第11話 堕ちて行く

「こんにちわ」会計係の窓口に満面の笑顔で現れたのは原杉勉(はらすぎ・つとむ)34歳、院長の息子だ。

月末近くの忙しくなる時期になるとこうやって仕事の邪魔をしに来るのだ。院長とは真逆で図体ばかりでかくて悪人ずらしているのが一層みなに嫌がられる要因にもなっている。

小百合もいい加減腹立たしいと感じているのだが、何を言っても構ってくれるのが嬉しいのかにこにこしながら聞流し「今夜は暇かい?」などと言ってくるので、みんなで無視することにしている。

もっとも、まったく仕事の絡みがなければ追い返すこともできるのだけれど、大手の製薬会社の社員でこの病院に医薬品を納入しているので無下にもできないのが辛いところ。

――さっさと請求書と納品書を置いて医薬品を保管庫へ運べばいいのに……。

小百合がそんな事を思っているうちに各部署宛の郵便物などを配布する時刻になり、それらを抱えてエレベーターへ向って歩いていると、「どこいくの?」

息子が台車を押しながら追いかけてきた。

――やばっ…… 小百合は、エレベーターは密室になるので通り過ぎて階段を上る。

「あ、待って」

息子が台車を一階に置いたまま階段を駆け上がってくる。

――やだー、なんでくるのよー……

二階には医師の控室がずらりと並んでいる。

「どれ、半分手伝うかい?」息子は相変わらずにたにた気持の悪い笑みを浮かべてついて来る。

「いえ、結構です。部外者に郵便物は預けられません」

冷たく言ってやった。

三階から七階まではナースセンターへ院内の通達や事務連絡も配布するので結構な量もある。

さすがに六階くらいから汗が流れ、呼吸が苦しくなってくる。

息子も汗を拭き拭き膝に手をついて呼吸を整えている。それでもついて来るから、ぞっとする。

八階の院長室に着いたときには、小百合も息も絶え絶えな感じになってしまった。

深呼吸してからノックする。

中から院長の声がして小百合がドアノブを回そうとすると、息子が先にドアを開けて「どうぞ」

――きもい……

そう心で呟きながら、「失礼します。郵便物をお持ちしました」

「お、勉も一緒か、どうだ元気でやってるのか? ……今日は薬の納品か?」

院長は、勉が大学への進学を機にアパート暮らしを始めたため、月一回の納品時に会えるのを楽しみにしていて、今も普段では見せた事の無い笑みを浮かべている。

小百合は密かに思う。 ――親ばか以外の何者でもないな…… 

「ああ、彼女が階段で来るもんで、汗でびっしょりだ」

息子はそう言いながら笑顔を小百合に向ける。

小百合は素早く一礼して部屋を出て、笑いかける膝を押さえ階段を駆け下りた。

三階まで下りたとき、下の踊り場から事務長と菜七先生の話し声が聞こえてきた。

立ち止まってエレベーターを使おうかと迷っていると、

「……医療費をもっと稼がないと経営が苦しいんだよ……お前も色々あるんだから、協力してもらわないとな……」

怪しげな言葉に心ひかれ、覗くと事務長がにやけた顔で菜七先生の肩に手を掛け、嫌がる先生の頭をなでた。

「えっ、どういう関係なの? 親子? まさか不倫関係じゃ……いや違う、菜七先生が脅されてるようにも見えるな……」小百合はちょっと驚いた。何か秘密がありそうだ。

運悪く二階の廊下の方から踊り場に近付いてくる数人の話し声が聞こえてきた。

事務長と菜七先生は気付いたのかさっと階段を下りて行った。

「あんた、余計な事を聞かない方が良いぞ」そばまで息子が下りてきていた。

脅しとも取れる言葉にドキッとし小百合は駆け下り事務室へ急いだ。

「あーきもかった」小百合が席に戻ると同時に口から本音が零れる。

それが聞こえたのか、

「ふふふ、小百合、大分好かれてるみたいね。良いわよ、院長のご子息様なんだから結婚したら将来は安泰よ」同僚がそう言って笑う。

「いやよ、あなたがお嫁に行って、のしつけて譲るから……」小百合が返すと、「じょ、冗談、あんな男なら、私は一生独身が良いわ」

「ははは、……」しばし室内に笑いが溢れ、客の怪訝な視線を浴びてみな口を閉じて俯く。

その客の向こうを怖い目をして小百合を睨んでいる息子が通り過ぎて行った。



 その日は夕方七時から医師会の予定が入っていると院長室の壁に掛けられている月間予定表に書かれていた。

小百合は着替えてから院長室の隣の部屋で院長の外出を待っていた。

予定時刻が近づいて隣室のドアが閉まる音がした。

遠ざかる足音。

 小百合はゆっくり部屋を出て辺りに人気の無いのを確認し、ドキドキしながらそっと院長室に入りキャビネットなどの施錠を確認して回った。十五年前の父のカルテ現物を探すためだった。

「あー、残念。鍵かかってるわ」

諦めて帰ろうとしたとき、急にドアが開いた。

「えっ、誰?」

ぬっと姿を現したのは伊勢だ。

「伊勢さん、どうして?」小百合が訊くと、「お前こそ、院長室で何こそこそやってんのよ?」

小百合はそれには答えず小走りにドアへ。

伊勢とドアの隙間を通り抜けようとしたとき、伊勢が腕を伸ばして行く手を遮る。そしてにやりとして「院長の秘密なら、教えてやっても良いぞ……なんか調べてんだろ?」小百合よりかなり大きな伊勢が身体をふたつに折るようにして顔を近付けてくる。

「え、何の秘密を掴んでるて言うんですか?」小百合は顔を背け一歩、二歩と後ずさりする。

「ふふふ、それを今は言えんな。もう少し親しくならんとな……」伊勢が小百合の肩に手を掛けてきた。

「止めてください」手を振り払って後ずさる。

下品な笑みを浮かべる伊勢にじりっ、じりっと部屋の隅に追詰められる。

「ふふっ、仲良くしようじゃないか……」

伊勢が両手で小百合の肩を掴もうとして手を伸ばしてきた瞬間、小百合は屈みながらその腕の下を駆け抜けドアへ走る。

「あ、こら待て!」

伊勢に肩を掴まれそうになったときドアが開いた。

「ん? 白湯何やってんだ?」

「あ、小川さん」小百合はそれだけ言うのが精一杯だった。小川の背後に隠れる。

「え? ……」

戸惑いを見せる小川に、小百合は伊勢に向かって指を差す。

「伊勢、何やってんのよ。……お前、白湯に何しようとしたんだ!」

小川が状況をわかってくれたみたいで、伊勢に向ってゆく。

「何でもない、そいつが院長が不在なのに何かやってるから問い詰めようとしてたところだ」

大きな図体の伊勢が華奢な小川の前に立つ。

小百合はどう見ても小川が伊勢に叶うはずはないと思い、「きゃーっ!」小百合は思いっきり叫んだ。

口々に、「なんだ?」、「どうした?」と言って帰り支度を済ませた職員が三人、四人と姿を見せる。

「あ、いや何でもない」伊勢はさっと管理課へ戻って行った。

小百合と小川は頭を下げる。

「痴話げんかか? いい加減にしろよな」

そんな言葉が小百合の耳に届いた。

「小川さん、ごめんなさい。でも、助かったわ、ありがとう」小百合は素直に謝った。

「お前、また探ってたのか?」

「えぇ、そしたら急に伊勢さんが入ってきて、『院長の秘密なら知ってるって』そう言って、仲良くしたら教えてやるって迫ってきて……」

「とんでもない奴だ。白湯にそんな、……お前も気を付けろよ。事前に知らせてくれたら傍にいてやるから、な。たまたま下で『お前が上に行ったわよ』って言われたからもしやと思って来てみたから良かったけど、そうでなかったら……ったく」

小百合には小柄な小川が大きく見えたし、自分の事を心配して怒る姿にその気持を強く感じた。

「うん」小百合は肯き思った。 ――やっぱり、男の人だ、頼りになるわ……



 三次のところに一ノ瀬から連絡が入ったのはその日の夜だった。

「筆跡も印影も一致しなかったぞ」一ノ瀬は、塚本が陽子さんに渡した借用書を偽物だと証明したのだ。

「そっか、ありがとう。その鑑定書みたいなやつあるのか?」

三次はホッとし、同時に刑事を友達に持って良かったとつくづく思った。

「ああ、明日病院へ持って行ってやる」

 三次は塚本を追詰める計画を立て、すぐに白湯にも知らせた。


 数日後の日曜日、三次と白湯も陽子さんの自宅リビングのソファに塚本と対峙していた。

「じゃ、借用書を出して下さい」三次が切り出した。

「良いが、なんで小川に白湯までここにいるんだ?」

塚本は度胸が無いのか、後ろめたいからなのか落ち着かない感じで指先を頻りに動かしている。

「あんたが前みたいなことをするかもしれないと奥さんから相談を受けたんでね。別に良いだろう、金払うんだからさ」三次は強気で言う。

「じゃ、百万。利息はまけといてやる」

塚本が面白くない顔をし借用書をテーブルに置いて太々しく言った。

白湯が借用書をぱっと手に取って、「これ、偽物ですよね」きっぱりと言い切ると、塚本の表情が一変する。

「なんだとう。ふざけたこと言うな。……それよこせ、金と引き換えだ」

塚本が立ち上がって手を伸ばす。

「わかってるんだ。偽物だって言う事」

三次が鑑定書をテーブルにバンと置く。

一瞬固まった塚本が立ったまま、それを拾う。

「何よこれ、警察?」驚いたのか目を見開き、陽子さん、白湯、三次へと視線を移して行く塚本。

「ああ、筆跡と印影を警察で鑑定してもらったんだ」三次が言う。

どかっと塚本が座り込んだ。

 襖が開いて男がひとり入ってくる。

塚本が驚いて見上げる。

男は胸のポケットから出した手帳を開いて、「道警の一ノ瀬です」と告げ、「あなたを詐欺の容疑で逮捕します」

塚本はぽかんと口を開けたまま陽子さんを見詰めている。そして、無言で立ち上がりガクッと肩を落として一ノ瀬刑事に連行されていった。


 翌朝、<H総合病院のレイプ未遂を起こしたT科長が今度は詐欺未遂で逮捕!>と銘打ってSNSに詳細なコメントが付され書き込まれた。


 例によって院長が「誰だこんなもの投稿したのは!」各部署へ行ってはそう喚き散らした。

管理課へ来た院長は真っすぐ三次のところへやってきて、「お前、システムの管理者なんだからこんな投稿できないようになんとかしろ!」

とんでもないとばっちりが、……「……院長、僕も何とかしたいんですが、これ院内SNSじゃないんで手の出しようが無いんですよ……」

極力申し訳なさそうな顔をして言ったのだが、「院内の事件を外へ漏れないようにしろと言ってるんだ。あんなに詳細な状況を知ってる奴はそういないだろうが。こんなことが続けば患者が減って経営が危うくなることぐらいわかるだろう?」

院長は三次を睨みつけるが、三次は思う。 ――自分は経営者じゃないし、……ま、潰れちゃこまるけどな……

「はい、わかります。色々調べてみます」取り敢えず答えた。

「うむ」三次の返事で満足したのか院長はほかの職員には声もかけずに出ていった。


 その二日後だった。

管理課にも辞令が回ってきて、塚本科長が正式に懲戒解雇になった。

塚本を送検したと一ノ瀬刑事が伝えてきたのはその数週間後だった。

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