4-3 エリーゼの不安(アレックスサイド)

 夏の香りが近づいて来る季節だ。アレックスはエリーゼの部屋で、お茶を飲んでいた。今日は彼女のウエディングドレスの試着をしてきたのだ。

 アレックスは楽しげに、隣に座る彼女に話しかけた。


「今日見たけど、バックスタイルに力を入れたドレスもいいね」

「そうね。今日見たのはトレーンが総レースで素敵だったわ」

「エリーゼはスタイルが良いから、やっぱりマーメイドラインが似合うね。でも王道のプリンセスラインも、可愛いと思ったな……いや、今日着たシンプルなAラインも良かったけど……」

「ふふふ、アレックス、私より悩んでるじゃない」


 エリーゼは控えめに微笑みながらも、どこか上の空だ。その理由を、アレックスはきちんとわかっているつもりだった。

 十中八九、聖女マリアのせいだ。彼女はアレックスにちょっかいをかけるのを止めず、貴族の間ではかなり噂になっているのである。

 アレックスが心配していると、エリーゼは突如何かを決意したように、がばっと視線を上げた。


「あ、あ、アレックス!!きょ、今日ね……!!」

「うん?」


 エリーゼが裏返った声で話し出したので、アレックスは優しく首を傾げた。


「う、ううう、うち、両親がいないのよ……!!」

「?知ってるけど……?」

 

 だからこそ、二人きりにならないようにドアを少し開けているのだが、一体どうしたと言うのだろうか。

 次の瞬間、エリーゼは震える手でアレックスの手をわし掴んだ。そしてなんと、それを自分の胸の豊かな膨らみに押し当ててきたではないか。右手に伝わるふわっとした感覚に、アレックスの心臓はドクンと大きく跳ねた。

 

「アレックス……私のこと、抱いても、いいのよ……?」

 

 エリーゼが潤んだ上目遣いでそう言ったので、アレックスは完全に動きを停止させた。もしも今、ほんの少しでも右手に力を入れれば……その瞬間に、エリーゼの柔らかさを堪能できるのだ。できることならば、死ぬほどそうしたい。――――でも、駄目だ。

 アレックスは理性を総動員し、唇を血の滲むほどギリっと噛みながら、手をゆっくりと離した。頭の中で絶え間なく素数を数えながら、努めて穏やかな声で話しかける。

 

「どうして、そんなこと言うの?結婚初夜まで、そんなことする気はないよ」

 

 すると途端にエリーゼの黒い瞳からは、ボロっと大粒の涙が溢れた。

 

「う…………ゔぅっ…………!!」

 

 エリーゼは、普段の彼女からは考えられないほど取り乱して、泣き始めてしまった。アレックスは慌てて、取り出したハンカチでそれを拭う。

 

「うぅ…………っ、わ、私…………!!不安なの……!!」

「うん……」

「アレックスが……っ、私から、離れて、いくんじゃないかって……不安なの……!!」

「そうなんだね。不安なことは全部教えて?泣いていいんだよ、エリーゼ」

「マ、マリアを、お茶会で見たの。すごく、可愛かった……。アレックスに触れているのを、見たっていう噂も、いっぱい……いっぱい、聞いたの……!!」


 エリーゼの目からは、絶え間なく大粒の涙が零れ落ちていく。きっと相当な不安を抱えて、我慢していたに違いない。

 

「ごめん。避けきれてない俺が悪いよ。でも、聖女は王族に準ずる扱いをすることになってるから……正直困ってるんだ」

「そうよね。そう、よね……信じられなくて、ごめんなさい……!」


 エリーゼは、わっとアレックスの胸に縋り付いて泣いた。

 

「抱いて、もらったら……!あなたを、引き留められるかと、思ったの……!馬鹿な女で、ごめんなさい……!!」

 

 あまりに痛ましい様子に、アレックスは胸が張り裂けそうになった。同時に、エリーゼに自分の気持ちを丁寧に伝えなければいけないと思う。

 

「そんなこと言わないでくれ。俺は本当は、今すぐ君を……俺のものにしたいよ……」

 

 それはアレックスの、心からの本音だった。

 彼女の美しい身体のラインを、確かめるように丁寧になぞっていく。

 肩から腕。腰から太腿。真っ直ぐに見つめながら、ゆっくり、ゆっくり。それから上がって、耳から顎のラインを。

 こちらを見つめるエリーゼの長いまつ毛がふるふると震えて、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。その涙さえも、とても綺麗だ。アレックスはそれを見ただけでも、ぞくぞくと興奮してしまう。

 でも――――やっぱり、駄目なのだ。精神力で何とか自分の手を引き剥がしながら、アレックスは言った。

 

「でも、まだダメだ……。俺は、エリーゼのことを、大切にしたいから。だから、まだ抱かないよ」

「うん……」


 エリーゼは俯いて、肩を震わせた。アレックスは彼女を諭すように、柔らかな声で言った。

 

「俺の女神様は、エリーゼだけだ。誓うよ。絶対に、心変わりしたりしない」

「アレックス……」

 

 アレックスはエリーゼの頬をするりと撫でて、口付けた。無防備に開けられた唇の中に、そっと舌を差し込む。ゆっくり、ゆっくり舌を絡ませると、エリーゼが遠慮がちにそれに応えた。

 

「ん…………んぅ………………ふ…………」

「可愛い……。可愛い、エリーゼ……」

 

 ――いや、駄目かも、これ……。

 アレックスは呆然とした。

 ――これだけでもう、馬鹿になりそう。何かもう、ぼんやりしてきたし。俺ってこんなに、何も考えらんなくなるんだ……。

 自分自身にほとほと呆れる。エリーゼの甘やかな吐息を感じていると、すぐに我慢が効かなくなりそうだった。だから早急にキスを打ち切った。

 その代わり、アレックスはエリーゼの薄い肩を抱き締めて、その背中をトントンと叩き始めた。まだ涙を零している彼女を、あやすように話しかける。

 

「あの子はさ、一見清純だけど……中身は八方美人だよ。っていうか、婚約者のいる男性に馴れ馴れしくするなよって、俺は軽蔑してるんだけど?」

「それは……そうだけど……」

「それでいて、絶妙に引き際も弁えてるんだよな。そういうことに、相当頭が回ると見たね。正直、俺の一番嫌いなタイプだよ」

「そうなの……?」

「そうなの。俺が一番好きなのは、エリーゼだから」

 

 愛しいエリーゼの背中を、トントンと一定のリズムで叩く。彼女は少し落ち着いてきたようだ。スンスンと静かに鼻を啜っている。アレックスはほっとした。

 シナリオのことは、全部クロードから聞いている。だから、『ヒロイン』のマリアにまるで心を見透かされたようなことを言われても、アレックスは全然動揺しなかった。

 

「っていうかさ。あの子よりエリーゼの方が、ずっとずっと可愛いし。おかしいな。俺、エリーゼしか可愛く見えない魔法にでも、かかったのかなぁ?」

「もう……」

 

 エリーゼは泣きながらも、クスクス笑い始めた。笑ってくれて良かった。胸が温かくなる。アレックスが欲しいのは、エリーゼの笑顔だけだ。

 

 ――もしかしたら『ゲーム』の俺は、ずっと抱えていた寂しさに付け込まれたのかもしれない。だけど俺はもう、本物を……エリーゼを、知っているから。だから、絶対に大丈夫だ。

 

 アレックスはその後、エリーゼの涙が止むまでずっと、彼女の背中をトントンとし続けたのだった。

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