第3話


「酔ってるから」

「はっ?」

「酔ってるから気づいただけっす」


 女性は相変わらず俺と視線を合わせようとしない。酔っているから気づいた、というのも中々いい加減な発言だと思ったが、細かいことは気にしない。酔っているんだから。

 車内にいる乗客の視線が集まっていることが分かる。俺の右半身と彼女の左半身はこれまでで一番注目を集めているだろう。それよりも、立ち尽くしている俺と座り込んでいる女性。これではまるで俺が責め立てているような構図ではないか。


「まあ、もう大丈夫ですから」


 変な誤解をされるのは嫌だったから、その女性に手を差し伸べる。さっきまで缶チューハイを持っていた左手は少しべたついている。知らないうちにこぼれていたらしい。それに気づいてしまったから、咄嗟に右手に差し替えた。

 彼女は何も言わない。相変わらずうつむいたままで、その長い髪も相まってホラー映画のメイン級の存在感すら感じてしまう。


「――」

「えっ?」


 ホームにアナウンスが鳴り響く。ソレと同時に、女性の震えた声が聞こえた気がした。だから聞き返すと、彼女は分かりやすく肩を震わせた。


「どうして邪魔したのっ!!」


 アナウンスをかき消すぐらいの音量。思わず俺も肩を震わせた。こんな小さくて細い体なのに、どこからそんな声を出しているのか不思議ですらあった。

 俺は人助けをしたと思った。ホームドアをよじ登って、線路に飛び込もうとしている人の命を救ったと。だけど、返ってきたのはとてもそうとは思えないリアクションだった。その剣幕に圧倒されて、俺の喉はキュッと閉まってしまう。


「私は、私はっ! やっと……やっと……覚悟を決めたのに!」


 覚悟。それはおそらく、死ぬことに対してだろう。

 今まで生きてきた中で、こういう場面に遭遇したことは一度もない。だから何と声を掛けるのが正解なのか分からない。本当なら、彼女の言う通りに邪魔しないのが一番良かったのかもしれない。

 でもそんな考えは、顔を上げた女性を見て一瞬で消え去った。


「バチクソ美人じゃねえか!」

「はあっ……?」


 絶対にこういう場面で言うべきセリフではなかった。だがそれを制御するはずの理性はこの一連の出来事のせいでアルコールに飲まれている。

 だが俺の発言は。その女性は疲れた表情をしているとは言え、整った顔立ちは男を引き寄せるに違いない。せっかく美人に生まれたのだから、もっと人生を謳歌した方が良いに決まっている。それをこの人は分かっていない。


「死ぬのもったいないですって! あなたみたいな美人ならこの先絶対良い事ありますよ」


 何の確証もない。名前も知らない初対面の人に向かって、俺は何を言っているのだろうか。


「……あなたに何が分かるんですか。無責任」


 無責任、か。確かにその通りだな。この人が何を考えて死ぬという決断に至ったかも知らないし。頑張っている人に『頑張れ』と言うことが良くないみたいに、俺みたいな第三者がどうこう言うのは色々とマズイだろう。

 それでも、今の俺は平気だった。冷静になりかけた理性は完全に酒に飲まれてしまって、聖夏の件もあってあふれ出る言葉を制御出来なくなっていた。


「あーっもう! あなたは何も分かってない!」

「は、はぁ?」

「俺は今日、プロポーズしようと思った彼女にフラれた!」


 駅のホームで何を叫んでいるのか。愛を叫ぶには狭苦しいし、愚痴を叫ぶには広すぎる。周りの視線が突き刺さるが、どうでも良かった。


「海外で仕事をしたいんだとさ。2年間付き合ったのに、そんなこと知らなかったよ」

「何の話を……」

「俺はぁ! 彼女がそんなことを考えているとも知らず、一人で結婚のことを考えてただけなんだよ」


 次第に声が震えてきたのが分かった。瞳が濡れて、やがて情けなく頬に流れていく。感情の滝は勢いを増すばかりで、表情がみっともなくなっていくのを受け入れるしかなかった。


「何にも知らなかったなぁ……! 全然向き合えてなかったんだよなぁ……」


 春日俊太かすがしゅんた、30歳。駅のホームでぐしゃぐしゃになりながら見ず知らずの女性に後悔の念をぶつける。今日で彼女だけではなく恥じらいまで全て捨ててしまったが、それでも良い。もうどうにでもなれ。

 そんな感情をぶつけられた女性は、さっきまでの剣幕はすっかり陰を潜めて、ただ俺のことをじっと見つめていた。


「だから生きろ。こんな俺でも、こんなになりながら生きてるんだから」


 目をこすりながらそう言うと、彼女の表情が先ほどよりもハッキリと視界に入った。懐疑的な目をしていた。


「だからって言われても……ホント意味分からないし……」

「細かいことは良いから! な! どうしても辛かったらさ、俺の胸に飛び込めば良いし!」


 その瞬間、彼女がどんな顔をしたのかは知らない。だって、アナウンスとともにホームドアが閉まる音に気を取られてしまったから。


「あっ!! ちょ、終電が!」


 一度閉まったソレは、容赦なく俺の侵入を防ぐ。彼女のようによじ登ったところで、電車のドアはとっくに閉まっていた。願いもむなしく、人々の疲労感を乗せた電車が門前仲町を出発。つまりこの瞬間、俺は終電を逃したことになる。

 肩を落としながら周りを見渡すと、俺たちの周りには誰も居ない。正確には、少し離れた場所で様子をうかがっている人ばかりだった。腫れ物には触れない考えですか。そうですかそうですか。

 女性は相変わらず地面に座ったまま。いい加減立ち上がった方が良いと思うが、ふと一つの結論に気づく。

 俺が終電を逃したということは、この女性もそういうことだ。どこに住んでいるのかも知らないが、東西線にいるということは沿線は俺と同じだろうか。


「終電なくなりましたね」

「別に私には……もう……」


 今日で死のうとしていた人間にとって、今この瞬間というのは望まない明日を控えているということだ。覚悟を決めたと言うだけに、きっと相当考えて、どうしようもなくなったから、命を捨てる決断に至ったに違いない。

 そう考えると彼女の言う通り、俺の行為はただの無責任でしかなかった。女性の都合を考えず、謎の責任感で現実世界に引き戻してしまった。


「……これで帰ってください」


 俺は中腰になって彼女に向き合う。すっかり俯いてしまった女性は、俺が1万円札を差し出していることに驚いていた。


「な、なに?」

「今日も生きてくれたお礼っす。これで美味しいものでも食べてください。あとタクシー代に使って」


 命を金で解決するのはどうかと思ったが、別に俺は解決を望んでいるわけではない。今日の出来事に対するお詫びである。それと、彼女が生きてくれたことは素直に嬉しかった。


「舐めないで。こんなので私は――」

「良いから良いから。ね? その金、元カノに使うはずの金だったから気にしないで。むしろ受け取ってよ。早く忘れたいから」


 俺は女性の手を掴んで無理やり1万円札を握らせた。彼女の手は、驚くほど冷たくて細かった。そのまま引っ張って立ち上がらせると、すらりとしたスタイルの良さが際立った。160センチあるかないかだが、モデルのようなスタイルだな。


「なんかあったら俺のこと思い出して笑ってよ。こんなヤツでも死ぬ勇気はないし、這いつくばって生きてるって」


 プロポーズに失敗するどころか、恋人にフラれてしまう男はそういない。思い出して笑われる方がまだ救いがある。誰かのためになったと思えるから。

 この女性についても、もう会うことはないだろう。いまここでは死ななかったが、家に帰って自死を選ぶかもしれない。そうなってしまったら、それはそれで彼女の決断。俺が口出すようなことではない。

 にしても、頭がぐわんぐわん揺れる。あーマジで酔ってる。タクシーで粗相しないようにしないとマジで……。

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