2-4 「我に七難八苦与えたまえ」なんて
珍しくスマホのアラームが鳴る前に目が覚めた。
しばらくパイプベッドの上でボンヤリした後に起き出して、昨日買ってきたコンビニのサンドイッチとオレンジジュースで朝ご飯にした。
やれやれという気分だった。
「会社に行きたくないな」
失敗に落ち込もうと幸運に浮かれようと、明日は永遠にやって来るし、次の日の朝を迎えることも止められない。
取敢えず憂鬱な出張は終わって、再びいつもの日常が巡ってきたのだが、その日の朝は更に憂鬱だった。四日ぶりの出社である。
昨日は昼過ぎに戻って来て到着した駅で課長に一報入れたのだけれども、子細報告は明日でいいと言われてそのまま直帰したのだ。
珍しい、報告はともかく定時まで何某かの仕事を言いつけられると思って居たのに。電話越しだったが、背後で何やら立て込んでいる気配があった。また何か問題が持ち上がっているのだろうか。
正直、会社の人間や自分の上司、特に村瀬と顔を合わせるのが億劫だった。またぞろ嫌みを言われるのは間違いあるまい。
タイムカードを押そうとして、脇にある掲示板に見慣れぬ掲示物があることに気が付いた。表題は赤字で大きく書かれてあって、内容は災害速報だった。
こう言うと、世間一般では地震とか台風とかそういう天災的なイメージがあるけれど、工場なんかの生産現場なんかじゃチト違う。基本的に設備がらみのトラブルとか、怪我とかにまつわる事故人災、労働災害の方だ。
事務所で踏み台代わりにキャスター付き椅子の上に立ってひっくり返り、足首捻ったりしても労災となるご時世である。
大した事ではあるまいと思ったのだが、内容は思ったよりも深刻だった。大花田の別工場で怪我人が出たらしい。
速報なので概要しか書かれておらず、詳しい内容は追って連絡とあった。だがどうやら作業者が切断機で指を落としたらしい。
そして昨日、課長が電話越しに慌ただしかったのはコレが原因かと思い至った。
朝のミーティングは件の別工場の災害にまつわる内容と、安全作業の徹底という訓示に終始した。
いつもならば五分程度の業務連絡だけで終わるのにたっぷり二〇分もかかり、「同じ台詞を何度も繰り返すなよな」と愚痴る年配作業員にまじって会議室を後にすることになった。
「怖いねぇ。痛そうだねぇ。恐ろしいねぇ。回転ノコで指を落とすだなんて聞いただけでもゾッとするよ」
一〇時の休憩になると、自販機の横でカップの珈琲を飲んでいた僕にパートの白石さんが話し掛けて来た。
このおばさんはこの職場に来て長くて、おっとりとした話し方に似合わず仕事はそつなく早く正確で、信頼できる作業者の一人だった。経験があって気楽に話せる人物なので、色々と助けられている。
このひとが居るから僕は安心して仕事が出来ると言っていい。
正直、村瀬よりも信頼していた。
「詳細はまだ出ていないですけれど、課長の話じゃあどうやら回っているノコを止めずに、素手で切りくずを取ろうとして巻き込まれたらしいですよ」
「ええ、なんでそんなことやっちゃうの。止めてからすればいいじゃない」
「ですよねぇ。課長もゲンナリした様子で話してましたよ」
僕なら怖くて絶対にしない。やるなら完全に停止させるし、せめてハケとか箒とか使うだろう。それだって巻き込まれたら、折れた柄が飛んでくる事だって在り得る。
素手なんて以ての外だ。何の為の非常停止ボタンなんだ、と思う。
朝から課長は職場を逐一見て回り、各部署の責任者に作業手順のリスニングと注意喚起を行なっていた。
現場管理職には社長直々に、全ての作業者と工場内の作業状況を確認して、危険箇所や危険な作業の洗い出しをしろとのお達しがあって、工場長共々現場に入り浸りの状態らしい。
「事故や災害が起きる度に同じことをやっているねぇ」
「そうなんですか」
「そうだよぉ。こういうのって立て続けに起きたり、定期的に起きたりするからピリピリするのも分るけれどもね。お役所さんに目を着けられる訳にもいかないし。まぁ誰しも起こそうと思ってやっている訳じゃないんだけどさ」
「そりゃそうですよね」
白石さんは一息つくとカップの緑茶をずずっとすすった。
「慣れてくると『これくらい大丈夫』とか、『いつもやっているから平気』とか思うようになっちゃうから、ケガしない程度に小さな失敗をして、『しまった』とかビックリする方が事故は少ないかも知れないね。
あ、いけない、いけない。こんなこと言っちゃダメだよね。課長さん聞いていないよね」
慌ててキョロキョロする姿はコミカルだったが、今の僕には何気に痛い台詞だった。
その言葉通りなら昨日までの苦行は、大きな失敗に至る前の警告だったのだろうか?確かにアレは身に染みたから同じミスは起こすまいと、以前よりも子細に注意を払うようになった。
渡邉さんも言っていたが、自分の知らない苦労を体験するのは糧に為ろう。
でもトラブルが起きないのならそれに越したことはない。誰だって望んで、辛かったり苦しかったり痛かったり、冷や汗かいたり血の気が引く思いなんてしたくはないはずだ。
遠い昔には「我に七難八苦与えたまえ」なんて、頭おかしいコト宣う人物も居たようだけれど、そんなのは余程のひねくれ者か生粋のマゾヒストに違いない。やっぱり平穏無事がイチバンだと思うのだ。
数日ぶりに戻って来た仕事場はいつもよりも慌ただしくて、何とも言えないピリついた空気であったのだけれども、いつもと変わらぬ忙しさのままで一日を終えた。
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