陽光
中浦
陽光
ゴールデンウィーク明け。少し浮ついた空気の漂う教室に、午後3時40分のチャイムが響く。
担任の村井先生が気の抜けた号令で終礼を終えると、教科書をしまう音や机を下げる音、そして、今週の掃除区域への文句で、教室はにわかに騒がしくなった。
僕も教科書を鞄にしまい、机を下げる。黒板の横に貼られた当番表では、僕の班の掃除区域は道場前の渡り廊下になっていた。
掃除を終わらせたら、そのまま部活を始められる。鞄も一緒に持って行ってしまおう。
そう考えていると、教室の隅から部長の名前が聞こえてきた。女子生徒達が、おしゃべりに花を咲かせている。
「ねぇ、加藤先輩って好きな人いるのかな?」
「いなさそー。あ、でも、付き合ってる人はいるかも!」
きゃあっという黄色い声があがる。
好きな人と、付き合ってる人は違うのか?
加藤先輩は剣道部の部長で3年生。カッコよくてスポーツができる、女子に人気の先輩だ
「聞いてみたいよね、好きな人いるんですかー?って」
「どうする?『お前だよ』なんて返されちゃったら!」
また、きゃあっと叫ぶ。
よくも喉が枯れないものだ。
様子を見ていると、話していた女子生徒の1人が僕を振り向いた。
「そういや、山内って剣道部だったよね」
「ああ、そうだけど……」
「え!?じゃあ聞いてきてよ。先輩の好きな人!ね?」
「いや……」
どんなに優しい先輩だって、稽古中に後輩から「好きな人いるんですかー?」なんて聞かれて、笑顔で答えてくれる人がいるわけがない。
それなのに彼女達は、またきゃあきゃあと話し始めた。まるで「明日には加藤先輩の好きな人がわかる」とでもいうように。
僕は一言も、聞いてくるなんて言ってない。
誰にも聞こえないように小さく溜息を吐きつつ、机の脇のフックから鞄を持ち上げて教室を出た。
道場に着くと、加藤先輩はもう袴姿に着替えて、1人で素振りを始めていた。
日向と日陰とをすり足で移動するたび、先輩の髪は赤く透けたり、黒に戻ったりしている。
「お願いします!」
腹を意識しながら挨拶し、頭を下げる。
まだ喉が開いていないから、あまり大きな声は出ない。頭を下げたまま、視線だけで前を見ると、先輩が素振りを止め、つま先を僕の方に向けるのが見えた。
「やあ、山内。お疲れ。掃除当番かい?」
「はい。他の先輩方も、掃除ですか?」
「いや、あいつらはサボりだな。まったく、受験だからって……。引退する日くらい顔出せってんだ」
加藤先輩は苦々しい表情で言う。顔をしかめていてもカッコいい先輩を見て、僕は教室での女子生徒達の会話を思い出した。
「……先輩、あの、好きな人いるんですか?」
「なんだ山内、いきなり」
先輩の眉間の皺が更に深くなるのを見て、後悔した。やっぱり聞くんじゃなかった。
「実は、クラスの女子に頼まれて……」
「断れよそんくらい」
「できたら聞いてないです」
「そうかよ。うーん、『好きな人』なぁ……」
先輩は少し迷ったように視線を泳がせる。
渋々でも、答えてくれるようだ。
口を真一文字に引き結び、僕は先輩の黒目の縁をなぞるように見つめた。お前だよ、と言ってもらえるのを、ほんの少しだけ期待して。
コチリ、と時計の長針が動いた時、先輩の表情が和らぐ。
「いるよ」
ため息をつきながら、先輩はそう言った。
「告白、しないんですか?」
「しないよ。彼氏いるし、そいつ」
「えっ」
「ほら、あそこ。一緒に帰ってる」
先輩が指差した先には、沙織ちゃんがいる。
「先輩、妹さんじゃなくて、好きな人を聞いたんですけど……」
僕がそう言うと、先輩は一瞬だけ困った顔をした後、冗談で吐いた嘘がバレた時のように笑った。
「そうだな。ちゃんと答えないとお前がクラスメイトのお嬢さん方に怒られちまう」
おどける先輩の視線が僕の肩口をかすめて、ほんのわずかに揺れる。
「……いないよ」
やっぱり。
こわばっていた頬の筋肉から力が抜ける。
「そうだ、お前はいい人いないのか?」
今度は先輩が僕の瞳孔を覗き込んでいた。
「……僕の好きな人は、加藤先輩です」
そう言うだけで、口の中が乾いてしまう。
ちゃんと、聞こえただろうか。
日差しに照らされた先輩の目元が、桜色に染まって見えた。
陽光 中浦 @Misuzu_Kyusuke
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