つゆり

内谷 真天

つゆり

 生まれた季節が苦手。きらいじゃなく苦手。

 きらいかもしれない。

 まあどっちでも。

 新しい環境に入って新しい出会いに刺激されて、るあいだの大型連休の終わりっくらいに誕生日がやってくる。みんな緊張と弛緩の連続に疲弊しきってるから話題にのぼらない。やっと落ち着いた頃にyy/mm/ddを明かしあう仲まで詰まって、それでいっつも微妙な顔をされる。

「来年はちゃんと祝うから」

 はいはい空約束。守られた覚え、ない。

 いいんだけどね忘れちゃっても。忘れられるなら自分だって忘れたい。

 でもこればっかりは忘れられない。

 しっかり名前に刻まれてしまってる。

 五月七日。つゆり。慣用的にそう読むらしい。そこから月と日を抜いて、五七。五七調かよ。でもそう刻まれてしまった。つゆり。月と日が欠けた、五七。なるほど私は明るさを失ってる。

 名は体を表す。ごもっとも。

 だから言い出せない。「面白い読み方だね」、「誕生日からきてるんよ」。そう返せば良いだけのはずなのに。月も太陽も失った。明るくないからな。

「最初は栗花落って当てようと思ったんだけど」

 落ちるじゃ縁起が悪いからって親戚から猛反発されて、それで今の字が当てられた。五七。適当が過ぎんか。

「縁起はいいのよ。五も七も」

 ああそう。

 つゆり。響きは嫌いじゃないんだけど。

 でもやっぱり苦手だ。この名前のこと。この時期のこと。

 生まれた季節、のこと。

 あれ?

 いや。そうでもないか。五七。今日は六二十。もう一月以上も前のことだ。ぼーっとしてると時間がめくるめく。光陰矢。あまりに目まぐるしい。

 まあいいか。大差ない。

 だってつゆり。梅雨入り転じて。旧暦で考えたらこっちのが正しい。

 生まれた季節が苦手。

 つゆり。つゆ。ぴちょんぴちょん。本当に苦しい季節だ。

 雨音の入眠剤。かなり強烈で。やる気が起こらない。

 春の眠気とはまた違う、もやもやっと心が晴れずに、焦りばっかり募ってく種類。で抗えない種類。

 ねっみ。

 やんなきゃいけないこと。やるべきこと。あるんだけどね色々と。

 でもどうにもなんない。

 忘れよう。考えないでおこう。寝ちまうか。

 だって強烈過ぎんだよ。言っても伝わらないし。

 寝ちまうか。


 ●


 雨。雨。やんでくれない。眠い。夢。昔のことばっかの夢。

 今がないから昔だけ。

 ペットボトルに半分だけの炭酸水。周りは飲み口のところまで注いでるのに、私だけ半分のまんま。半分さえ満たしてない。泡がそこだけにしか浮かばない。

 昔だけ。半分だけ。過去の炭酸。

 キャップが溶接されちゃってんだ。もう開けられねんだ。だからやんでくんないかなあ、雨。

 夢ってなんでこんなに無慈悲なんでしょう。


 ●


 やっべ。

 始まった。やっぱりだ。

 死にて。

 ああ、もう。だから苦手なんだ。なんであんな夢、見るんだか。

 くっそしょうもない夢。思い出すなよ、夢。

 忘れろよ、夢。

 好きだったんだよ私だってさ。振り返りたかったんだよ私だってさ。だけど急に後ろから叫ぶなんて無いじゃん。廊下じゅうに響き渡ってたよ。

 恥ずかしいじゃん。無理じゃん。そりゃそのまま行っちゃうよ。馬鹿かよ。

 んで髪切って現れんなよ。乙女かよ。今どきかよ。

 決定的じゃん。

 ああもう終わっちゃったよ。私の気持ちも伝えられないまんま。

 好きだったんだよ私だってさ。

 ごめんなさい。……ごめんなさい。

 違う。やばい。

 忘れるの。忘れるんだ。忘れよう。

 あいつもそうだ。一年ぶりに会ったら、なんであんなに不機嫌そうにしてるんだ。中1のときはあんなに楽しく話し合ってたのに。

 放課後の教室。川尻くんも交えてさ。三人で。みんなが帰っちゃってからも。下校のチャイムが鳴るまで。鳴ってからもちょっと粘ってみたりして。笑ってくれてたのにさ。

 一年休んでただけじゃん。心の問題で。

 ああ、くそ。どうしても思い出す。昇降口。下駄箱のロッカーの端っこ、に立ってた。誰か待ってるみたいに。相変わらず川尻くんを横に置いて。相変わらず私のこと不機嫌そうに睨んで。

「なんで怒ってんの」

 って。訊いちゃった。馬鹿かよ私。鈍すぎかよ。

 傷つけちゃった。

 ごめんなさい。本当にごめんなさい。

 ああ。もういやだ。

 忘れろって。忘れなきゃだめだって。

 ほら、つゆり、頑張れ。いつもといっしょ。忘れなきゃどうにもなんないの。もう二度と帰ってこない夢なんだから。

 謝りたい。

 それも相手にとっちゃいい迷惑。今更。

 言っても伝わんない。

 忘れらんなきゃ辛くなるだけだ。


 ●


 つらいだけ。

 学校行きたくない。蹴られた。殴られた。

 忘れよう。

 知らない男が家にいる。夜中になんか聞こえてくる。

 忘れよう。

 急にキレられる。スイッチわかんない。雰囲気で察しなきゃ自分を守れなくって。なのに。なんで。あんたは大人の顔色うかがう汚い子。なんで?

 忘れよう。

 じっとしてらんない。授業中によく抜け出した。じゃないと頭がわー。支援学級の相談。こっちから断った。うちの子は普通です。

 忘れよう。

 抑えがきかない。どうしても。迷惑かけたくない。けどかける。迷惑かけたくない。けどかけてしまう。周りの子となんか私は違ってる。言い訳だ。そんなの言い訳だ。だって普通だから。

 忘れよう。

 夜中までげえげえいって朝には冷たくなっていた。サンマの小骨。喉に刺さったまんま。そんなのあげちゃだめなのに。丈夫な子じゃなかったのに。やめて助けて病院連れてって。何度も叫んだのに。ごめんね。なんにもしてあげらんなくて。

 猫なんて二度と飼わない。か。

 忘れよう。

 こんな遅くにどこいくの。出て行っちゃった。もしかして、もう帰ってこない? 悪い子だから捨てられた? 怖くなって110番したら男に会いに行ってるだけだった。しばらく口きいてくんなくなった。

 忘れよう。

 陶器の花瓶が飛んできた。避けたら割れた。泣きながら言われた。あんたなんか生まれてこなければよかった。私もそう思う。

 忘れよう。

 兄たちの結婚。腹違いの。昔の名字のままの。私だけ切り離されて、みんな幸せになってゆく。

 忘れよう。

 私の背が越えた。したら手あげなくなった。キレなくなった。代わりに「食べさせてやってる」だって。「あんたが勝手に私を選んだ」だって。なんなんだろう。なんにもやる気が起きなくなった。

 忘れよう。

 夢ができた。それだけで皮膚から呼吸できる気分だった。スクールカウンセラー。誰か救ってあげたい。こんな悪夢は私だけで充分だ。

 忘れよう。

 男と別れて酒浸り。今度は夜中にくっそうるせえテレビの爆音。寝らんねえ。お前だけ寝てんじゃねえ。一度起きたら寝られねんだよ、思春期なんだよ、わかんだろぼけ。

 忘れよう。

 日数も単位も足りてない? このままじゃ留年? いやしらんよ寝られんのだから。そんな親いるわけない、なんておっしゃられましても。

 忘れよう。

 耳栓すら効かねえ。頼むから静かに寝かせてくれよ。ごめんね反省した生まれ変わるから。涙目の演技。から3日後にはてのひら返し。舌の根が乾かされずに逆ギレに使われる。おいどうなってんだこの生き物。

 忘れよう。

 死にてえ死にてえ死にてえなんで私だけこんな目に。誰か助けてよ。死んだら負けだろ頑張れつゆり。誰か助けてよ。

 忘れよう。

 高架下の空き地。深夜のヘイブン。そっから見える焼却施設の煙突。登れねえかな。飛び降りらんねえかな。頭がそっから抜け出せない。

 飛び降りちゃえば楽だったのに。

 忘れよう。

 テレビ報道見ながらなんか言ってる。自殺なんて心が弱いからするのよ。だって。ああ。死んでも理解されねーのかこいつには。ってか死ねねえのか私。どこにも逃げ場ねえじゃん。

 忘れよう。

 酔っ払った口でまたなんか言ってる。愛してる。あんたが一番大事。望んで生まれてきた子なのよ。それさ、こっちの殺意助長するだけなんだけど。口先でどうにかなると思ってんのか。

 忘れよう。

 2留だってさ。2留。高校で。勉強好きだったんで。でごまかし続けたご体裁。きつくても人前の笑顔は崩さない。誰にもこんな姿見せたくなかったからなあ。そりゃ誰も助けんわ。

 忘れよう。

 本家から援助打ち切り。せめて大学まではって話だったのに。スクールカウンセラー。臨床心理士。資格試験にまず認定大学の修了課程が必要。あれ。じゃあ無理じゃん。

 忘れよう。

 なんだ自分で金貯めりゃいいんじゃん。気づくの遅すぎ。でも貯めた金がごっそり消えてた。翌月も。翌々月も。エンドレスループ。男。酒。次は金ですか。とことんだなこいつ。

 忘れよう。

 忘れよう、っつーか。

 もう無理だわ。心の脊椎が逝っちった。

 こんなんでも親だしさ、一応ひとりっ子ってことになっちまったしさ、将来的の介護だのなんだの、そういうことも受け入れちゃ、いたんだけど。いいよ。もう。知ったこっちゃねえや。

 いつからだ? いつから始まった? わかんないけどよく耐えたよ。耐えすぎたわ。来る日も来る日も死にてえ助けて頑張れの繰り返し。明日の希望にすがってぶっ壊されての繰り返し。人前じゃ気丈に振る舞っての繰り返し。

 限界なんてとっくに超えてた。

 やっぱ飛び降りちゃえば楽だった。逃げ込んだ先で差し向けられたのは兄たちからの罵倒。働け逃げんな弱音吐いてんじゃねえ。いくらでもやりようあっただろ。

 私か? 本当に私か?

 忘れよう。

 せめて誰かに背中をさすってもらいたかった。頑張ったな。辛かったな。ちょっと休んでけばいいよ。

 だれか私に優しくしてよ。

 忘れよう。何もかも。うっとうしい雨だくそ。

 つゆ。

 ああ、なんだ?

 ちいくん?

 うわ、ちいくんだ。覚えてたんだ私。ちいくんの声。

 つゆー。

 可愛いやつ。無邪気な声で呼びやがって。

 忘れよう。

 会いたいなあ。ちいくん。でも忘れなきゃ。

 寝よ。

 誰に言っても伝わんないし。


 ●


 月も太陽も失った曇天模様。

 下では夢なんて抱くもんじゃない。希望も持っちゃだめなんだ。そういう陽のある世界のことは陽のある人たちにだけ許されてる。

 ちいくんだった。うわ、ちいくんだ、って思わずドキッとした。横顔を見るまでわかんなかった。

 ちびすけだからちいくん。だったのに。おっきくなっちゃった。礼服までうまく着こなして。ぶっちゃいくだったのに。可愛かったのに。

 ちいくんに会えるなんて想像もしてみなかった。こっちは喪服の用意やらで慌ただしくって。だけどそりゃそうだよな。いるよな。

 昔はシャイだったのに。十年も経てば変わるか。ずいぶん垢抜けちゃってた。歳の離れた親族にもぐいぐい行って。

 私は離れた席でぽつん。父方の集まりではいつもそう。話しかけられても頭が真っ白になるからそのうち話しかけんなオーラを出す癖が身についた。

 ぼーっと。独特の世界に入り込んでる真似。あいつは一人にしといても大丈夫だって雰囲気づくり。じゃないと周りを気詰まりにさせちゃうだけだから。

 そういう私の横に、いっつもちいくんがいた。

 気づくと幼い顔が私の隣に座ってる。

 楽でよかった。この子をかまっていれば否が応の気まずさも撒き散らさずに済む。ほっぺなんかつんつんするとそれだけで喜んでくれちゃって。

「つゆ」

 最初は生意気に呼んできた。僕の方が偉いんだぞって感じで。だんだん抜けてきて、純粋に、って調子になってった。

「つゆじゃないでしょ。つゆりちゃんでしょ」って周りから注意されてもやめない。そのうち矛先が私に向いて、

「お前は情けなくないんか」って。

 言われてもピンとはこなかったけど。

 ちいくんは何考えてんだかわかんない目でこっちを見上げてた。

 私は仕方なく打ち明けた。

「ちいくんの好きにさせてあげたらいいよ」って。

 だって呼ぶとき、あんまりにも嬉しそうなんだもん。だからずっとちいくんからは呼び捨て。

 つゆー。つゆー。カレシかっつーの。嬉しかったよ。

 ぶっちゃいくだったのにな。可愛くて好きでたまんなかった。やっぱどんな相手でも異性って大事だ。姪っ子だったらぎくしゃくしてた。きっと。

 かわいいかわいい、歳の離れた弟って感じの男の子。

 ずっと誰かに必要とされたかった。こういう場所に逃げ込んで、その先でも袋叩きにあって、みんなから腫れ物扱いされてた時期のこと。そういう場所にちいくんが来た。ちいくんにとっては遊び相手の一人にすぎなかったんだろうけど。

 もともと子ども好きだったから余計に可愛かった。表情も行動も不器用で上手くは反映できなかった。それでもせいいっぱい遊んでやったつもり。かまってやったつもり。

 それでもたまに、ふっとつまんなそうな顔されちゃって。だから私の手の届くぎりぎりの範囲まで頑張った。つもり。写真嫌いの私がゼッタイとらないポーズまで作ったりしてさ。ちいくんと一緒に写った、ぎこちない笑顔。一目で無理してるってわかる。

 ちいくんを楽しませることが喜びだった。

 治療、されてたんだ。

 この日々がもっと続けば暗闇から這い出せるかもしれない。雲間からさすエンジェル・ラダー。そういう希望じみた存在。

 でも月も太陽もない。


 ●


「つゆ」

 向こうから声をかけてきた。気づくのが遅かったんでほとぼり冷ましてこっちからのつもりが、ちいくんの方から。

 相変わらず呼び捨て。すっかり声変わりしちゃいやがって。カレシかっつーの。その歳でそれはシャレにならんて。嬉しかったよ。

 嬉しかったけど、それ以上にショックだった。

「あのときさ、つゆがおんぶしてくれて」

「おんぶ?」

 十年前の思い出、の回想シーン。ちいくんと二人でお出かけした唯一の。たぶん人生で一番の宝物ってくらいの。

「つゆ忘れちゃってんの?」

「えー。したっけな。そういえばしてあげたかも」

 口じゃ強がってたけど内心愕然。

 あとで思い出したのは、歩き疲れたちいくんが「つゆ。おんぶ」ってぐずりはじめて、いやいやお前もうそんなんで喜ぶ歳じゃないだろ、ってか私だってそんなに体力ねえよ、とか感じつつ、注がれる視線から期待の色がやまなくて。

 大した距離じゃなかったし恥ずかしかったし私もぐったりしちゃった。だけどやってあげてよかった。あんなにはしゃいでくれるとは思わなかった。

 なんで忘れてたんだ。

 いや。わかってる。わかってる。忘れるように努めてきたんだ。

 ちいくんも居る場での突然の家族会議。いつものように一方的に責められて、そのときはあんまり追及がひどかったから私もついカッとなっちゃった。

 金のこと。酒のこと。それと、男のこと。ちいくんの前で言っちゃいけないようなことまで、まるっきりぶちまけてしまった。

 あんなバケモノ私にだけ押し付けて、涼しい顔で意見してくれんなよ。そういう積もりに積もった不満を。全部。

 ちいくんは「もういや」って感じでその場から逃げ出してしまった。あとになって声をかけにいったけど、ムスッとしたままなんにも答えてくれなくて。

 ああ、ちいくんにまで嫌われた。愛想尽かされた。

 でも飲み込むことにした。

 そりゃそうだよな。こんな情けない私。なんにもしてない私。弱音ばっかの私。愚痴ばっかの私。当然だ。

 治んねんだよいつまでたってもさ。ぼろっぼろのままなんだ。原因は私にはないって今でも信じてるけど可哀想に思われるのは子どものあいだだけ。ちゃんとしたケアを受けられずにおとなになったら、はいあなたの自己責任。

 結果。結果だけがここにある。だから飛び降りちまえば楽だったんだ。したらみんな悲しんでくれていた。かもね。少なくともこんな未来よりはましだった。必死に耐えた報酬が、これ。

 ちいくん。

 もう、私の方から会いたくっても、ちいくんにはその気がなくなっちゃった。

 飲み込むことにした。忘れることにした。

 それから十年。まさか本当に一度も会えないままとは思いもよらず。

 言っても伝わらない。最後の家族会議が決定打だったんだろな。兄たちから、理解されるどころか煙ったがられて。そのうちあいつの方で更生するまで放っとこう、たぶん、こんなくらい。

 何度も会いたいと思った。夢に見るたび死にてえとも。同じ熱量で忘れることを強いてきた。叶わない明りは忘れなくっちゃ絶望の広さを認識させるだけ。

 嫌われた。嫌われちゃった。

 声変わりしたちいくんの「つゆ」の一言でバカみたいな勘違いだったってすぐに気がついた。けど。

 いや。誤解をとくには遅すぎた。

 おんぶね。忘れちゃってたよ。そうしてきちゃったからさ。

 大切な大切な宝物。皮肉な話だ。フタを開いてみたら底が抜けてました。いつかの私が開けた穴。

 それでもどっかで期待しちゃったんだよね。案外今からでも昔の関係に戻れるんじゃねえの、とか、もしかしてちいくんもこの十年ずっと会いたがってくれてたんじゃなくて、とか。

 葬儀って時間かかるもんな。色々思い巡らせちゃった。

 んなわけあるかっつーの。そんなドラマはドラマの中だけ。現実は徹底的にいたぶられて奈落に落ちた人間と、そいつとは無関係に不自由なく地表を歩く私以外。生きるってことの感覚が違いすぎて決して交わることがない。

 温度差。わかってんだから夢も希望も抱くなって。

 伝わんねえんだよ、言ってもさ。

 ああ、でも、くそ。ちいくんの成長なにひとつ見せてもらえなかったなんて。悔しいよ。悔しすぎてさ。なんでいつも私だけ。

 成長を受け止めらんなくて、昔みたいな構い方もできなくなっちゃって、礼服姿のちいくんとは、会話もなんだかぎこちなくなっちゃった。

 十年。ちょっと長すぎたわな。

 ……忘れよう。

 寝ちまうか。喪服のまんまだけど。まあいいか。


 ●


 相変わらずの長い雨。ひどい雨。

 眠気ばっかり拭われない。

 あれからちいくんの夢ばっか見てる。

 なんなんだろね。

 ほんと、いつもそう。

 先の絶望を濃くするためにちょっとだけ希望になるように見せかけて色んなものを持たされる。私がその気になったの見計らって取り上げる。

 取り上げられたものを忘れるのに必死。

 ちいくん。ごめんだけど、勘弁してくれねっか。

 なんで別れ際にちょっとさみしそうな顔見せんのよ。

 わけねーじゃん、とはわかっちゃいるけど、よみがえってきちゃったじゃん、期待。

 またこれも忘れなきゃいかんのか。

 嫌なんだけどなー、忘れんの。忘れちゃうこともだけど、忘れるって行為自体もきつい。結構体力要るんだよね。ゴミ箱に放り投げるみたいにはすぐに消えてくんないし。

 何もなければ何もせずに済むことにアホみたいに体力を浪費する。こういうのなんてんだ。マッチポンプ? とは違うか。

 ちいくん。ううん。ちいくんを恨みたいわけじゃないんだけどさ。

 でも期待しちゃう。ちいくんの寂しそうな顔がそういうんじゃないことはわかってる。単なる一過性。

 ただ、誰にも助けてもらえなかった体験が、返って多くの大きな期待を生んじまう。やっぱマッチポンプだな。マッチとポンプで、途方もない温度差があるってこともわかってんだけどね。

 温度差。奈落の冷えっひえの温度。だからちょっとした熱にも過剰に反応しちゃう。ってのがこういう場に落ちた私なんだから、そういう態度は他の人にやってあげてくれ。ほんと勘違いすっから。

 勘違い。わかってる。わかってんだけど、どうしても。

 どうしても私は期待しちゃう。

 こんなことならちいくんなんて可愛がるんじゃなかった。私が何したってんだ。嬉しかったからさ。懐いてくれてたからさ。ただ喜ばせてあげたかっただけじゃんか。

 つゆー。だってさ。ああもう可愛いなほんと。可愛かったなほんと。ちいくん。抱きしめさせて。お願い。

 くそ。あほくさい。

 十年。交らなくて。そのあいだにちいくんは平凡で幸福な地表を歩いちゃって。

 もう埋めらんない。

 言っても伝わんない相手になっちゃった。

 取り上げないでよ私から。

 疲れた。

 私、一生こんなこと続けてくんか。

 疲れちったよ。

 この先もまた、ちいくんと擦れ合わなくて、十年、二十年、結婚して、子どもができて、どんどん歳取ってって、そういうのを端から、見せてももらえないまんま、想像だけ、事実だけ、聞かされて、いろんなことから切り離されてっちゃうこの感じ。

 もう取り返せない。今さら拭えた誤解になんの意味があったんだろ。もう取り戻せない。あのときのちいくんはどこにもいない。いまも目の前にいるように感じられるちいくん。もう、みんな進んでる。

 私だけ、この場所。

 枷から逃げ出せない。檻から抜け出せない。鍵が見つからない。

 ああ。やばい。またあの頃の感覚が戻ってきた。

 誰か助けてよ。

 どうにもなんねえわ。

 寝ちまお。

 うっとうしい雨。このまま眠り続けちゃえば楽なのに。

 ちいくん。

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つゆり 内谷 真天 @uh-yah-mah

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