第11話
霧島家に戻ってきてから、私は部屋を出ることがなくなった。
千都さんも家に帰ってくることのほうが少ない。
帰ってきたと思えば毎回、甘い香水の香りをまとっていた。
それが余計に私をイラだたせて、帰ってきた彼にも目をくれなくなっていた。
早くこの場所を抜け出す。
その計画で頭が埋め尽くされて、一番手っ取り早い方法が一つだけあることに気づいたんだ。
それは千都さんのいない深夜に抜け出すことだった。
…………
いつものように千都さんが家を空け、みんなが寝静まった深夜二時。
着替えをして、こっそりと部屋を抜け出す。
調べた限り、この時間に起きている人はいない。
早い人で三時には行動が始まって、遅く寝る人で一時までは起きてる。
だから今の時間が絶好のタイミングだ。
靴をしまわれてるから、裸足で逃げ出すしかない。
でもそれで逃げることができるならそんなこと気にしない。
庭に降りると裏口にも玄関にも向かわず、家を囲む塀に向かって走り出した。
足で地面を蹴って、壁に足をついて穴へと手を通す。
切れる手足も気にせずに私は塀を乗り越えた。
ゆっくりと反対側に降りると一気に心が澄んだ。
スーッとした感覚に笑みがこぼれる。
やった。やったんだ。
ようやくこの家から逃げ出せたんだ。
田んぼ道を小走りで走り、離れていく霧島家を何度か振り返りながら足を進める。
ようやく大きな道路に出ようとした瞬間、そこをふさぐように黒塗りのセダンが止まっていた。
嫌な予感に足が後ろに下がる。
そのとき、ドンッと何かにぶつかった。
体温のある何か、生臭い匂いのするダレかに。
ゆっくりと振り向けば、冷たい目で私を見下ろす旦那様がいた。
ヒュッと喉が鳴り、無意識に走り出そうとした私を千都さんは背後から抱きしめて止める。
いつものさわやかな匂いじゃない。
いつもの千都さんの匂いじゃない。
甘くもない。
なに、このにおいは。
「こんな時間にどこに行くつもりだ? 結愛」
今までで一番低い声。
耳元で『ふっ』と笑う声。
こわい。こわい、こわい。
なにかがこわいよ。
「なぁ? 連れてってやるから答えろよ」
「な、ん、で…」
「聞いてんの俺なんだけど?」
勢いよく正面を向かせられて、顎をつかまれる。
千都さんの黒い服から匂うものに涙がこぼれた。
「このにおい、なに」
「……あぁ」
「なに、このにおい。かのじょさんにあってるんじゃないの? なんでこんなへんなにおいするの?」
頭の中がごちゃごちゃだ。
逃げ出したいのに、逃げ出そうとしてたのに、捕まって、変な匂いがして、千都さんは怒ってて。
何がどうなってるのか全然わかんない。
「俺の何が足んなかったんだよ」
「ぇ……?」
震える声で問いかけながら千都さんを見上げる。
千都さんは傷ついたような泣きそうな顔をしていて、私の心はぎゅっと締め付けられた。
「用事がないなら帰るぞ。手当ても必要だしな」
「ッいや!!!」
「嫌じゃねえだろ」
ぐっと手首をつかまれてギリギリと力がこめられる。
片足をが浮くくらい高くあげられ、私は初めてされる乱暴な行為に涙があふれた。
いつも千都さんは優しくしてくれた。
痛いことも怖いこともされたことがない。
なのに、なんでいまは……。
「あ、れ……?」
涙がボロリとこぼれる。
なにかがおかしいんだ。
だって、痛いことも怖いこともされたことがなくて、欲しいものはなんでも買い与えられて。
ただ家から自由に出ることができなくて、ただ、それだけで。
このときはじめて大事にされてたんじゃないかってことに気づいた。
だって借金の肩代わりなのに、私にとってのデメリットが少なくて、むしろなんでも手に入ってなんでもしてもらえる。
家事だってすることがない。
ただ家にいて、家で好きなことをしているだけ。
それを咎められたこともなければ、何かしろとも言われたことがない。
「わた、しは…」
「結愛?」
「わたしはただ…」
ただ、一つ気に入らないことがあっただけだ。
ただそれだけで私はこの家を出たかった。
この人から離れたかった。
「あまいにおいがいやだった」
「……あぁ、そうだな」
「ただ、それだけなの」
彼女の匂いが嫌だった。
そんなに染みつくくらいそばにいたなら、匂いを落としてから帰ってきてほしかった。
形だけでも夫婦なら、それくらいしてほしかった。
「なぁ、結愛」
「……なに」
「この匂いと甘い匂いどっちがいい?」
その質問の意図がわからず、首を左右に振った。
「どっちもいやっ!」
「ん。そうか。でも、この匂いは…血の匂いは嫌だろ」
千都さんは私の手首を離して、私の頬をなでながら乾いた笑みを浮かべる。
「ち……ってなに?」
「俺はヤクザで若頭だからな」
「………じゃ、あ…あのあまいにおいは」
「ん。これからふる予定だった」
そういわれた瞬間、涙がほろりとこぼれおちた。
「結愛、帰ってから話そう。な?」
「………」
「今までとこれからの話をしよう。お前が知りたいことも全部教えるし、お前がしたいこともできる限り叶えてやるから」
私の返事を聞かずに千都さんは私の体を抱えた。
お姫様抱っこをされて車に向かっても、私は騒ぐことも逃げようともしなかった。
ただ、あのあまい匂いをかぎたくなった。
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