第12話 衝撃


 塚本の詐欺事件からしばらくして、小川三次がいつも通りに出勤すると白湯が手招きしている。

「どうした?」三次がカウンター越しに訊くと、「知らないの? 伊勢さんが夕べ襲われて怪我して入院してる」

上を指さして白湯が言う。

「えっ、どこで? 誰に? 重傷?」三次は、あのでかい伊勢が? 信じられない気持ちもあって質問を畳みかけた。

「<すすきの>で四、五人の男に殴る蹴るの暴行されて、通行人が警察と救急車を呼んだみたいよ。ICUにいるようだから重傷なんじゃない」

「ふーん、ありがとう。上で訊いてみるわ」

三次は、「ざまぁみろ」と思う一方で、「死なれたら先輩の調査ができなくなる」という思いも頭をかすめ、兎に角、状況を確認しようと二階のICUへ走った。

 幾つもの医療器具が伊勢の身体に取り付けられていて表情はわからない。デジタル表示されているバイタル数値を見ると正常範囲を多少逸脱しているものの命に別条は無さそうだ。

ひとまずホッとした三次は自席に戻り一ノ瀬に電話を入れた。

「お前んとこの職員が暴行を受けた件か? これから事情を訊きにそっちへ行くとこだからその時に話す」

一ノ瀬は言うだけ言ってさっさと通話を切ってしまった。


 昼過ぎになって漸く一ノ瀬刑事が来た。

応接室に呼ばれて一ノ瀬ともうひとり若い刑事と対座する。

一ノ瀬が綴りものをバサッとテーブルに置いた。

「それに事件の概要と見取り図入ってるから後で見てくれ」

一ノ瀬が言いうと若い刑事が顔をしかめ、「一ノ瀬さん良いんですか、そんな捜査資料を一般市民に……」

「ああ、こいつから院内情報を色々提供してもらってるからその見返りだ。大丈夫だ」と、一ノ瀬。

三次は伊勢に関し先日の院長室での出来事だけを追加で話した。


 一ノ瀬が帰ってから資料を見ると、こんな内容だった。

薬品メーカー主催のパーティーがホテルの大広間で行われ、そこに院長や鬼山事務長に菜七先生のほか各部長と伊勢が参加していた。

閉会後、息子の原杉勉が料亭にメーカーの上層部と病院のメンバーとの席を設けた。

そこで酔った伊勢が菜七先生に医療ミスのことをしつこく訊いていて、院長も不快な顔をしていた。

その帰り道に襲われた。目撃者によればやくざ風の四、五人の男だったとある。

暴行は警察が来る直前まで三十分ほども続いたらしい。



 小百合は、母親が死んだ日の経費伝票を倉庫から持ち出して調べていた。

確かに市内の自動車修理工場宛に支払いがあった。

 その日の帰り道、小川と一緒にその工場へ行って二年前のことを訊いたが、「そんな二年も前のことなんかわかるはずないだろう」

けんもほろろに追い返されてしまった。

「そりゃそうだよね。二年前じゃ……」と小川が言う。

「調べようないかしら? ……そうだ、事故なら新聞に出てるか、警察に記録有るんじゃない?」

小百合は真っ暗な闇に光明が射したような気がした。

「そうだな、俺、一ノ瀬に警察の記録について訊いてみる。新聞の方を頼む」


 翌日の昼休み、少し時間をもらって図書館へ行って調べると、新聞の片隅に記事が載っていた。母親の亡くなったのが夜中の二時でその二時間後の四時頃に東区でひき逃げ事件があったのだ。

夕方、休憩室で小川と待ち合わせした。

小百合はテーブルに記事を置いて、

「それが関係あるのかどうかわからないし、被害者が高齢の男性と書かれているだけで氏名はわからないの。糸が切れた感じよ……」せっかく閃いたと思ったのにと小百合はちょっとがっかりしていた。

それなのに小川が妙ににこにこしていて、ちょっとムッとする。

「それがわかったんだ。驚くなよ、被害者はなんと、さくらの祖父の愛島儀一(あいじま・ぎいち)だったんだ」小川がひき逃げ事件の捜査資料の写しを開いて、該当箇所を指し示して言った。

「えっ、……さくらのおじいちゃん……さくらは何も、いや、確か、亡くなったとは言ってたけど……」

小百合は夢中でその個所を読み、頭を金槌で殴られたようなショックを受けた。

「ねぇ、もう一度工場へ行ってみたい。当時の記録とか、……もしかして壊れた車が残ってるとか、何かあるかもしれないでしょう」

小百合は「さくらの祖父」と聞いて急に腹が立ち、がむしゃらに犯人を捕まえたくなって、その気持ちを押さえられなくなっていた。

「無理だろう。二年も前だぞ。気持はわかるけど前に冷たくされたろう」

小川が反対した。 ――今までなら、すんなり受け入れてくれたのに‥‥‥

「そんな事言ったって、放ってなんかおけるわけないでしょ!」

小百合はつい、怒鳴ってしまった。小川が驚いた顔をして小百合を見つめている。

言ってしまって収まりがつかず「良いわよ、私ひとりで調べるから」

……

気まずい雰囲気になって小百合はその場を離れた。


 それから休みの日まで小百合は小川と口をきかなかった。それまでは、なんだかんだ毎日話をしていたのに……。 

その朝、小百合はちょっと寂しい気持ちを抱えたまま工場へ行こうと玄関を出ると、目の前の石塀に小川が寄り掛かったまま尻もちをついて項垂れていた。

「小川さん、どうしたの? そんなところで」怪我とか病気とかで動けないのかと思って慌てて声を掛けた。

肩を揺すっても動かない。 ――まるで、死体のよう……

「ねぇ小川さん、ねぇ」小百合が小川の肩を力一杯揺する。それでも反応しない。

小百合が「救急車呼ばなきゃ」急いでスマホを取り出して、震える指先でキーパッドを表示させる。

突然、「あ、白湯か、ふわぁー居眠りしちゃったみたいだ。さ、行こっか」

小百合の心配をよそに小川は寝ぼけてるみたいだ。小百合の目から涙が溢れる。

「もう、冗談じゃないわよ、救急車呼ぶとこだったじゃない。もう心配させないでよ」

思わず、小川の頭をぴしゃりと叩いた。

「いて、何すんだ」

小百合は後ろを向いて涙を拭い、笑顔を作って、「こないだ、ごめん。ちょっと頭に血が上っちゃってて……」

「ふふ、まぁ、許してやるか、昼飯で……」


「お願いしますよ。二年前の修理記録あるんでしょう? 自分らで見ますから綴りものだけ在処を教えてくださいよ」小百合と小川が何回も繰り返し頼むがなかなかうんと言ってくれない。

「だめだ、だめ。忙しいんだ帰ってくれ!」社長は迷惑そうな顔をして言う。

「どうしても、調べる必要があるんです。お願いします」

小百合はそう言って地べたに座り両手をついて頭を擦り付けた。「お願いします!」

隣に小川も土下座してくれた。

……

「あーもう、しつけぇなお前ら、何だってんだ。……わかった」

根負けした修理工場の社長は一旦事務所へ戻って厚手のファイルを数冊持って来た。

「ほらよ、表紙の期間内の修理は全部書いてあるから勝手に調べな俺は知らんぞ」

社長はそう言って工場へ戻っていった。

二人は何回も礼を言って休憩室のような部屋の長テーブルを借りてファイルを開いた。

……

一時間もページを捲り続けて小百合が見つけた。

「あった、九月二十二日午前九時受付になってる。……えっと、車種は、ポルシェマカンの赤だわ」

「さすがポルシェなんて高級外車に乗ってたんだ。けど赤なんて、それ女性向きじゃないのか?」

小川に言われてはっとした。頭っから院長が事故を起こしたと思い込んでいた。

「じゃ、菜七先生が起こした?」

小百合はその場ですぐにさくらに電話して投薬ミスの後の菜七先生の行動について訊いてみた。

「菜七先生のお母さんが四時頃迎えに来て一緒に帰ったらしいわよ」と、さくらが教えてくれた。

「なんで迎えなんか、自分も車で来てたんじゃないのか?」小百合のそばで聞き耳を立て聞いていた小川が言った。

小百合は、小川に先を越して言われたのでちょっと悔しかった。

「えぇ、いつもはそうよ」小川の声が聞こえたのだろうさくらが答えた。

「だったら、何故かしら? ……もしかして運転できない程動揺してとか?」

通話を切ってから小百合はその場面を想像して言った。そして、

「ねぇ、その当時お母さんが乗ってた車調べられないかしら」

「ああ、それが一致したら、ひき逃げ犯がお母さんだったということになるな」


 小百合は病院備え付けの動産明細から、院長専用の公用車を購入したディーラー店舗を洗い出して全部の店に問合せた。

その結果、四年前にポルシェマカンの赤を販売した店があった。

「でも、所有者は院長なのよ。使用者はどうやって調べたら良いんだろう?」

「……ふーむ。ところで、修理した個所は書いてる?」

「え、左のサイドミラー交換とドア塗装って書いてあったわ」

小百合は注文書の写真を見せた。

「ドアミラー交換か……ひょっとして残って無いかな?」小川が言った。

「ドアミラーが? ……でも、二年も前よ」

「ああ、わかってるけど、何かの時のためにすぐに捨てたりはしないと思うんだよね。外車だし……」


「また来たのか」口は悪いが顔は笑っていて悪い人間には見えない修理工場の社長に話をすると、「ああ、確かにすぐには廃棄しないが、保証はできんな。それと工場内の倉庫に山積みになってるから探すったってちょっとやそっとじゃ……まぁ、来て見ろや」

ふたりが案内された倉庫には大小様々な車の部品が散乱していた。しかも、本当に山に積まれている。

「え、この山の中ですか?」身の丈ほどもある山の大きさに驚いて小百合は思わず唸った。

「ああ、勝手に気のすむまで探せ。元に戻せとは言わんけど足の踏み場は作っといてくれよ」

軍手も作業着も着てこなかった。


 一時間後、着替えて長靴と軍手姿でクズ山に手を掛けた。

山の天辺から崩しにかかる。どんどん下へ投げて行く。

小百合は見てもどこの部品なのかさっぱりわからないものばかりだ。

……

「あー、無いわねぇ」小百合は思い切り伸びをする。

土曜日のまるまる一日を潰した。

薄暗くなってきて、「小川さん、今日はここまでにしません?」

「ああ、そうだな。腹も減ったしな」

社長には明日も来ますと言って工場を後にして、服の汚れを気にしつつコンビニで弁当を買った。

「じゃ、明日、現地に九時集合ね」小百合が言って別れた。


 朝から、油まみれの部品やチューブと戦った。首に巻いたタオルも汗と油にまみれてくる。

昼食のコンビニ弁当を食べ終え、再び作業を始めた時だった、「あんたら何やってんの?」

中年の作業着姿のおじさんに声を掛けられた。

「はい、車の部品を探してます」小百合が答える。

「部品って?」

「ミラーですけど」

「ミラー? 車種とか色とかわかってるんか?」

「えぇ、ポルシェマカンの赤のです」

「はぁ、そんな高級車の部品がそんな山に有る訳ないだろう。誰がそこ探せって言ったのよ」と、おじさん。

「え、社長さんですが」小川が答えた。

「ふふふ、あのエロ親父。あんたらからかわれてんだよ。社長はへそ曲がりだから、わざと無い場所を言ったんだ。こっちきな」おじさんが何故か嬉しそうに倉庫を出て工場の裏手へ行く。

小百合と小川も続いた。

裏手にもう一棟倉庫があって鍵がかかっているようだった。

おじさんが扉を開けて手招きする。

倉庫の中には天井に届きそうなくらい背の高い棚がびっしりと並べられていて、小百合は勝手に思った。

 ――広い! バスケのコートくらいはあるわねぇ……

おじさんが歩きながら「ポルシェ、ポルシェ……」呟きながらその間を進んで行く。

「おぉ、ここだ。赤マカンのミラーはと……」

おじさんが指差しながら探してくれている。

「おじさん、すみません、お仕事中」小百合が言う。

「いや、構わん。仕事はいくらやっても無くならんから、少しくらい遅れようが良いんだ」

言いながらも手を休めない。

「ほうら、あった」

おじさんが赤のマカンの左サイドミラーを二人の方へ差し出して言う。

「え、ほんとう?」あまりに簡単に見つかって小百合は驚いた。

「あ、へこんでる。なんか血の痕かな黒くなってるところがある」三次はミラーをぐるりと確かめるように見て言った。

「おじさんありがとう。これ売ってくれませんか?」小百合が訊く。

「三万円」と、平然として即答するおじさん。

「え、そんなにすんの」小川が驚いて言った。

「悪いが、ここの倉庫にある物は全部登録されてて、修理用部品なんだよ。でなければあげても良いんだが会社のものだから、決まりなんで、一応、修理代として領収書もだすから」

「そうなんですか。わかりました」

小百合は財布の中を探る。

「小川さん、一万円持ってない?」

小川が財布を探って万札を出した。

あわせておじさんへ、「じゃこれで……」


 後刻一ノ瀬刑事に連絡を取りミラーの鑑定を頼んだ。



 数日後だった「おい、一致したぞ、あの血液は被害者のものに間違いない」

一ノ瀬から三次に連絡がきた。

「じゃ、ひき逃げはんは原杉菜七先生の母親麗子と言う事だな」三次は興奮していた。

「いや、小川、まだ誰にも言うな。使われた車がそうだとしても運転手が誰かというのとは話が違う。本人が認めなければ、……証拠が必要だ」と、一ノ瀬。

「どうやって?」

「それは警察に任せろ。良いな、くれぐれもあの彼女にも釘刺しとけよ。事前にばれたら工作されるかもしれんから、ここは慎重にやらんと逮捕できなくなる。わかるな」

「ああ、白湯にも言っとく」


「ねぇ、私の父親の電子カルテを調べてくれた?」三次が白湯にDNA鑑定結果を知らせると「わかった」と返事をした跳ね返りで訊かれた。

「いや、色々調べることあって、まだなんだ。悪い」

「ううん、小川さんが謝るようなことじゃないわよ。菜七先生の件がはっきりしたからお父さんのこともはっきりさせたいと思っただけなの」白湯のちょっとしょぼんとしたような仕草がやけに可愛くグッとくるものがあった。

「一息ついたから今日からそれに着手するよ。俺のパソコンに情報は全部入ってるし、最終のカルテのコピーも預かってるから」三次は正直なところ忘れていたのだが、……。


 人事システムを遡って院長がこの病院に着任したころに勤務していた医師や看護師を洗い出し、面談や電話でほぼ全員に当時の原杉博院長の人柄や医師としての技量などについて訊いてみた。


「いやー、驚いた」

三次は白湯に聞取りした結果報告する際、そう切り出した。

「医師の社会的な責任の重さを真摯に受け止め、外科医としての習熟を目指して患者と共に研鑽していたようだよ。ほかの医師から飲みに誘われても断ることが多く、真剣に医療に取り組んでいたと当時を知る医師や看護師は言ってる。それもほぼ全員が同じように感じていたらしい」三次は証言してくれた医師の言葉も借りて報告したが、三次自身信じられない証言だった。

「へぇ、今じゃ考えられないけどね……どこかで変わってしまったって事ね」白湯も驚いたようだ。

「そうなんだ。色々訊いてると、どうやら十五年前くらいに何かがあったらしい事まではわかったんだ」

「え、父の医療ミスと同じ頃?」

「そうなんだ。でも、変わったからミスしたのか、ミスしてから変わったのかはまだはっきりしないんだ。今、そこを中心に調べてる」

「そう、ありがとう。なんだろう?」

「ただ、ミスの前に事件とか事故とかは起きていないし、お父さんの件以降は性格まで暗くなって、酒に手を出してたという証言はあるんだよ」

「ねぇ、奥さんには訊いてみたの?」と、白湯が言った。

「え、奥さんか、……訊いてなかったな。……しかしなぁ、今、ひき逃げ事件で警察が捜査してるだろう、何か邪魔しちゃいそうじゃないか?」

三次は幾度かやり過ぎ、言い過ぎで失敗してるので少し臆病になっていることに自身気付いてはいるが、やはり不安だった。

「そうねぇ、小川さん、余計なことまで言っちゃうからねぇ……」

白湯は冷ややかな視線を三次に送ってくる。

「そんな、冷たい目で見なくたって……わかったよ、訊いてみるよ」

「あら、無理なら良いのよ。私が訊くから」

そう言う白湯の微笑みが三次をせせら笑っているようにみえて、三次は気持を奮い立たせて、「いや、俺が訊いて来るから心配すんな」と見栄を張った。


 定時に帰宅した三次は一ノ瀬に電話して今やろうとしていることを話した。

「ふーん、わかった。近いうちに奥さんに話を聞きに行く予定だからついでにその辺訊いてやるよ。その方が良いだろう」

「そっか、訊いてくれるか。ありがとう、頼むわ。どうも訊きづらくてな」

三次はほっと胸を撫で下ろし、自分はリストアップしていた退職者に電話を入れてみる。

その内の何人かが会ってくれることになった。


 その夜から十五年に死亡した白湯の父親福島栄人(ふくしま・えいと)のカルテを基にその前後の医療システムを検索して加除修正記録を抽出した。

死亡原因には<大動脈りゅう破裂>と記載されているが、当初は<大腸切除手術>とあり、因果関係は無いように見える。

 日曜日にその手術に加わっていた看護師の小森多恵子(こもり・たえこ)に会った。

手術の二年後改ざんされたカルテのコピーを白湯の自宅に持って来て「ミスだった」と謝りに来た人物だ。

今でも金をもらって口をつぐんだことを後悔していると言う。

「原杉先生は当時外科長で誠実で看護師からも患者からも信頼されている立派な医者だったのよ。それがあのミスで患者を死なせたことで相当苦しんだみたいなの。『遺族にも正直に話して謝罪する』と言ってたらしいわ」と、小森が言った。

「具体的にどんなミスだったんですか?」三次が訊く。

「確か大腸がんで切除手術をしていたのよ。私は先生に手術器具などを手渡ししていたの。そしたらいきなり開いていたお腹から血が吹き出しちゃって、『あっ、動脈を傷つけてしまった』と先生が叫んで止血を始めたんだけど、傷口が大きくて止められなかった。それに輸血の用意もしていなかったから、色々手を尽くしたけど、結局、失血死というのが本当のところだと思う」

「え、それならどうして隠ぺいすることに?」三次が思わず訊く。

「はい、博先生の父親で先代の院長が病院の名誉とか信頼とかを口実に口を閉ざすよう命じたのよ。私たちも直接言われたから間違いないわ」

「それで博先生が罪悪感に苛まれ、耐えきれず酒やギャンブルに手を出すようになったって訳か」三次は腑に落ちた。

「えぇ、だからかわいそうなのよ博先生も、ま、遺族にはこんな事言えないけどね」

その後も小森は夜の街で先生が怪しげな連中と付き合いだしたらしいなどの話もしてくれた。ただ、相手の具体的な名前などはわからないと言うので、参考程度に留めておくことにした。

「ところで、小森さんは今どんな仕事を?」

「今は、老人ホームで看護師として働いてるわ。あのことで看護師辞めて色々な仕事したけど、やっぱりこの仕事をしたくて、でも病院には務められないから……」

三次は思った。 ――この人もかわいそうに、恐らく看護師は天職なんだろうに医師のせいで辞める羽目になって……


 数日後、一ノ瀬から小森と同様の話を妻から聞いたと教えてくれた。

どうやら小森の話に嘘は無かったようだ。

「休日には親子三人で遊園地とか公園とかへ弁当を持って行ってたのに、いきなり酒とかギャンブルとかに狂い始めたと言ってるなぁ。怪しげな連中とも付き合い始めたとも言ってるけど、お前は何か掴んでないのか?」と、一ノ瀬。

「同じような話を元看護師から訊いた」

三次は小森の話を有り体に話した。

「ほう、その証拠もあるということだな」

「あるが、カルテはコピーなんだ。それでも良いのか?」

「んー、無いよりあった方が良い」

「なんだ、頼り無いな。ま、証言も紙に書いて用意しておくよ」


 三次は資料を用意して先ず白湯に会って資料を渡すと、白湯は唇を噛んで資料に見入る。

「先代が隠ぺいか……」白湯は悔しそうに呟いた。



 月曜日、小百合が出勤すると程無く総看護師長の牧石若奈が窓口に立った。

「ねぇ、ちょっと話あるらか来て」

手招きされて小百合は隣の窓口に一言断りを入れて席を立った。

「あんた、愛島さくらさんの友人だよね」と牧石が言った。

「はい、さくらがどうかしたんですか?」

「無断欠勤なの。初めてなのよこんなこと、七時には来てなくちゃいけないのに……。電話も繋がらないし、で、あんた家まで見に行ってくれない? 会計課長には話してあるから頼むわ、何か嫌な感じがするのよ」

看護師四百三十名のトップを務める牧石総看護師長がわざわざ会計係まで来て言うので小百合も気になった。

――これはただ事ではない。あの真面目なさくらが無断欠勤なんて考えられないし……

「わかりました」と返事をし、すぐに電話を入れてみる。

……しばらく呼び出すが切れた。


 病院前で客待ちをしているタクシーに飛び乗って東区のさくらの住むアパートへと急いだ。

嫌な予感が沸々と湧いてきて、「早く早く……」気持が急く。車を降りて猛ダッシュ。

部屋のインターホンを鳴らすが応答がない。……何回も繰り返したが、同じだ。

電気のメーターはゆっくり回っていて、それだけでは在室とも不在とも言い切れない。

隣の住人から訊いた大家さんの連絡先に電話を入れ事情を話す。

イラつくほど長かった十分間、大家が来て共に部屋に入る。

「さくら、さくら、いるの?」声を掛けながらドアをひとつひとつ開けて中を確認しながら奥へ進む。

リビングの奥の部屋の戸を開けて中を覗く。

ベッドが目に入った。

「さくら、寝てるの?」小百合は声をかけ近付いて、サイドテーブルの上にキャップの開いた空瓶が置いてある。

ラベルを見て、それが睡眠薬だと気付いて慌ててさくらの身体を揺する。

「さくら、起きて! さくら!」パニックになって怒鳴った。

その声で大家さんが「どうしました?」

「救急車呼んで下さい! さくらが薬を飲んだみたいで、起きないの」小百合は必死に訴える。

……

 救急隊員には<原杉総合病院>を指定せず、街中の別の総合病院へ行ってもらった。

牧石総看護師長に報告をし、佐々木信一と小川にも連絡した。

……

 入院した病院に小川と佐々木はすぐに駆け付けてきた。

「さくらは? さくらは大丈夫なのか?」佐々木は半泣き状態で叫ぶ。

「落ち着いて、あんた看護師でしょう! 命は大丈夫。でも、まだ意識は戻っていない」小百合は極力ゆっくり喋った。

「ああ、ごめん。で、どこにいる?」

小百合は二人を人工呼吸器をつけられてICUにいるさくらのところへ連れて行った。

「幸い命に別状は無いという医師の診断だけど、どうして意識が戻らないのかわからないの」

小百合は医師の話を伝えた。

「どうしてうちの病院に連れて行かなかったんだ?」佐々木が言う。

「だって、自殺よ。どういう事情か訊いてないけど、同僚とかに知られるの嫌でしょう」

小百合が言って佐々木は肯いた。

「佐々木さん何か訊いてないの?」

「いや、この週末は体調悪いって言われて会ってないから……」なんとも頼りない返事に小百合はイラっとする。

「そう。金曜日は確か夜勤だったわよね。そこで何かあったのかしら? 佐々木さん訊いてみてよ」

「わかった、電話してみる」佐々木がスマホを取り出す。

「ちょっと、ダメよ電話なんて! さくらが自殺しようとしたのよ、電話でぺらぺら喋る訳ないでしょう! もう、本当にデリカシー無いんだから!」小百合は腹が立った。

「白湯、そんなに怒るなよ、佐々木だって恋人が死ぬの生きるのでパニックになってんだからさ。ここは落ち着いて、俺は訊くなら先ず総看護師長じゃないかと思うよ。みな何かあったら報告してるんじゃないかなと思うんだ。でもさ、本人の意識が戻ったら話してくれるんじゃない? 今はじたばたしないで気が付いたときにそばにいてあげた方が良いと思うんだけどな」小川がやけに落ち着いて言った。

「ごめん、そうね、佐々木さんどう?」小百合は頭を下げて佐々木に目をやる。

「ああ、そうだな。俺もさくらのそば離れたくないし……」

「じゃ、決まり、ここで待とう。待ちながら祈ろうよ」小百合は手を合わせ早く意識が戻るように祈った。

 その後、病院から通報を受けた警察がきて「意識が戻ったら連絡をください」と言って名刺を置いて行った。


 その日の夜は小百合だけが病室に残っていた。

「小百合」小さな声で自分を呼ぶ声が聞こえた。

いつのまにか居眠りをしていたようで、顔を上げるとさくらと目が合った。

「さくら、気が付いた? 良かった」

自然と小百合のほおを涙が伝った。

「私、……どうした? ここどこ?」

「病院よ。さくら薬飲んで、……」それ以上言わなくてもさくらは気付いたようだった。

「あぁ、私、死ななかったんだ……」悲しそうな顔をして天井を見詰めるさくら。その目には涙が滲んでいる。

「……」小百合は何も言えなかった。

――きっと、さくらから話してくれる。それまで待とう……


 自殺の動機については小百合にも恋人の佐々木にも言わないままだった。

警察もなんとか聞き出そうと、女性刑事も見舞いに来て説得を試みたがダメだった。

小百合はさくらをひとりにするとまた自殺するかと思って、さくらの病室を空けることができずにいた。

「小百合、私なら大丈夫よ。もう薬なんて飲まないから」

二人だけになってさくらがぽつりと言った。

「もう少し一緒にいる。病院には休むって言ってあるから、それより、何か食べたいものない?」

お茶とコーヒーしか口にしないさくらに何か食べさせないと身体を壊すと思って言ったのだが、さくらは弱々しくかぶりを振る。

「だめよ、何か食べないと、私心配で帰れないわ」小百合はわざと言ってみた。ひとに気遣いをするさくらだから何か食べると言うかもしれないと思ったのだ。

「……ごめん、私、もう生きていたくないの……」さくらが呟いた。

「なんで? どうしたの? 先週まであんなに元気だったのに、私にも言えないの?」

小百合はとうとう口にしてしまった。

……しばらくの間、沈黙が続いた。


「……小百合、……佐々木くんには言わないでくれる?」

不意に弱々しい声でさくらが言った。普段のさくらからは考えられないような絶望的な言い方だ……きっと、なにかが……。

「うん、わかった。誰にも言わない」

小百合が言うとさくらの唇が動いた。

「……私、乱暴された」

ほとんど声は聞こえず、唇の動きで読み取った。さくらはそれだけ言って涙を零す。

「えっ、誰に?」

予想してなかった訳じゃなかったけど、まさか勤務中にという思いがあってその思いを打ち消していた。

「見回り終わった十一時過ぎに院長室に呼ばれて、そこで院長が……」

とつとつと話すさくら。

「えーっ、……」

小百合はショックで言葉が出ず、ただ、じっとさくらを見詰めていた。

「……二年前の小百合のお母さんの手術のあった日の夜。菜七先生が投薬指示を間違えて、死なせてしまって、そのカルテを改ざんしたことを誰にも話すなと迫ってきて、それで……、『お前が小川と白湯に喋ったのは知ってるんだ!』そう言って、写真撮られて、『また誰かに喋ったらこれをネットにばら撒いてやる』って……」

「そんな、ひどい! 訴えてやろう!」小百合は院長への怒りのあまり頭に血が上り爆発しそうだった。

「えぇ、そしたら鹿内先生が入ってきて、院長先生を怒って、私に『処置してあげる』と言って婦人科へ連れて行かれたの。その時、私は被害届を出すつもりだったわ。だって院長を許せないと思ったから」

「じゃ、鹿内先生が警察へ連絡してくれたの?」

「ううん、騙されたの。興奮してるからって安定剤を注射されて、眠くなって……目覚めたら『お目覚め、終わったわよ。それじゃ、後は任せて確りお金とってあげるからね』って言うので、警察は? って訊いたら、『あら何言ってんのあなたさっき五百万円で示談にして良いって言ったから、院長の体液とか全部処分しちゃったわよ』って言われたの」

「まぁ、ひどいだってさくら寝てたんでしょ。そんなこと言うはずないじゃない」

小百合はさらに胸がむかむかとしてくるのを辛うじて抑えていった。

「えぇ、私もそんな事言ってないって言ったら『知らないわよ。……あんたが訴えても私は何も証言しないからね。私だってこの病院で働く従業員なんだから』なんて言われて……」

「何で鹿内先生そんな事を言うのかしら、同じ女性なのに」

「鹿内先生は院長とグルでレイプを隠ぺいしてお金で決着させようとしたのよ。……私、もう彼に合わせる顔がない、別れるしかないの。こんな身体で生きててもしょうがないのよ……」

「そんな、さくらは何も悪くないのに、……」小百合にはその先をどう言ったら良いのかわからなかった。

「病院へはもう行けない」

「彼から何か言ってきた?」

「うん、大丈夫かって、見舞いに行くって……私、来ないでって言った。会いたくないって……」

……小百合にはかける言葉が見当たらず、握った手に力を込めた。

 会話が途切れ、手を握ったまま涙を流し続けるさくらを見詰めていた。

重苦しい時間が流れ続ける。……


「ねぇ、私もお腹空いたから一緒に何か食べよう」小百合はそう言ってさくらの手を布団の中へ入れ、病院の売店からカップみそ汁とおにぎりを買った。

 さくらの手を握って「負けちゃダメよ。悔しい、でも負けないで……食べよう」

小百合の涙を見てさくらが肯いてくれた。さくらの身体を起して座らせ、

……ふたりで無言で涙を流しながらおにぎりをかじった。

「美味しい」さくらが微笑む。

「でしょう。私が美味しそうなやつ選んできたんだもん」小百合も笑顔を作った。

……

その後は無言で食べて暖かいみそ汁を飲んだ。

「ありがとう」しばらくしてさくらがぽつりと言った。

「負けないで、私がついてる」精一杯の励ましの言葉の積りだった。

そう言いながら小百合は煮えたぎる心の奥底で決意を固めていた。――さくらの口惜しさ恨みを絶対はらしてやる……


 小百合はその日の夕方から鹿内を尾行し夜にはさくらのところへ戻るようにした。院長の犯行をどうして鹿内医師が隠ぺいしようとするのかを知りたかった。以前から「院長と鹿内はできてる」という噂も耳にしていた。

何日目かの夜、その光景を目撃することができた。

二人は一流ホテルのレストランでの食事をした。飲み物はいつものワインじゃなくてビールだ、そして院長が鹿内に封筒を手渡ししている。

――何だろう? 札束をふたつ重ねたくらいの厚みのある封筒……

鹿内はにこりとして中身を見ずにバッグに入れた。

その後は同じホテルのバーへ移動し、それから階下の部屋へと移った。

小百合はその光景も写真に収めた。

――これで両親の医療ミスの証拠とさくらを鹿内が騙した理由もわかった。あとは、……


 その夜、小百合は一旦自宅に戻り両親の仏壇の前に座って手を合わせていた。

「お母さん、お父さん、私、もう、我慢できない。良いわよね、さくらのことも含めて仇を打つわ……」

『小百合』

小百合ははっとして辺りを見回す。もちろん、一人暮らしだから誰かがいるはずもない、が自分を呼ぶ声を確かに聞いた。

『小百合、あなたは自分の幸せを考えて良いのよ。私たちはあなたが生まれてきてくれただけで十分に幸せな人生だったから、あとはあなたの花嫁衣裳を見せてちょうだい。それ以上のことは何も望まないわよ』

「お母さん、……」お母さんの暖かい優しさに包まれているような気がする。

「でも、悔しいもん……」小百合はしばらくの間、さめざめと泣いた。


 まだ、十日ほどしか経ってないのに、さくらの頬はげっそりとし一気に老けてしまった。

一日一緒にいたがそれほどの会話はしていない。

佐々木からは幾度も見舞いに来たいと連絡してくるのだが、さくらに話すとさくらは黙ってかぶりを振る。

さくらが病院食も殆ど食べないので担当の先生や看護師たちも心配して点滴をすることになった。

 夕方には小川が心配して佐々木の事や病院のことを伝えてくれている。

その事が小百合の心を落ち着かせてくれている気がした。

さらに一週間が過ぎ勤務先の病院から小百合に出勤を促す連絡が来るようになって、朝、一旦出勤することにした。

しかし、数日後、昼近くにさくらのいる病院から「今日は来ないのか」と連絡がきた。さくらの精神状態が不安定で安定剤で今は寝かせていると言われた。

定時にタクシーでさくらのいる病院へ向かう。

さくらは寝ていた。寝顔の肌は荒れて張りもすっかりなくなっていて、三十前の女性とは思えず悲しさと怒りが小百合の心に同居し、泣けた。


 さくらが目覚めたのは夜になってからだった。

「具合はどう?」小百合がさくらの顔に近付いて訊いた。

さくらはじっと小百合の目を見て涙を流した。

「大丈夫よ、私はいつもさくらの傍に居る」

さくらの手をしっかり握る。さくらが握り返してくれた。そして、また、涙を流す。

「昨日ふたりで行ってたお店でシメパフェを食べたの。相変わらず美味しかった……」

小百合は手を握ったまま、さくらと一緒に行ったカフェやレストランなどの美味しかった思い出をゆっくり話した。

さくらは嫌がらずにじっと聞いていて、時折笑顔を見せる。

小百合は元気づけようとさくらの唇に淡いピンクの口紅をつけた。さくらの好きな色だった。

手鏡で自分の顔を見て、「お婆ちゃんみたい」一言だけさくらが呟いた。

それから少しお化粧の話をしていたら、突然、さくらのお腹がグーっと鳴った。

「あ、お腹なった」小百合が笑うと、さくらが顔を赤らめ、

「ふふふ、鳴っちゃった。恥ずかしい」

「何か食べよっか」小百合が言った時、ちょうど外から石焼き芋売りの声が聞こえ、ふたりははっと顔を見合わせてにこりとした。

「行ってくる」小百合は財布を握り締めて駆けだした。

……

「美味しいね」さくらが芋を手に言った。久しぶりにベッドに起き上がったさくらを見た。

「うん、美味しい」

 それが切っ掛けで、さくらは食事をするようになった。

みるみる削げた頬がふっくらとし、肌艶も良くなってきた。

寝ているより起き上がって小百合と話す時間が長くなってゆく。

そう感じながら、「早くもとのさくらに戻って……」と祈り続けた。


 ひと月後ようやく退院できた。しかし、恋人に会いたいと言わないし、小百合も訊きはしなかった。

小百合は、しばらくの間さくらと一緒に暮らすことにしていた。

定時に出勤し、定時に帰った。昼間には必ず何回か電話を入れた。

いつの間にか日常会話は普通にできるようになったが、病院に絡む話は意識してしないようにしていた。

 ある日、仕事から帰ると、さくらが封筒を出して、「明日、これ持って行ってくれない?」

見ると<退職願い>だった。

「わかった」小百合は何も聞かずに引き受けた。

さくらがもう一通封筒を出した。

宛名に<佐々木信一>とある。

「これって、……」小百合はどう聞いていいか迷っていると「彼とはお別れする……」

「どうして?」

「……」何も言わず涙を浮かべるさくら。

「ダメよ。今は思えなくても、院長室でのことは事故だとでも思って、彼と幸せになって見返してやるのよ。院長には私が復讐してやるから、見ててよ。さくらは彼の事好きなんでしょう?」

「だから、余計一緒にいられない」俯いたまま膝の上に置いたさくらの手の甲に涙が広がって行く。

「負けないで! 戦うのよ! 辛いだろうけど、負けないで! お願い一緒に戦って! ……」

小百合はさくらを強く抱きしめて泣いた。声を出して泣きながら、同じ台詞を繰り返した。

……何度も、……何度も、……

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