第2話 どこにいる
先週抜き打ちで行った小テストの採点をしながら、スティック状の自称完全栄養食を口に運ぼうとした時、一人の女子生徒が職員室に慌てた様子で飛び込んできた。
「み、みみ、みっちー先生っ!!!!」
女子生徒の大きな声に、何人かの教師が昼飯を吹き出した。
隣の席に座る
「その呼び方やめろって言ってんだろ!
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないんですって!!」
俺はそんな可愛い感じのあだ名からは程遠い、口髭を生やしたどちらかというとむさい側の人間だ。
さっき吹き出した先生たち、ちゃんと把握してますからね。何か仕返しをするなんて度胸もないけど、今度覚えといてくださいよ。なんて心の中で愚痴る。
ただ、こうやって他の教師に笑われることにも慣れたものである。
今年の子たちはどうも距離が近い気がする。
改めてある程度の距離感を保つよう指導せねば·····なんて考えながら、手招きをして呼び寄せた。
「え、えっと·····猿川くんと、隣のクラスの犬飼くんが·····その·····!」
「犬飼くんですか?」
むせたことによる咳を落ち着かせた卯月先生が、自分のクラスの犬飼の名前が出てきたことでこちらへ顔を向け、会話に混ざってきた。
報告に来てくれた女子生徒は、
人前で話すと極度に緊張してしまい、今も視線があっちこっちに泳ぎまくり、手を身体の前でギュッと握り、背も丸めてぷるぷると震えてしまっている。
だから普段は、委員長である
「まぁまず座れ。そう、そしてゆっくり息吸って·····はい。ゆっくり吐いて·····どうだ、少しは落ち着いたか?」
「は、はい·····ありがとうございます·····」
俺は席から立ち上がって、代わりに離巣を席へと座らせて呼吸を整えてやると、離巣は申し訳なさそうにしながらも、こちらに目を向けて、口を開いてはまた閉じてを繰り返していた。
俺はしゃがんで離巣と同じ目線の高さに合わせた。
卯月先生もキャスター付きの椅子を転がして離巣の隣へ来て、離巣の背中をさすってくれている。
「大丈夫だ。ゆっくりで良いから話してくれ。お前がわざわざ来てくれたんだ。想像したくはないが、あの名巻でも手に負えない何か·····とんでもないことが起きたんだな?」
「は、はい!そうなんです!!」
う~ん、元気な返事。
良い事だけど、あまり素直に喜ぶことが出来ない。
「それで、何が起きたんだ?」
「その、二人が女の子になっちゃいました!!」
静まり返る職員室。
うん····················うん?
女の子になったって、これは俺が試されてるのだろうか。
良かった。俺だけじゃなく、卯月先生も頭の上にハテナマークを浮かべたような顔をして、首を傾げている。
猿川と犬飼なぁ。
あの二人はいつも喧嘩しているようで、していないというか。
あれだ。激しめにじゃれ合っているとでも言えばいいのだろうか。
まぁ大抵は猿川の方からちょっかいをかけ始め、犬飼がそれを上手くいなしていくというのがいつもの光景だ。
ただ、おれは猿川という名を聞くと、今でも反射的に身構えてしまうのだが·····それは置いておいて。
いつもいつもちょっかいをかけてくる猿川に、ついに犬飼の堪忍袋の緒が切れて、殴り合いの喧嘩を始めてしまったという方がまだ納得出来てしまう。
改めて·····離巣は今、なんて言った?
「えっと、女の子ってのは·····あれか、その·····女装して騒ぎを起こしてるとか、そういうことか?」
「い、いえ!違います!文字通り女の子になっちゃってるんです!」
もう頭を抱えたくなった。
おれと卯月先生が離巣の言っていることが理解出来ず、互いに顔を見合せて苦笑いを浮かべていると、離巣の表情が途端に暗くなっていき、今にも消えそうな声で「本当なのに·····」と言うものだから、おれと卯月先生は慌てて彼女をなだめ、とりあえず一緒に教室へ向かうことにした。
実際の現場を見れば嫌でも分かるだろ。
⟡.· ⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ⟡.·
おれの受け持ちは一年三組。卯月先生は隣の四組の担任だ。
その一学年の教室が並ぶ廊下へ出てすぐに、俺は溜め息が出そうになった。
というのも、まだ一組の教室の前だってのに、「「馬鹿じゃねぇの!?!?」」と綺麗にハモった二人の女子の声が廊下に響き渡り、三組の教室前には大勢の人だかりができているのが目に入ったからだ。
もうこの時点で、離巣が言ってることって本当だったんだなって。
もし仮に本当に二人の身体が女性化してるとして、その後どうするんだ。
そもそもその変化は永続的なものなのか、時間が経てば元に戻るものなのか、それとも治療が必要なものなのか分からない。
えっと、まずは学年長とそれから教頭にも報告して·····それから校長にも言わなきゃないよな。
そんで次は二人のご両親に·····ってか、そもそもどうしてそんなことになったのか、原因究明を··········まずは病院連れてかなきゃな。
はぁ~··········吐きそう。
んなマンガのような出来事が起きるなんて有り得ないと思いたいけど、「猿川」という名前を聞くと、そう簡単に否定出来ないんだよなぁ。
俺のクラスの猿川夏海の兄、空吾もこの高校の出身だったのだが、奴は全教師が毎日神経をすり減らしながら過ごさなければいけない程の要注意人物だったのだ。
おれが名前を聞くだけで身構えてしまうきっかけを作った人物でもある。
しかも当時はその空吾に加えて、
そんな一年間があったのだ。
おれが印象に残ってるのは、教頭ロン毛事件かな。
教頭がカツラであることは気づいたとしても絶対に触れてはならないという教師たちの中での暗黙の了解がある。
なんて噂話を信じた空吾が、教頭が他の教師と真面目な話をしている時にこっそり近づき、背後からそのカツラを奪い取って、それだけじゃ飽き足らず、そこから現れたスキンヘッドに何か粉末状のものをまぶして逃走したのだ。
教頭は向かってくる光を全反射しながら鬼の形相で空吾を追いかけるも、なかなか空吾に追いつくことが出来ない。
ついに教頭の怒りがピークに達して、茹でダコのように頭頂部まで真っ赤になったその瞬間。
教頭の頭からブワッと艶のある黒髪が生え、どんどん伸びていったのだ。それも徐々にではなく、一気に腰あたりまで。
たまたま廊下に出ていた俺は、目の前でその驚異的な毛髪の成長を見せつけられることになった。
新卒ピチピチで、まだ今のようなポーカーフェイスを身につけていなかった俺は思わず吹き出してしまったのだ。
空吾は「大成功だ!よっしゃあ!!」と大喜び。
空吾を捕らえることは困難と判断した教頭は、その状況を見て笑ってしまった俺の方へ、急に標的を変更し、俺は盛大なとばっちりを受けた。
他にも浄木が校庭を森に変えてしまったり、地戒が学校の畑の作物を全部食べてしまったりとか··········もう例を挙げたらキリがない。
いずれにせよ、空吾は訳の分からない変な薬を作るのに夢中で、それをひたすら学校で試していた。学校はあいつにとって大きな実験場だったのだ。
結局アイツは卒業後に海外へ渡り、稀代のマッドサイエンティストとして名を馳せることになる。
うちの学校にとってはあまりにも不名誉すぎるけど。
話は逸れたけど、今回の出来事も夏海が空吾の研究で生み出された試作品なのか、失敗作なのか、それを勝手に持ち出したことによって起きてしまったのではないだろうか。
まぁ、まだ現場を見てないから決めつけるには早いんだけど··········。
教室前に集まっている野次馬たちをかき分けるようにして教室の中へ入ると、一緒にいた離巣がバルコニー側の席を指差した。
「先生、ほら!あそこです!!」
どうするんだ、卯月先生の口があんぐりと開いたまま塞がらなくなっちまったぞ。
「··········今日って、めっちゃ天気良かったんだな。綺麗な青空だ」
「みっちー先生!?卯月先生も、現実逃避しようとしないで、もう一回ちゃんと見てください!!」
おれと卯月先生の肩を揺らすと、もう一度離巣が指を差した。
嫌でも聞こえてくる彼·····いや、彼女たちの声。
「お前どうするんだよこれ!!」
「どうするったって、どうにもなんねぇだろ!!」
「もう~!!もっかい空吾さんに·····あっ、ちょ、ちょっと待って·····痛たたたた!!なんかまた少しずつ胸ふくらんできてるって!!怖いわ!これ止めてくれよ!!」
「止めるったってどうすりゃいいんだよ!!」
「おれだって分かんな·····やめろ!手ぇワキワキしながら近づけてくんな変態!!」
「理不尽!!!!」
黒髪にインナーカラーで赤色が入っているショートヘアの女子と、淡い水色のウルフヘアの女子が取っ組み合いをしながら言い争っていた。
「空吾さんに·····」って言ってるから、あの水色の髪の方が犬飼で、ショートヘアの方が猿川だな。
自身の身体に起きた変化に戸惑い、若干パニックを起こしているのか、教師である俺たちがすぐ近くまで来ていることにも気がついていないみたいだ。
うん。やっぱり病院かな。
あんまり女子の、それも生徒の身体をジロジロと見てしまうのは憚られるが、身長も低くなり、制服がほとんど着崩れてしまうくらい身体が変わるってよっぽどだろ。
他に見た目に現れていない変化が起きていないかどうか、害のある成分が体内に残っていないかとか、ちゃんと診てもらった方が良いに決まってる。
「卯月先生、おれはこいつらを保健の
「えっ、あっ·····はい。分かり·····ました」
まだ呆然としているようだけど大丈夫だろうか。
まぁ卯月先生だって新人という訳じゃない。もう六年目だ。大変だろうけど、ここは頼らせてもらいますよ。
「ほら、お前らもう喧嘩やめろ。今から病院行くぞ。また戻ってくるから、授業の道具とかは置いたままでいい。貴重品だけ持ってこい」
「あ、みっちー!!あの~·····病院はちょっとなぁ··········」
「なに渋ってんだよ、行くべきだろ!よろしくお願いします、
ぶかぶかになった制服を鬱陶しそうに動かしながら、丁寧にお辞儀をする犬飼に対して、猿川は目を逸らして、どうも病院に向かうことだけは避けようとしているみたいだった。
「空吾の薬か?」
「うぇっ!?みっちーなんで知っ·····あっ」
猿川はビクッと身体を大きく跳ねさせて、すぐにまた目を逸らした。
イタズラ好きだけど、他人のことは思いやれる奴だ。きっと兄の薬のせいだとバレたら、兄に追求の目が向いてしまうと考えてるんだろう。
にしてもあまりにも分かりやすすぎる反応だったな。
「はぁ·····安心しろ。アイツの薬で起きたハプニングはこれが初めてじゃない」
「やっぱり··········」
犬飼も空吾のことを知っているのか、じとりとした目を猿川に向けている。
「これまでに何度もやらかしてるからな、アイツは。その度に世話になってる医者が居るんだ。そこへ連れていくから、笑い飛ばしながらもちゃんと診てくれるはずだ。お前の兄貴がどうこうされるなんてこともない。そもそもアイツを捕まえることなんて無理だろ」
「·····先生たちでも無理なんだ」
犬飼はもうドン引きしたような目で猿川の方へ目を向け、猿川は首が折れてしまいそうなほど全力で犬飼から顔を背けている。
「それなら·····まぁ·····」
そんなこんなで、兄に迷惑をかける心配が無くなったと思ったのか、やっと猿川の表情が柔らかくなり、素直に従ってくれた。
⟡.· ⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ⟡.·
二人を無事に病院へ送り届け、
二人の診察には女性である宇吹先生に付き添って貰うことにして、おれは一度外へ出て猿川と犬飼のご両親へ事情を説明することにした。
「··········出ないな」
緊急連絡先として登録されている携帯電話の番号にかけても、自宅の固定電話の方にかけても繋がらなかった。
仕方がなく職場の方にもかけてみたものの、頑なに「席を外している」と言われるばかりだった。
示し合わせたかのように、二つの家族と同時に連絡を取る事が出来なくなるなんて、少しだけ薄気味悪く感じてしまう。
そうなるともう後は二人の診察が終わるのを待つばかりだ。
「この後にもう一度連絡をして、それでも連絡が取れなかった場合には·····」
猿川には安心しろと言ってしまったものの、最悪の場合は警察にも相談しなければならないだろうな。
ブー··········ブー···············。
そう考えながら、玄関のドアをくぐった時、鞄の中でバイブ音が響いていることに気がついた。
折り返しの連絡が来たのかと慌ててまた外へ出て、鞄の中へ手を突っ込んだ。
ただ、その振動の発生源は仕事用のスマホからじゃなかった。
背中を冷や汗が垂れていくのがハッキリと分かった。
未だに振動を続けるそれを握り、鞄からゆっくりと取り出した。
出てきたのはスライド式の初期のスマホ。
画面をタッチして操作することも出来るが、スライドさせてキーボードを打って操作することも出来る物だ。
元の持ち主は後者のやり方で操作していることが多かった。
電源がすっかり切れてしまって、ただの御守りと化していてたはずのそれが、確かに振動を起こしているのだ。
俺は少しだけ期待してしまった。
また話せるんじゃないかって。
ある日突然教師を辞め、消息を絶ってしまったおれの先輩。
ベテランの先生たちから一目置かれ、生徒たちからも信頼されていた、若手の教師たちの憧れの存在だった。
何故か俺のことをよく可愛がってくれて、残業の時は一緒に残って、仕事を手伝ってくれたり、そうやって遅くまで仕事をした時には、その時間でも開いている安くて美味い店を教えてくれたりした。
そんな先輩が、何も言わずに突然消えてしまったことを受け入れられず、空っぽになったロッカーに唯一残されていたそれを、他の誰かに見つかってしまう前にと、俺は勝手に持ち出してしまった。
先輩の行方について、何か手がかりが残っているんじゃないかと思って充電してみたものの、一向に電源は回復せず、バッテリーを交換してみても反応を見せなかった。
だから、おれはそれを形見として、先輩がいつもついてくれていると御守り代わりにして持ち歩いていた。
それがどうして突然、今になって動き出したのか。
ディスプレイに目を向けてみると、「非通知」と表示されていた。
普段ならば絶対に出ることは無いけれど、直感的に今起きている珍事件と何か関係があるんじゃないかと思って、おれはそのスマホをスライドさせ、通話ボタンを押した。
“ふふ、やっぱり。君が拾ってくれていると信じていたよ”
少年のようでもあり、やや低音気味な女性の声のようにも聞こえる独特なその声色に、涙が出そうだった。
間違いない。
「
声の主は間違いなく、数年前に失踪した俺の先輩教師であり、空吾たちの担任でもあった
“覚えてくれていて嬉しいよ。ただ、先輩はやめようね。君は·····見ないうちにそんな髭まで生やして·····なんだかいかつくなったねぇ”
「え··········」
そう言って笑う声に、俺の心臓は拍動を早めた。
慌てて辺りを見回すも、辺り一面には水田が広がっているだけで、人影は一人も見えない。
“あはは!そんなに目を見開いて··········当たっていたかい?君は今、僕がどこからか君の様子を覗き見ているんじゃないかと慌ててその辺に目を凝らしているところかな”
自分の反応や行動まで言い当てられてしまったら、そう疑ってしまうのも仕方がないだろう。
ただ、この人は昔からそうやって人をからかう癖があった。
空吾たちが二年次に上がるタイミングで彼らの担任になった先輩は、彼らのイタズラや破天荒な絡みをのらりくらりと躱し、逆に彼らをイタズラに嵌めたことで彼らの興味を引き、彼らの関心が全て先輩に向けられたことで、彼らが卒業するまでの二年間、他の教師も生徒たちも平穏な学校生活を送ることが出来たのである。
「今どこに居るんですか。何してるんです?それにどうして今になってこの電話に·····というか、電源はどうやって――――」
“ストップ、ストップ!そんなに一度に聞かれたら困るよ”
「あっ、すみま―――」
“とか言ってみたりして。どう?当たってた?”
「なっ·····はぁ·····?」
“そろそろ明かさないとね。実はこれ、録音なんだよ。だから君がどんな反応をしているのか、今は想像しながら話しているんだ。でも、大体当たっていただろう?”
最初は受け答えの間が絶妙だったこともあって、すっかり電話の向こうの人物と会話をしていると錯覚させられていたのか。
次第に俺の言葉に被せるように話してくる先輩に、違和感を覚えた。
彼は相手の話は最後までしっかり聞いたうえで返事をする人だった。
けれど、その違和感に気がついた時にはもう遅かった。
“今、君の身に面白い変化が起きていることだろう。けれど、その変化はまだ序の口さこれからもっもっと面白い変化が起きる”
「なんだって?」
“僕は彼女たちの身体を元に戻す方法を知っているよ。僕を探し出したければ、君の生徒たちに聞いてみるといいよ。きっと進化を遂げた彼女たちが、僕に繋がる道を示してくれることだろう”
どうして先輩が猿川たちの身体が変化したことを知っているんだろうか。
聞いた時には呆れてしまったが、あれは空吾の薬によるもので、猿川が犬飼にイタズラを仕掛けるために空吾にびっくりさせるアイテムが欲しいと依頼したことで手に入れた薬だと言っていた。
いや、裏で空吾と三蔵先輩が協力関係にある可能性だって考えられるのか。
とりあえずそこはまた後で考えることにしよう。
今はこの電話の相手について考えなくては。
「それで、今この音声を流しているお前は誰なんだ」
“―――――うふふっ。誰だろうね♪それも含めて探してごらんよ、みっちー!”
楽しそうに笑うまだ幼さが残る女の子の声。
それに加えて、俺のことを「みっちー」というあだ名で呼ぶ人物となると、対象はかなり絞られてくる。
信じたくは無いが、おれのクラスに先輩と繋がっている人物がいる。
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