ユリオン・ヴィーツの利用規約
観光ビザの旗印の元にタロッケスとゼルマールのユリオン・ヴィーツがついにナグジェで正式に始動した。
この素晴らしきサービスの全容はこちらだ。
タロッスケさんが
料理や日常品を
自転車で
運ぶ
すなわち、『出前』である。堅い言葉では『運送』だ。サービス名の『ユリオン・ヴィーツ』は特定の意味を持たない造語である。世間に出前や運送と気付かれないための工夫だ。
実際問題、当社は今回の本格稼働に先んじて、一か月前から試験運用を開始した。これは昨日今日の突飛な思い付きではない。段階的な工程と実績の末のスタートである。以下が主な経緯だ。
一週目、ナグジェ市内をサイクリングしながら土地勘を鍛える
二週目、広場、神殿、商店街などの要所を押さえて、エリアとルートを練る
三週目、地元の馬、荷車、荷馬車などの競合の動向を調査する
四週目、お試し期間を設け、格安で料理や荷物を運搬する
完全な事業計画だった。そして、副次的にこの都市の地理、規模、商業、産業、文化、宗教などがぼくの体験と一体化して、現実の血肉となった。郷に入りては郷に従え、習うより慣れろ、身体で覚えろ、足で稼げ、これらは全く非常に正解である。
当社のようなサービスに最も重要な項目は都市の規模と人口だ。ぼくらは自慢の機動力を活かして、町から街へ、道から通りへ、都心から郊外へと走り回って、ナグジェの全容を掴んだ。総走行距離ざっと千キロの実地調査で一区から十区までの都心が五キロ、十一区から二十区までの市内が十キロ、市外広域が二十キロで、これらがサロロ川を中心にして円状に広がった。
当市の人口の実態は少しぼやけるが、面積約二十キロ平方メートルの旧市街、『ガラ・ナグジェ』の建物の密集と活気はニホンの都心エリアとほとんど変わらない。ここの住人だけで二十万人前後でないか。もちろん、日中には周辺からの流入があるから、活動人口はこれを優に上回る。とにかく、出前、配送、商売には十分な条件だ。
このお試し期間でいくらかの小銭は溜まった。観光ビザの代金の五スーンはもうあった。が、しかし、小規模な個人事業の初期の資金は非常に大事だ。たとえば・・・そう、郊外の農家で三スーンの野菜を仕入れて、ナグジェの市場で売れば四スーンほどを稼げるし、余りものをバスラさまに寄付できる。
ただし、生鮮食品の物販は賞味期限と在庫リスクとの戦いだ。冷蔵庫というこじゃれた物は当市にはない。大きな荷物はゼロ丸に乗らない。キノコ、ベリー、豆、木の実、香草、栗は可、カボチャは不可だ。とくにナッツと栗は良い商材だ。焼き栗は焼き芋並みに儲かる。ちなみに、芋類はこの地ではレアな珍味だ。
そして、本格的な行商には運搬車両の積載量が物足りない。ゼロ丸にはかごや荷台がない。この子は本質的に山遊び用である。補助パーツはベルだけだ。サイクルトレーラーみたいな荷車を車体に接続すれば容量を増やせるが、ぼくはそんなものの販売店を知らないし、そもそもおそらく買えない。ナグジェの物価はお高めで、賃金はお安めである
これらの積極的、消極的な考察からチャリ出前こそはぼくらの門出に相応しい生業だった。経験は豊富だ。たろすけ氏の前世は牛乳配達員だった。
ところで、現代型の出前や配送にはデジタルデバイスは不可欠だが、このユリオン・ヴィーツではそれは規約違反だ。ゼロ丸のアシスト、スマホの電源、いずれが常にオフだ。スイッチを押せるのは一時間に一回だけだ。
もちろん、これはバッテリーの残量に起因する。ゼロ丸の胃袋はすでに四十二パーセントしかない。電気の消費はかなり節約されるが、自然放電という厄介な現象がある。一か月で五から八パーセントが勝手に失われてしまう。使うと減る、使わなくても減る、じゃ使うかといって使うとさらに減る。悩ましい問題だ。
スマホの使用は激減した。ニホンの数値はナグジェには合わない。文字が違う、記号が違う、数の数え方が違う、時間感覚が違う。ナグジェ人は時間におおらかだ。分秒単位でせかせか動かない。極め付きに一日の長さが物理的に違う。こっちの一日は二十三時間五十五分ぐらいだ。この三か月で時差が八時間ほど広がった。またまたスマホがぶんちんに近付いた。
そんなこんなで、タロッケスとゼルマールの古風な出前業改めユリオン・ヴィーツが正式にスタートした。ぼくは小さな旗をハンドルに取り付け、「はやいよ、やすいよ、うまいよ」とナグジェ語で囃し立てつつ、ちりんちりんとベルを鳴らしながら走り出した。
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