さは感じない。
事実、夢から醒めたアタシの心は軽やかだった。尽きていた気力が体内から湧き上がってくる感覚さえある。
アタシの反応を見て、フロウはにこやかな笑みを浮かべながら言った。
「今回はお試しという形でしたが、御満足頂けて何よりです。もしまた心がしんどくなりましたら、名刺に記載してあります電話番号へお掛け下さい。ご希望の日時にお伺い致します」
そう告げたフロウは一礼してから辞して行った。暫くボーッとしていたアタシは、喪服をクリーニングへ出すべく再び玄関へ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます