第4話 からっぽ
私は昔からお兄ちゃんっ子だった。
カッコよくて、優しくて、私が困った時は必ず助けてくれた。
そんなお兄ちゃんに憧れるのは当然で、子供の頃に将来の夢はお兄ちゃんのお嫁さんになると言ってしまうぐらい好きだった。
今でもそれは変わらない。
さすがに昔ほどベタベタではないけど、時々、友達から「またお兄さんの話?」と呆れられてしまう事がよくある。
だからこそ、お兄ちゃんがさよちゃんを襲ったと聞かされた時は本当に驚いた。
けど、私にはお兄ちゃんがそんな事をするようには思えなかった。
それはお父さんもお母さんも同じだった。あの映像を見るまでは。
「お言葉ですが、息子がとてもそんな事をするようには…………」
「あの子に限ってそんな。きっと、人違いじゃないんですか?」
そう訴えていたお父さん達だったけど、モニターに写し出された映像を目にした途端、黙り込んでしまった。
そこに写っていたのは、さよちゃんに痴漢をして逃げる犯人の影。
嘘……そんな。
私は何度も目を疑った。
だけど、そこに写る人物はお兄ちゃんにしか見えなかった。
顔はよく見えないけど、それでも背格好は同じで、着ている服も実際にお兄ちゃんが持っているものだった。
ふと、隣へ目を向けると、愕然とした様子で目を見開き、困惑しているお兄ちゃんの姿があった。
その驚きようを見て、やっぱりお兄ちゃんじゃ無いんじゃないかなと思えた。だけど、それでも私は信じきることができなかった。
それからお兄ちゃんの悪い噂が広まると、次第に私へ向けられる視線も変わっていった。
幸いなことに、それで私が虐められるという事はなかった。どうやら、私は兄妹が犯罪をしてしまった可哀想な子と周りから思われてるらしい。
気遣ってくれるのは有り難いけど、周りの皆からお兄ちゃんを悪く言われるのは辛かった。
そんな時、友達からあるものを見せられた。
下校中の私を盗撮した写真だった。
気味が悪かった。
それと一緒に、あるネット掲示板の存在を知ることになる。
そこにはお兄ちゃんを罵倒する言葉で溢れており、その中でとあるコメントに目で止まった。
:たまたま近かったから見に行ったんだけど、もしかして噂の妹ちゃんかな? めっちゃ可愛いかったんだけど
:マジ? 通学路とかに行けば会えるかな
血の気が引いていくのが分かった。
私は顔を蒼くして、不安と恐怖でどうにかなりそうだった。
それ以降、視線を感じる度に怯える日々が続いた。
登下校中、大人の男の人を見かけると怖くて堪らない。正直、生きた心地がしなかった。
そして、その恐れが現実のものとなった。
友達の都合が付かず、その日はどうしても一人で帰らなきゃいけなかった。
少しでも早く帰ろうと急ぎ足で歩いていた時、突然知らない男の人に名前を呼ばれた。
背筋に戦慄が走り、全身が震え上がった。
極度の緊張で足がすくんで動けなかった。
その時は何もされず、男の人は何処かへ立ち去っていったので事なきを得たが、それでも私は心に大きなトラウマを負うことになった。
もう限界だった。
だから──
「お兄ちゃんのせいで何もかも全部めちゃくちゃだよ! お兄ちゃんなんて、お兄ちゃんなんて大嫌い大嫌い大っ嫌い!! お兄ちゃんの顔なんて二度と見たくない!!」
気付いたときには遅かった。
「そ、そんなつもりじゃ……」
やめた、そんな顔しないで。
自分の事で精一杯だった。
誰かのせいにしたかった。
それで、心にもない言葉でお兄ちゃんを傷付けた。
悲痛そうに顔を曇らせ、お兄ちゃんは背を向けてリビングを去る。
待って、行かないで!
手を伸ばすが、それを自制する自分がいた。
そんな自分が嫌で嫌で仕方なかった。
※
ちゃんと謝ろう。
きっと、お兄ちゃんならおでこを軽く小突いて、そうやって許してくれるはず。
いつだってそうだった。
そうすれば元通り。仲直りとはいかずとも、今はそれでいい。
それから、これからの事を一緒に考えよう。
大丈夫。きっと、きっとうまくいく。
そう自分に言い聞かせ、私はドアへ手をかけた。
だけど。
「──俺はいない方がいいんだ」
ふと、耳にした寂しげに震える声に、ノックする手がピタリと止まる。
お兄ちゃん…………?
その言葉を前に、私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
──ほんとうは分かってた。お兄ちゃんの方が辛いんだって。
自分の心の弱さが、お兄ちゃんを更に追い詰めた。
お兄ちゃんに謝ろうとしたのだって、自分が罪悪感から解放されて楽になりたかったから。
お兄ちゃんを傷付けて置きながら、結局は自分の事しか考えていなかった。
そんな自分が憎くて許せない。
──最低だ、私って。
※ 和也side
失望の目が、憎悪に満ちた声が消えてくれない。
町の喧騒は良い。少しでも嫌な記憶を遮ってくれる気がするから。
気付けば自然と、楽な方へ進んでいた。
雨の中、傘を差さずに打たれている俺を通行人が不思議そうに見る。
もうあの楽しかった頃には戻れない。
何度この悪夢が覚める事を願ったか。
──死ねばこの苦しみから解放されるだろうか。
周りに見放され、頼れる存在はいない。誰も助けてなんてくれない。
大切な家族も、居心地のいい友人も、好きだった人すらも全て失った。
このまま生きたところで暗い未来しか見えない。
もう自分自信も信じられない。本当は俺が覚えていないだけで、白井さんを襲ったんじゃないかって。
俺がいると周りに迷惑がかかるのだってそうだ。
自分が消えれば、それで終わるのなら。
歩道橋の柵へ上がると、すぐ下はたくさんの車が行き交っているのが見える。
もう、苦しまなくていい。
一歩踏み出せば、それで終わりだ。
………………。
一歩、たった一歩のはずだ。なのに、簡単な事なのに身体が震えて動かない。
死ぬのは怖い。当たり前だ。
だけど、それ以上に俺を許そうとしない声が目が、逃がそうとしてくれない。
それらの念が躊躇する背中を押し、俺は覚悟を決めた──
「ダメ!!」
飛び降りようと踏み出した俺を、誰かが腰に纏わり付くと共に後ろへ引き込んだ。
「お願いだから、死なないで!」
そう叫び、俺を抱き締めて離さないのは幼馴染みの美純だった。
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