遠くの声

翌朝、稔はいつもと変わらない景色が広がる「境界の街」の中を歩きながら、昨日の修復作業のことを思い返していた。傷つけられた物を修復することが、まるで自分を取り戻すかのような感覚だった。あの小さな器の修復が、まるで自分の過去の一部を取り戻しているかのようで、心が少し軽くなった気がした。


街の外れに向かうと、普段はあまり見かけない人物が一人立っていた。その人物は背を丸め、長い髪を風に揺らしながら、ぼんやりと街の景色を見つめていた。稔はその人物が誰なのかすぐには分からなかったが、何となく引き寄せられるように近づいていった。


「君、確か……」


声をかけると、その人物がゆっくりと顔を上げた。その瞳はどこか遠くを見つめているようで、稔を見た瞬間、僅かに驚いた表情を浮かべた。


「あなたは……」


その人物は、思い出したように言った。「数日前、広場で絵を描いていた方ですね。あの時、君と話したことがあった」


稔は少し記憶を辿った。そして、思い出した。あの時、広場で子どもたちと一緒に絵を描いていた女性──悠の友人だった。


「確かに、そうでしたね。あれからどうしていたんですか?」


その人物は、少し躊躇いながらも答えた。「実は……私は少し前に、ここに来たばかりなんです。少し、過去から逃げてきたようなものですね」


その言葉に、稔は少し驚いた。彼もまた、自分の過去と向き合うことから逃げていた時期があった。それが痛みを引きずる原因になっていることに気づくと、他人の痛みを見過ごせなくなる。


「逃げてきたって、どういうことですか?」


女性は深く息を吸い込むと、視線を少し遠くに向けた。「私も、かつてここで平穏な生活をしていた時期があった。でも、過去の出来事がどうしても離れられなくて……」その後、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「あの時、私は自分のことを許せなかった。それが、どうしても前に進むことを阻んでいた」


その言葉に、稔は自身を重ねた。自分もまた、過去の過ちや選択が心の中に大きな傷となって残り、前に進むのを難しくしていた。しかし、他人の言葉を聞いたとき、なぜかその重みを軽く感じた。


「でも、ここに来て少しずつ、そうした過去も受け入れられるようになってきた気がするんです。今では、少しでも自分を許してあげることが大切だと感じています」


その言葉は、稔の心に強く響いた。逃げずに、過去を受け入れることで、自分が少しずつ変わっていけるかもしれない──そんな希望が芽生えてきた。


「それでも、完全に過去を消すことはできませんよね。でも、少しでも前に進める気がします」


「その通りです」と、女性は微笑んだ。「私もまだ完全に前を向いているわけではありませんが、少しずつ歩みを進めています。ここで過ごす時間が、それを助けてくれるんです」


その言葉を聞きながら、稔は自分の心の中で何かが少しずつ変わっていくのを感じた。過去に囚われていた自分が、少しずつ解放されていくような気がした。


「もし、また会うことがあったら、少しでもお話しましょう」


女性は、穏やかな笑顔を浮かべながら言った。そして、稔は頷き、二人はその場を離れた。通りを歩きながら、稔は遠くに消えていくその背中を見送りながら、自分がどこに向かっているのか、まだはっきりとは分からなかった。しかし、少なくとも今は、その先に向かって歩き続ける力が湧いてきたことを感じていた。


「僕も、少しずつ前に進むべきだ」と、稔は心の中で呟いた。


その声が、まるで自分の心に響いているようだった。


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