3-9 大きめの犬歯が印象的
店内は仄暗かったが、要所要所の床面付近には小さなオレンジ色のランプが灯っていて、歩くのには何の不便もなかった。
キリエさんは二人掛けのテーブルに腰を下ろし、僕もその向かい側に座った。やって来た給仕は普通の男性だった。折り目正しくキチンとアイロンの掛けられたシャツと、略式のリボンタイを着け濃い色のパンツを履き、白い前掛けを付けていた。
ただ何というか、非道く印象が希薄だ。顔はちゃんと見えるのに、一瞬でも目を離すと其処に居るということすら忘れてしまいそうだ。
この薄暗い店内のせいだろうか。
卓上のテーブルランプが手元を照らし、そのセピアトーンが淡い印象に拍車をかけていた。静かに落ち着きすぎていて、外が晴天白昼であることを忘れてしまいそうだった。
手渡されたメニューはランチタイム専用で、一一時から一四時までと時間が明記され、料理と飲み物が並んでいた。心配していたお値段もお手頃で、これなら僕の財布でも充分に対処可能だ。
ちょっとホッとする。店に入った瞬間、高そうな店だと密かに冷や汗をかいていたからだ。
ステーキハウスもろくに入った事のない若造なのである。ファミレス以外のレストランで食事をするなんて、僕の人生では数える程しかない。
此処はハンバーグステーキのランチが美味しいと言われてそれにした。彼女も同じものを頼み「ワインは?」と尋ねられた。少し焦って元々お酒は強くないと断ったら、ノンアルコールビールはどうかと勧められてそれを頼んだ。何だか緊張する。
食事にワインを付けて頼むなんて初めての経験だった。
ちょっと掌が汗ばんできた。
「『普通のレストラン』なのですから気負わなくても大丈夫ですよ」
「そもそもレストランなんて柄じゃないから落ち着かないんですよ」
彼女の云う「普通」がどの程度のレベルなのだろう。それが判らないから不安になるのだ。
「畏まらずとも良いのです。良識さえ弁えて居れば、多少の作法の間違いなど問題にすらなりません」
レストランのドアをくぐる者は、食事と会話を楽しむ為にテーブルを囲むのだとかなんとか。
そんな風に言われても・・・・
そもそも僕は、家族以外の女性と面と向って話す機会には恵まれて居なかったし。
「楽しむと言われても、何を話していいか分りません」
「身の回りの事、ただ他愛の無い日々の出来事で良いのです。それに、話し相手が居るというのはとても良い事だと思いませんか」
前菜のスープとサラダが運ばれてきて、それを平らげたら主菜とライスがやって来た。ぎこちなくナイフとフォークを駆使して口に運ぶが味は半分も判らない。
でもデミグラソースが濃厚だけどしつこさが無いのは助かった。あと辛うじて感じ取れたのは、ハンバーグがとても柔らかかったことくらいだろうか。
注文の時、給仕の人に箸かナイフとフォークかと訊かれたが、素直に箸と言っておけば良かった。彼女に合わせたつもりだったが身の丈にあったものにするべきだった。そうすればもう少し余裕はあったろう。
まったく見栄なんて張るもんじゃない。
やがて食後の珈琲が運ばれてきて、結局ノンアルコールビールは一口か二口、口を付けただけだった。
会計を済ませて外に出ると太陽の眩しさに目を眇めた。思わずほっとする。
「口に合いませんでしたか」
「いえ、そんな事無いです。美味しかったです」
「何だか口数が少なかったので。夜の部はもっとメニューが豊富です。気が向いたらまた訪ねてみるのも一興でしょう」
確かにいくらか会話を交わしはしたものの、ナイフとフォークとテーブルマナーに気を取られて、その内容は殆ど憶えていなかった。学生時代の友人の事や、最近の会社の近況、自分の趣味くらいは口にしたような気もする。多分。
それに彼女のお薦めを無下にするつもりは無いけれど、僕は此処がこの町のどの辺なのかすら判らなかった。案内もなしに再訪できる自信はまるで無かった。
「お腹もいっぱいになりましたし、あとは帰り道ですね。案内しますよ」
そう言ってキリエさんは歩き始め、僕は慌ててその後を追った。
アスファルトが陽の光に灼けていた。
時折見かけるマンホールが鈍い色合いを見せている。
顔を上げるとゆっくりと蛇行した路地が見え、それに連なる日本家屋が少し濃いめの影と明かりのコントラストを作っていた。高い建物がまるで見当たらない。広がるのは平べったくて平板な町並みで、空がやたらと高かった。
青空を邪魔するのは時折視界に現われる用途がよく分らない鉄骨のやぐらか、電柱とその電線くらいのものだ。
「静かな町ですね」
黙って歩く間がもたなくてそんな具合に声を掛けた。「そうですね」と返答があったけれども返す言葉が見つからなかった。また少しの沈黙が続いた。何となく気まずかった。
何でもうちょっと気の利いた会話が出来ないのかと、自分自身が歯がゆかった。
「この町に住む人達は静かに暮らすことが好きです。なので大仰であったり騒がしいことは好みません。外出も必要な時だけです。そのお陰なのでしょう」
それは確かにそうなのかも知れませんが、あの猫に案内されてから今この瞬間まで、すれ違うどころか通りがかる人影すら全く見当たらないというのはどうなんでしょうか。
閑散とした路地と町並みだけが続くというのは、少し普通じゃないと思うのですけれど。その部分はスルーして良いところなんでしょうか。
そこで初めて僕はあの猫が見当たらない事に気が付いた。
「あ、そう言えばニケは?」
「猫はレストランに入れません。わたし達がお店に入るとき先にお家へ戻りました」
言われてみればそれもそうだ。自分のことだけで一杯一杯で、周囲がまるで見えていなかったらしい。
「ちなみにあそこに見える高い塔が、あの子の住んでいる場所です」
指差された方向に一際高い建造物が見えた。あれは塔だったのか。てっきり煙突だとばかり思っていた。
「いつもあのてっぺんから町を見回しています」
「でも何であんな所に」
「猫ですからね。高い所が好きなのでしょう」
ええぇそんな理由で納得して良いのかな。飼い主のこだわりか、それとも別の特別な何かが在りそうな気がするけれど。
「啓介さんは何故この町に迷い込むことが出来たと思いますか」
「迷い込むことが、出来た?」
妙な言い回しだった。その言い方では迷い込めない方が普通みたいに聞える。
「ご感想の通りですよ」
「あのスイマセン。前にも言いましたけれど、口にしてないことを見透かさないでください」
「分かり易いので。それに裏表のない方は皆に好かれます。欠点というよりも美点なのではありませんか」
「それはそうかも知れませんけど」
「話を戻しますが、啓介さんは町に招かれてそれに応えたのですよ。ですから此処に居ます。こうしてわたしとお話をして、お食事をしてお散歩をしています。望めよ、されば門は開かれん、といったところでしょうか」
「僕は何も望んでいません」
「そうですか?何か欲しいと思っていませんでしたか。繰り返される毎日の中で、得られないものを求めていなかったですか。
例えば趣味。例えば時間。例えば食べ物。挙げればきりが在りませんが、ふとした切っ掛けや、ものの弾みで手に入れられるものもあります。
啓介さんは歩くときに足元をよく注意していらっしゃいます。注意深いのはとても良い事だと思いますが、たまには顔上げて辺りを見回すのも大事だと思います」
「僕には
「苦言を申し上げて居るのではありません。たまにはそうした方が良いのではありませんか、という提案です。選ぶも選ばないも啓介さん次第ということです」
そう言ってキリエさんはまた肩越しに振り返り、白い歯を見せて笑った。
やっぱり大きめの犬歯が印象的だった。
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