第20話 苦渋の選択

 小百合は近頃変な夢を見るようになっていた。

血塗られた布を身体に巻き付けたような衣装の女性、まるで古代ギリシア神話の世界から抜け出してきたようだ。

顔はぼやけていて見えない。が、目だけがやたらに強調されていて、目が合うと逸らせなくなってしまう。

血走った殺人鬼の目。

必ず殺人鬼が訊く。「次は誰を殺るんだ?」

「人殺しなんていやよ!」小百合はかぶりを振って叫ぶと、「ふふふ、心にも無いことを言うな。お前が殺したい奴はわかってる。わたしは、お前の中に巣くってるんだからな」

「うそよ! もし、本当なら、すぐ出ていって!」

「ダメだ! お前の復讐が終わるまではな……先ず、ひとり目、殺ってくる」

いつもそう言って、すっと何処かへ飛んでいくのだが、何故か、空からの景色が小百合には見えているのだ。

そして大きな病院に近付く、たぶん<原杉総合病院>、その八階の窓を破って室内へ、驚く人物に歩みより鋲のついた鞭で打ちつける。

激しい鞭の音のするたびに悲鳴をあげて室内を逃げ惑う人物、執拗に追いかける殺人鬼。

鞭が当たるたびに鋲が服を、そして皮膚を切り裂き血が舞う。

何度も何度も、……やがて、その人物は、動かなくなる。

その死に顔は恐怖と苦痛に元の顔が想像できないくらいに歪められている。

小百合は見ていられずに、「いやーっ、止めてーっ! 小川さーん」悲鳴をあげて……

いつもそこで目が覚める。

……しばらく、天井を見詰め、「きっと、自分の思いがそんな夢を見させるんだろうな……」

目が覚めても夢を覚えてるって言うのも普段はないことなのに。

「でも、なんで小川さんの名前を叫ぶんだろ? ……そんなにかっこ良い訳でもないし、好きだというわけでもない、……」

小百合は目が冴えてしまって、仕方なくベッドから抜け出して電気をつけ、仏壇の前に座り二年前に亡くなった母親に話しかける。

「ねぇ、お母さん、私どうしちゃったのかな?」

静寂が続いた。

『小川さんを好きになったんじゃないの?』

いきなり小百合の脳裏に直接お母さんが答えてくれた気がした。

「いやいや、それは無いわ。だってなんか物足りないもん」小百合はちょっとした抵抗を試みた。

『なら、どうして色々なことで小川さんを利用してるの?』また返事が返ってきた。まるでお母さんのように‥‥‥。

「利用って、人聞きの悪い事言わないでよ。そりゃぁ……頼みやすいし、頼んだら嫌だと言わずにやってくれるからよ」

『そう、でも、あなた小川さんに頼みずらくなってきたんじゃないの?』

「え、どうして知ってる?」

『ふふっ、私はあなたのお母さんだからよ』

小百合の中に本当にお母さんがいて答えてくれてるようで嬉しいような、……可笑しい。

「ふふっ、確かに、なんか、迷惑かけてるってこともあるし、最近は怖い人たちが出てきて、危険な目に遭わせちゃってるから、悪いなと思って」

『ひと目で好きになることもあれば、いつの間にか好きになることだってあるでしょ。信頼できる人なんでしょ? それに誠実。違う?』

「まぁね。でも、私はお母さんとお父さんの<仇討ち>を考えてるから、好きになっちゃいけないでしょ?」

『そうかしら? それは疑問ね、素直になったらどう?』

「素直って、どうすれば良いの?」

『ふふっ、さぁ、それはあなたが考えることじゃないかしら?』

「そんな、冷たい……」

『……』

「ねぇ、母さん」

『……』

「ねぇってば……小川さんの言葉の端々に私に対する疑いが隠れているような気もするのよねぇ」

……

返事が無くなった。というか、何も思い浮かばなくなった。

せっかくお母さんと本当に話せた気がしてたのに「なんとか言ってよねぇ……」

『……』

「あーあ、返事なしかぁ、しゃーない、……寝るか」

小百合は電気を消しベッドの上に座り込んでぼーっとしていたが、ほどなく瞼が重くなってきて布団に潜り込んだ。

――小川さんとは距離を取るべきとは思うけど……でも、そばにいて欲しい……



 麗子が警察署の取調室という狭くて、薄暗くて、怖い感じのする密閉された空間で、一ノ瀬刑事に机を挟んであれこれ尋問されている間に、夫の手術が無事に終わったと知らせが入った。

大して気にしていなかった積りだったが、ほっとしたせいなのか目がうるうるとして視界がかすんだ。

ティッシュで拭って、「なんで涙なんか……」

 一通りの説明を終えると、刑事が退室したので麗子はぼんやり考えた。 ――牢屋にでも入れられるのかな? ……

程無く刑事が数枚の紙切れを持って戻ってきて、「じゃ、もう一度、事故当日のことを話してください」

一ノ瀬刑事が目の前に座りまた尋問を始めようとする。

「えー、さっき全部話したじゃない、なんで同じ事話さなきゃなんないの?」

麗子はすべて終わった気でいたのに、またか……と思ったし、自分の立場も忘れていた。

「原杉麗子さん、ひき逃げから相当時間も経ってるので、記憶違いだったということが無いように再度聞いてます」

一ノ瀬刑事は疑いの眼差しを向けてるような気がする。

「あら、私が嘘ついてるとでも思ってんじゃないの?」

強気で言った麗子だが、内心、菜七のことに触れないようにと必死だ。

「いえ、先程の証言を印刷してきたんです。これと再度頂く証言を照合して間違いがないか確認するという手法で、やらなければ供述として認められないんです、お気持ちはわかりますが宜しくお願いします」

一ノ瀬刑事に頭を下げられて麗子に反論する知恵が欠片ほども浮かんでこなかった。

「……わかりました。じゃ、どうぞ……」麗子は諦めて言った。

……

 およそ二時間同じことを喋らされた。

一ノ瀬刑事は時計を見て、「四時半か、うん、大体良いでしょう。では、現場へ行きます」

 パトカーの後部座席に乗せられ現場へ、車内がこんなに汗臭いとは思わず、咽る。

文句が喉まで出かかったが、ぐっと飲み込んだ。

 病院を出発地点として細い道へ入るところで「どうしてここを曲がったの?」と訊かれたが、前と同じ言葉を返すと、怪訝な顔を見せながらも先へ進んだ。

そしてパトカーを老人との衝突場所に停めて、「運転席に座って」と言われその時の状況を訊かれた。

時刻は多少違っても薄暗さは同じようだった。

 突然、あの顔が目の前に現れた。

「うわーっ」

目を覆う。

「ごめんなさい。泣いてる菜七に気を取られて……」

あの老人が目の前に現れたのかと思い、麗子は反射的に叫んでしまった。

「原杉さん、大丈夫ですか? 人形ですよ。撥ねた時の位置確認をするために用意したんです」

一ノ瀬刑事に言われ改めて目をやると、確かにビニールの人形だ。

「ところで、『泣いてる菜七に気を取られ』ってどういうことです?」刑事の厳しい目が麗子を睨んでいる。

「え、……そんなこと、言いました?」

ドギマギして頭が真っ白になってしまった。

「違いますよ。違う、絶対違う、……」取り敢えず否定した。

「何が? どう違うんですか?」

「事故に菜七は関係ありません。撥ねたのは私……」

「それは、わかっています。でも、手術で疲れ切ってた娘さんを迎えに行っただけなのに、どうして娘さんが泣いていたのかを聞いているんです」

……

 何を言ったのかわからなくなるくらい色んなことを喋った。

そのうちに「……じゃ、次行きましょう」と刑事が言ってその場が終わった。

何とか言い逃れることができたようだ。


 その後、自宅の車庫へ連れていかれ、こすった傷を確認し、署に戻ってからあの取調室でやや暫く待たされ、

「じゃ、一旦お家へ帰ってもらって、一休みしてから午後の三時ころにもう一度来てもらえますか? 修理工場の方へ行きたいので」

一ノ瀬刑事の思いも寄らぬ言葉に驚いて、「え、牢屋に入れられるんじゃないの?」

「ははは、牢屋ねぇ、いや、原杉さんは自供しているし、証拠を隠滅される懸念もない。確りしたお宅で逃げる心配もない、ということで今は拘束する必要が無いというのが警察の判断です」


 家の玄関を開けたのは朝六時を回った頃だった。

誰もいない室内は夕べのままカーテンがしっかり閉まっていて真っ暗、室内はシーンとしていて寂しい限りだ。

「あんな夫でもいれば多少は違うんだな……」

麗子はそう思いながら、カーテンを開けてワイングラスを手にした。

見るでもなくテレビをつけソファに腰を下ろし、ちょっとの間と思って目を閉じると、どっと疲れが溢れ出して意識がすーっと吸い取られてしまった。



 三次は、夫人がひき逃げを自供した日の夕刻、一ノ瀬刑事から原杉勉が麻薬密売に関わっていたことが明らかになったと聞かされた。

<K&L薬品(株)>が<原杉総合病院>から受けたとする受注書の数量と病院側に保管されていた発注書の数量が大きく異なっていて、その差分を勉が架空の会社を経由し<高井良龍商会>へ流していたのだった。

「原杉一家は全員犯罪者ってわけか、金なら持ってるはずなのになんでそんな事にまで手をだしたんだ?」

三次にはおおよその見当はついていたが、早瀬先輩との関りがあったのか知りたくて訊いた。

「お前が知っての通り、父親は高井良とべったりだろう。だが、医薬品の横流しだけじゃ年間でも数百万にもならないんだよ。それでさらに規模を拡大したいと思っていたところに息子が薬品メーカー勤務、それも親父の病院担当ときたら、願ったり叶ったりさ」と、一ノ瀬は三次の想像を裏切ることない説明をした。

「そんな事だと思ったが、何故、原杉ばかりにこだわるんだ?」

「いやいや、ほかの病院や薬局などにも粉を振りまいてるよ。札幌市内でも二桁の企業から横流しをさせてるようだ。ま、とは言っても証拠を掴んだのは原杉が初めてなんだが……」

「じゃ、そこへ強制捜査とか入るのか?」

「まだだ、<ガサ入れ>で何も出ないとえらいことになるから、ブツが持ち込まれたのを確認してからと考えてるんだ。だから息子には次の麻薬の発注が来たら、こっちに報告をした上でいつも通りにブツを高井良に流す様にと言ってある」

「そっか、その件と早瀬先輩の事件とは関係なさそうだな。……先輩と言えば、早瀬宅の周辺を鑑識に調べさせたのか?」

「ああ、ドアの周辺やメーターの裏とか、だが、何もでなかった。だが、それで諦めた訳じゃないぞ、二人の関係性はいまも捜査してる」

三次には村雨の指紋がでるという確信みたいなものがあったのでちょっとがっかりした。

「……一階にあるポストの中も調べたんだよな?」疑う訳じゃないが信じられない気持ちが言わせた言葉だった。

「いやー、そこまではわからんが、調べたと思うぞ。一応確認するが、……」

一ノ瀬の言い方で思った。 ――ん? 調べて無いな……

「そこが突破口だから漏れなくやってくれよ」三次は念を押しておく。

――あの二人が容疑者にならなければ……ほかに、だれが? ……

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