泉の精霊は婚約破棄されるけどタイムリミットギリギリで真実の愛のキスをする
重原 水鳥
泉の精霊は婚約破棄されるけどタイムリミットギリギリで真実の愛のキスをする
ジェニーファ・デュクロス侯爵令嬢は、帝国の財務大臣の娘だ。美しい濡れ羽色の髪、黒曜石のような透き通る黒の瞳。
今の若い令嬢の中でも五本指に入る美しさを持つといわれる彼女は、帝国の第三王子の婚約者でもある。第三王子はジェニーファとは真逆に、美しい金の髪と翡翠の瞳を持つ美青年だ。帝国のトップである皇帝の孫の一人である高い位を持つ人物だ。帝国では皇帝の実子を「皇子」「皇女」と呼称し、彼らの子(つまり皇帝の実孫)を「王子」「王女」と呼称する少し変わった文化があるのだ。
ジェニーファは、焦っていた。
第三王子とジェニーファは、幼少期からの婚約者同士でありながら、実はあまり親しい間柄ではない。
引き合わされた時から第三王子に恋をしたジェニーファは幼い頃、毎日のように第三王子に会うために宮殿を訪れていた。けれど第三王子は幼い頃より女性の相手なんかするぐらいなら剣の練習をしたいと言って向こうから会いに来てくれたことは一度としてなく、ジェニーファが会いに行っても「邪魔だ」と明らかに訴える瞳で見返された。
ジェニーファは、焦っていた。
それでも長い間第三王子に好かれようとジェニーファは努力をしてきた。また第三王子も、成長と共に皇族として必要なことを学び始め、ジェニーファという婚約者に対しても紳士的な対応をするようになった。少し遅ればせながらも二人の関係は良い方向へと向かおうとしていた。
ジェニーファは、焦っていた。
けれど、折角再構築されようとしていた二人の関係は、貴族子弟だけが通うことが出来る学園に、一人の男爵令嬢が編入してきたことで、壊れてしまった。
ジェニーファは、焦っていた。
第三王子が彼女から離れそうだったから。
彼女が十七歳の誕生日を迎えてしまったから。
学園の卒業パーティが近付いていたから。
月が、三度巡ってしまうから。
■
■
帝国の伝説に、泉の乙女と呼ばれる精霊の物語がある。
その昔、荒れ果てた土地ばかりだった帝国の領土。
ある時、ある皇帝が領土にある僅かな緑の土地に踏み入った。その中心には一つの湧き水で出来た泉があり、その泉には泉の精霊が住んでいた。
水の化身でもあるその乙女に、皇帝は惚れた。
種族という壁を越え、幾多の試練を越え、二人は結ばれた。
そうして皇帝の血筋には乙女の血が混じり、後に《泉の精霊》と称される子供が生まれるようになった。彼らは人間でありながら、乙女が持っていた精霊の力を使うことが出来た。水を意のままに操り、水上を歩き、水を沸き立たせた。そうした《泉の精霊》たちの助力もあり、帝国の領土は次第に緑溢れる土地となり、豊かさは増して行った。
当時の皇帝の血は、長い年月とともに配下である貴族たちにも混じり、次第に《泉の精霊》が生まれる可能性のある範囲は広まった。けれど、およそ二十年というサイクル――泉の乙女が、皇帝と結ばれてから生きた年月と同じ時間――の中で、必ず一人は力を継いだ《泉の精霊》が生まれた。
けれど《泉の精霊》には、一つの問題があった。
《泉の精霊》がその力を完全に使えるようになるには、成人である十七歳を超えてから、三度月が巡るまでに、
キスをすることが出来た《泉の精霊》は真に精霊の力を得、その力の具現として髪も瞳も青色に変わる。
しかし。
もし、キスができなければ、その《泉の精霊》は本当の本当の精霊となってしまう。
■
ジェニーファに話を戻そう。
彼女は何を隠そう、今代の――ここでの今代とは、《泉の精霊》が生まれる二十年という時間のサイクルを指す――《泉の精霊》だった。
しかしこのことは、侯爵夫妻と皇帝だけが知っていることであり、そのほかの貴族皇族には、婚約者でもある第三王子にも秘されている。純粋に、《泉の精霊》であることが知れればそれを目的として近付く人間が多くなってしまうという理由と、過去に《泉の精霊》と婚約した皇子が、そのことを気にしすぎた結果純粋に愛せず、当時の《泉の精霊》が精霊に戻ってしまったことがあったからだ。打算から生まれる恋はあっても、打算だけでは愛にはなれないということだ。
よってジェニーファの真実は第三王子には秘密にされているのだが、結局のところ、その作戦も単純に上手くいくという訳ではない。
事実、二人の仲は進展するどころか、第三王子がアティカという名前の男爵令嬢に恋をしてしまったことを切欠に、急速に悪化していった。アティカは男爵の庶子であり、実母が亡くなったことにより男爵家に引き取られた元平民。幼い頃ならいざ知らず、彼女の実母が亡くなり引き取られたのは十六歳、たった一年前のことで、アティカは貴族としての心得を殆ど身につけないまま学園に編入した。そもそも編入自体も渋られたのだが、そこは父親である男爵が金を積んで半ば非合法に編入させたのだ。
アティカは貴族のルールを使う学園において、平民のルールで行動した。当然多数の軋轢が生まれ、煙たがったが、一方で貴族の子女では見られない型破りな行動に心引かれる子息たちも多数存在した。
その筆頭が、ジェニーファの婚約者である、第三王子だったのだ。第三王子を筆頭に有力子息の多くがアティカの周囲に群がった。まるで蜜に群がるアリのようだと、誰かが言った。嫉妬から出た言葉であっただろうがある種的を射た言葉だ。
貴族というものは、幼い頃或いは生まれた時には既に婚約者が決められていることが多い。つまりアティカに群がった男子生徒のほぼ全てが、婚約者がいたのだ。そんな男がアティカという女に群がれば、当然一定の正統性を持つ嫉妬を抱く女子生徒が出てくるのは当然のこと。そうした女子生徒を中心として、アティカは女子の中で孤立していった。
女は群れる生き物である。女という同族からはじき出されてしまったアティカはより一層周囲の男子生徒を頼るようになり、周囲の男子生徒たちはよりアティカに群がった。その悪循環の果てに、アティカはいじめられるようになった。貴族としては、全くもって恥ずかしいことだ。社交界の中でもこうしたいじめは実際存在するが、それでも表沙汰になるようなことはない。だがその辺りはまだ子供だったということか、学園内でのアティカへのいじめは公然の秘密のようになっていた。女子生徒の多くは見てみぬフリをして、アティカに群がらなかった男子生徒も触らぬ神に祟りなしとばかりに距離を置いた。
そしていじめを受けたアティカはどうするか。当然、周囲の男たちに相談する。男たちはいじめの原因は自分――或いは友の――婚約者であると知り、より一層婚約者から離れてアティカに群がる。最悪の一言につきる悪循環が現在の学園には広まっていき、既に多数の婚約が破棄されていた。貴族の結婚が愛ではなく打算や計算からくるものであるとしても、仮面夫婦が多く存在するとしても、スタートラインからマイナスではじめるのにはいささか無理がある、と判断した者も多かったのだ。令嬢の親族としても、たった一人の女子生徒にあっさりと誑かされるような(と、いう風に見られることが多かった)者よりも別の人物に嫁がせるほうが親心としても、打算的にも良いと考えたのだ。何より若ければ若いほど、まだ新しい婚約者を見つけることも容易い。
だがジェニーファは婚約を破棄する訳にはいかなかった。
ジェニーファが十七歳となったのは二ヶ月と少し前。もう、ジェニーファが人間でいられる期間は、あと六日。――そして、同じくジェニーファたち最高学年の卒業式が、六日後に迫っていた。くしくも卒業式が、ジェニーファのタイムリミットなのだ。
たった一瞬のものでも構わない。真実のキスが出来れば、たとえその相手と後に破局したとしても構わないということは、過去の《泉の精霊》の人生で発覚している。
だから、たった一瞬。キスの瞬間だけでも、ジェニーファのことを第三王子が思ってくれれば。
”愛”というのは定義が不確かな感情だ。恋愛でも親愛でも友愛でもなんでも、”愛”である。だから、その一瞬、第三王子がジェニーファを愛してくれれば、ジェニーファは正真正銘、人間となれる。
そんなこと、無理だと、ジェニーファも流石に諦めはじめている。初恋が叶わないというのは本当だったのだなと何処か他人事のように思った。けれども人見知りなところがあったジェニーファに、他に親しくしている男子生徒など居らず、今から新しい婚約者を求めるのは厳しかったから、マイナスまで突き抜けたぐらいの可能性しかない相手に、掛けるしかなかったのに。
残り六日と迫った、今日。
第三王子の取り巻きである人物――彼もそこそこアティカに熱を上げている――が婚約者な友人伝に、
(もう、無理だわ)
ジェニーファは素直に、家に帰り、荷物の整理をしようと思った。精霊となった《泉の精霊》は、人の輪から完全にはずれてしまう。泉のある場でしか生きれなくなり、体は水と同化して人の姿を保つことも厳しくなる。《泉の精霊》が精霊となるのは、すなわち人としての死でもあるとジェニーファは思っている。
(お父様とお母様にお礼をしないと、今まで育ててくれた恩返しを。執事やメイドたちにも言葉を伝えなければ。多くの人にお世話になったわ。どうせ《泉の精霊》になってしまうのならば、その前に。……お兄様、嗚呼、今からお伝えしても、都には戻ってこれないわね。なら、お兄様には手紙を綴りましょう。荷物は処分をしてしまえば、少しはお金になる。ただでさえ迷惑をかけてしまうのだから、それぐらい…………嗚呼でも、もしお母様が残してほしいと望むのならば、残してもいいかもしれない。遺品代わりぐらいにはなるのかしら。それから――)
重苦しい表情で歩いていたジェニーファは、前をあまり見ていなかった。だから、目の前に立った一人の男子生徒に気付いたのは、すぐ近くまで迫ってのことだった。すぐ眼前に、見知らぬ男性の胸板があることに若干顔色を曇らせながら、数歩下がり、慌てて頭を軽く下げて謝罪をする。
数歩下がったところで見えた相手の顔には見覚えがないので、下の学年の生徒だろう。茶色の髪は短く切りそろえられていて、形の良い眉の下には綺麗なエメラルドグリーンの瞳がある。
学園には十歳から十七歳までの貴族子弟が通っており、十歳から十三歳までは中等部。十四歳から十七歳までが高等部に通う。校舎は別の建物で、間にある食堂で繋がっている。
最高学年であるジェニーファは、当然高等部の生徒だ。中等部の生徒が高等部にいることもたまにはあるが、制服も異なるためにとても目立つ。学園には一定の規律を保つために指定の制服があるのだ。
目の前のどこかの子息はその中等部の制服は着ていないので、高等部の生徒だ。少々幼く見えるが、男性は女性に比べて体の成長が遅めだといわれているので、今から成長するのだろう。
「っ、申し訳ございません。少し考え事を――」
「ジェッ、ジェニーファ・デュクロス様!」
突然名を呼ばれ、ジェニーファは困惑した。ジェニーファは第三王子の婚約者なので、そこそこ有名だ。名を知られているのは分かる。けれどわざわざフルネームで呼ばれる理由も浮かばず、ジェニーファは相手を見た。
僅かに震えている少年は、背中に隠すようにしていた手を前に差し出した。その手には一輪の花が握られている。枯れぬよう、加工がほどこされたドライフラワーの、赤いチューリップだった。その意図するところが分からぬほどジェニーファは馬鹿ではない。
帝国では、告白の時に相手にドライフラワーを贈るのが習慣付いている。
そして、赤いチューリップの花言葉は、「愛の告白」。
「お、お慕いしております。どっ、どうか、私と、ジェラルド・バレンティンと結婚してくれませんか!!」
「…………えっ」
■
このあまりに唐突な、そして常識的に考えればあまりに無謀な一人の少年の告白は、三つの要因によって、ジェニーファの両親の元まで即座に通ることとなった。
まず、ジェニーファには残された時間があまりに無かったこと。
次に、本来であれば婚約者がいる相手に告白するという無謀さは、よりジェニーファへの思いが真剣であると受け取られたこと。
そして最後に、ジェニーファの婚約者である第三王子が、既に婚約破棄を本格的に進めていることを、ジェニーファの両親である侯爵夫妻も知っていたこと。
この廊下での出来事がもし二人きりのことであれば、そうはならなかっただろう。ジェニーファが、第三王子という婚約者がいるために断るからだ。だが第三王子の婚約者であったジェニーファには常時皇族の警護を担う騎士(性別を考慮し、学園内では女騎士が、学外では男の騎士が着く。このときは学園内であったため、女騎士だった)が付いており、侯爵家からも馴染みの侍女が常日頃付き従っていた。その場に居合わせた二人は、流石の出来事に混乱するジェニーファを説得し、同時にジェラルドに「それは本気か」と詰め寄り、彼が「本気です! あ、あっ、あ、愛しております!」と顔を真っ赤に染め上げながらも答えたことによってすぐさま侯爵夫妻にまで話が通るという尋常ではない速度で話が進むことを実現した。
勿論この話は即座に護衛から皇帝にも行っているが、この時点で皇帝の下には同時に第三王子の企みについても話が通っており、皇帝からは「ジェニーファ及び侯爵家の意思を尊重する」という、つまりは第三王子との婚約関係は無視してもいいよ、というお墨付きを貰っている。
ジェラルドと、彼の行動で侯爵邸に突如呼び出された彼の両親はおどおどと怯える様子を見せていた。正確には、ジェラルドとその父親の二人が、だ。
バレンティン家は子爵だった。
出世欲の特にない少年の父親は、万年子爵男爵仲間とつるみながら真面目に公務を執り行ってきた普通の男性であり、上の階級である侯爵家になどえんもゆかりもなかったのだ。それが突然、「息子さんのことでお話があります」などと呼び立てられては、震えるのも仕方が無いだろう。一方で、母親はいたって冷静だった。それは肝が据わっているから、というよりも、彼女の出自によるものだった。
ジェラルドの父親は極普通の子爵だったが、ただ一点――妻の事――において普通ではなかった。彼の妻は、隣の王国の公爵の娘なのだ。その昔、帝国の学園に留学しにきていた公爵の娘は、若き子爵に一目ぼれをし、猛アタックと家族を説得した上で、帝国に嫁いできた。そんな出自を持つため、唯一母親だけが堂々としていたのだ。
そんな子爵夫妻に、侯爵夫妻はジェラルドの行動を伝えた。子爵は目を見開いて――当然この夫婦も、ジェニーファと第三王子の婚約関係は知っていた――息子を凝視した。一方で夫人は酷く冷静に、何故自分たちがここに呼ばれたのかを問うた。本来であれば、この流れはマイルドに言って叱られる場面だろうが、そんな雰囲気は感じられなかったためだ。
少しの会話であっても、子爵夫妻がまっすぐで誠実な人柄であると理解した侯爵夫妻は「これは他言無用でお願いします」と前置きをしてから、隣で困ったように座り込んでいるジェニーファの秘密を打ち明けた。
「我が娘、ジェニーファは今代の《泉の精霊》なのです。皆様方も知ってのとおり、《泉の精霊》は、十七歳を迎えて三度月が巡るまでに真実の愛のキスをしなければ、人ではなくなり、本物の精霊となってしまいます。……ですが、ご子息はよくご存知かもしれませんが、ジェニーファと第三王子は、恐れ多くも、はっきりと申し上げて不仲でありまして。……このままでは、娘は人ではなくなってしまうのです。そのタイムリミットは――卒業式の日でして、もう、時間が無いのです」
「そ、卒業式!? あと六日しか無いではないですか!」
ジェラルドが心底驚いたように声を上げた。彼はわかりやすく、ジェニーファが《泉の精霊》である、というくだりで酷く驚き、第三王子の名に少し落ち込み、ジェニーファと第三王子が不仲であるところでしっかりと頷いた。ある種合いの手を入れる人間としてはとても優秀だった。貴族としては少々不安が残るが、だが素直であるからこそ、ジェニーファに向けられる瞳に篭った感情は、真実であると伝わった。
「我々も、ジェニーファ自身も、娘が精霊になってしまうことは望んではいません。……そこで、提案があるのです。第三王子は現在、卒業式の場においてジェニーファに婚約を破棄する旨を伝える心積もりでいるようです。そして、二代前の《泉の精霊》の方の話では、おそらくジェニーファが精霊となってしまうのは卒業式の最中……丁度、正午だろう、という話なのです。正午であれば、おそらく式典は終わり、生徒たちによって立食会が庭園で行われている最中だと考えられます。そしておそらく、第三王子が破棄を伝えようと考えているのは、この立食会中であると予想がされています。……その時までに婚約が破棄されたなら、どうかジェラルド、君には、ジェニーファにキスをしてほしい」
「ほえっ!?」
顔を真っ赤にし、「き、き、ききききす!?」とうろたえるジェラルドは、嫌なのではないのだろうということが一目で分かる。その様子に、ずっと体を強張らせていたジェニーファも僅かに微笑みを浮かべた。
三度月が巡ったら、というが、具体的にどの時間であるのか、人間には分からない。一日は長く、そのどの時間帯でタイムリミットなのかによって状況は大きく変わるだろう。朝と夜でも、朝と昼でも、状況が変わる。具体的にいつなのか――何日の何時なのか――ジェニーファ自身は分からず、他の《泉の精霊》にしか分からないのだ。
一つ前の代の《泉の精霊》は精霊になってしまっており、その更に前の代の《泉の精霊》――現在は教会にて日々活動を行っている人物――をわざわざおよび立てして、
ジェラルドの両親である子爵夫妻が到着するまで、ジェラルドには現在一同が集まっている応接間で待ってもらい、ジェニーファは両親と話をしていた。そして両親から、今回の考えを提案されたのだ。
「はっきり言って、第三王子に期待はもう出来ない。だが私たちはお前に精霊にはなって欲しくないのだ。――
「…………分かりました」
ジェニーファは、静かに父親のアイデアを肯定した。裏切られても尚、心の中には第三王子への恋情がある。けれどもジェニーファ自身も死にたくなどなかったし、両親がそれを強く強く望んでいるのも分かった。
ただ、第三王子の婚約者であるという立場の関係上、破棄の前に口付けを交わすのには抵抗があったので、破棄をされた後ならば、出来る……かも知れない、と告げた。両親は未だに第三王子に未練を残すような発言をする娘を難しい顔で見つつも、自分達が立てた計画を拒絶された訳ではなかったので、見過ごすことにした。
突然の提案に、ジェラルドはうろたえたし、彼の両親も困惑した様子を見せた。確かに《泉の精霊》という事情、そして第三王子との不仲。理解は出来るだろうが、立食会の最中となれば、多くの人目に付く場所で、となる可能性が高い。それでも良いのですか、という子爵夫人からの問いに侯爵夫妻は揃って静かに首を縦に振った。
ジェラルドは、窺うような視線をジェニーファに向けた。目が合った時、ふと、嗚呼、彼なら大丈夫かもしれないという、根拠のない思いが浮かぶ。唇を震わせながら
「よ、良いのですか、わ、私があいてで」
「……わたくしに、婚約者のいるわたくしに、愛を告げたのは、貴方ではありませんか」
膝の上でずっと持っていたジェラルドから差し出された赤いチューリップの花を持つと、ジェラルドは赤くないところがないのではないかというほどに顔を染めた。唇を震わせ、そして意を決したように侯爵夫妻を――ジェニーファの両親を見つめる。
「分かりましたっ。ジェ、ジェニーファ様のおおお御身に
「…………はい」
噛みまくるジェラルドに、ジェニーファはここ数日では久しく見せなかった笑顔を浮かべ、小さく笑い声を立てた。
■
残り五日。
第三王子とは会いもしない。勿論婚約者同士といえどベタベタと四六時中居る訳ではないが、何も今日に限った話ではなく、ジェニーファが最後に彼を見かけたのはもう一週間も前のことだった。
少ない日数ながら、ジェニーファとジェラルドは親交を深めるために、学校が終わるや否や、すぐに家へと帰り、侯爵家の庭でくつろぐ。場が侯爵家であることもあり(護衛などの観点から、また周囲に話が漏れる可能性などからも、子爵家で過ごす訳には行かなかった)緊張が中々解けない様子のジェラルドだったが、それでもチラチラと向けられる瞳は羨望と愛情が伝わってくるもので、ジェニーファも嫌な気はしない。
ただ二人でお茶を飲んで、ジェラルドは帰っていった。
■
残り四日。
第三王子とは相も変わらず会いもしない。
会話らしい会話が出来なかった前日の反省からか、ジェラルドは隣国から嫁いできた母親から聞いたという様々な話をジェニーファに話して聞かせた。度々どもったり詰まったりするものの、聞いたこともない多くの話に、ジェニーファも前のめりになって話を聞き、終わる頃には二人の距離はぐっと縮まっていた。
■
残り三日。
第三王子が食堂で、アティカを抱き寄せていた。久方ぶりに見かけた婚約者の姿がこれとは運が悪いとしか言いようがない。抱き寄せたとはいえ、周囲の子息たちがすぐさま(恐らく嫉妬心から)引き離したので二人の体が重なっていたのはほんの一瞬だったが。
ジェニーファはその光景を見ながら友人たちと食事を取った。心配げだったり、反応しないジェニーファに不満げな友人たち。彼女達の中には既に婚約破棄をしている者もいれば、婚約破棄をしようとしている者、愛人だろうがなんだろうが好きなだけ作ればいいんじゃないと仮面夫婦になるつもり満々の者など様々だ。友人達に向かって静かに首を横に振り大丈夫だと訴えた所で、離れた場所に座っているジェラルドと目が合う。その瞬間、キラキラとエメラルドグリーンが輝くのを見てしまい、以前屋敷にいた番犬を思い出す。普段はキリッとした顔つきをしているのに、なついている使用人が来ると親愛に目を輝かせ、飛びついていく犬がいたのだ。なんだかその犬を思い出して笑いかけたところをすんでで止める。ジェラルドの顔を見ていると、なんだか第三王子の行動で僅かにきしんでいた心に温かいものが染み渡ったような気がした。
■
残り二日。
ジェニーファは廊下で偶然、アティカと出会った。といってもアティカは普段のように周囲に男子生徒を侍らせ――偶然か、第三王子はいなかった――、ジェニーファは他の友人達と一緒になって行動していた。女子生徒の姿に周囲の男子生徒がまるで敵を見るような顔になって、アティカとジェニーファたちの間の壁となったので、近くを通ったわけではない。一瞬だけ目が合ったものの、特に会話もせずにすれ違って終わった。友人たちはすれ違い終わった途端アティカの悪口を言い始めたが、ジェニーファは最早彼女の名前を出すのすら辛かった。
その日の午後にはこれまた偶然にも、廊下でジェラルドと会った。ジェラルドの近くには友人と思われる子息が一人と令嬢が一人いた。二人の仲を下手に探られないよう学園内ではあまり会わないように言われていたので、あのプロポーズ以来初のことだった。ジェラルドは見るからに緊張していたが、二人は当たり障りなくすれ違った。
放課後となり、侯爵家にやってきたジェラルドはどこか落ち込んだ様子のジェニーファを右往左往してなんとか励まそうと躍起になっていた。けれどジェニーファの心は落ち込んだままだった。
■
残り一日。
明日の卒業式のため、学園は大騒ぎだ。勿論ここ数日も忙しくはあったが。
学年の主席として挨拶を勤めるのは皇族である第三王子……ではなく、彼の従姉の第四王女だ。従姉弟同士である第四王女と第三王子は、生まれたのが数ヶ月差だったことから同じ学年だった。親も第四王女の方が上である上に、第四王女は第三王子よりも優秀だったので、必然的に第四王女が主席として話すことは確定していた。このことは何年も前から決まっていたことで、そのことを第三王子は時折愚痴をこぼしていたことをジェニーファは思い出した。
学校では第三王子にもアティカにも会うことはなく、侯爵家に戻ると、既に訪れていたジェラルドが転寝をしていた。下級生も卒業式に合わせて色々と仕事があるようだ。
緩みきった顔で寝ているジェラルドの顔を暫し眺める。なんだか自然と口元が緩む。けれど同時に明日が、場合によっては最期かもしれない日であると思うと体が重くなった。
一人で考え事をしたい気分でもあり、ジェラルドのことは起こさずに沈黙の時間を過ごした。結果的にジェラルドがおきたのは普段彼が家に帰る少し前の時間で、それに気付いたジェラルドは飛び起きると何度も頭を下げながら謝罪をした。
「どうか気にしないで」
努めてやさしい声色でジェニーファはそう告げる。そして明日の話をした。ジェラルドはキスを想像したのか頬を染めながらも「が、頑張ります」と拳を作りながら言った。それに少し落ち込んだ声でジェニーファは「ええ、そうね」と答えた。
明日が、ジェニーファの運命の日だ。
■
当日。
式典は滞りなく終わった。
もし主席として学年代表を務めるのが第四王女ではなく第三王子であったなら、そのタイミングで破棄をされていたかもしれないという両親の言葉を思い出す。これほど注目の集まる場で行われたら、どうなっていたのだろう。
式典が終わり、卒業生在校生を交え、生徒たちは庭園へと移動する。庭園には伝説になぞらえて泉が一つあり、その周りは立食会の会場となっていた。立食会は庭園全体と、それから庭園に面している食堂内部でも行われている。食堂は二階建てだ。
ジェニーファはその日、朝、侍従越しに第三王子から呼び出されていた。場所は食堂二階のバルコニー。バルコニーの端は五段ほどの下りの段差がある。また真下は泉となっており、バルコニーに立つと美しい景色が一望できる。
呼び出されていることを、ジェラルドには伝えたものの、場所を指示されたのは今日の朝で彼に伝える時間が無かったのが心残りだ。
ジェニーファはバルコニーに立ち、ぼんやりと泉を見下ろした。美しい湖に、どこか惹かれるのは自分が《泉の精霊》だからだろうか。
(――時間が迫っているわ)
泉の傍にいるからか。耳の奥で、水が跳ねる音が聞こえている。ぽちゃんぽちゃんという音がするのだ。式典の最中も、どこか遠くから聞こえていたそれが次第に大きくなっている。
なんとなく、ジェニーファはそれが終わりを告げる鐘の音のようにも聞こえた。
「第三王子だ」
バルコニーには他にも多くの生徒がいる。他の生徒の囁きで第三王子が来たことを知り、ジェニーファは振り返った。六、七人ほどの歩く音が聞こえる。
第三王子が、アティカと友人を引き連れて、立っていた。周囲の生徒たちは道を開けて、遠巻きにジェニーファたちを見ている。一体何が始まるのか、という顔だった。
久方ぶりに第三王子と向き合った。その顔は眉間に皺をよせ、どこか重苦しいものだった。そういえば、ちゃんと彼の微笑んだ笑顔などを見たことがあっただろうかとジェニーファは思案する。――思い出せないと思った所で、自分はダメだったと感じた。好きな人が自分に向けた笑顔一つ、思い出せないなんて。
耳の奥では、ぽちゃんとまた水音がした。
「ジェニーファ・デュクロス侯爵令嬢」
「……はい、なんでしょうか殿下」
名など、もう随分と呼ばれていないなと思いながら返事をしただけなのに、第三王子の顔がゆがめられる。何故そのような顔をされるのか分からず、ジェニーファは腹の辺りで重ねた手を僅かに握り締めた。第三王子の斜め後ろ、守られる位置にはアティカが立っている。その瞳に宿っている色は、一体なんなのだろう。期待だろうか。喜びだろうか。不安だろうか。申し訳なさだろうか。彼女へと意識を向けたのはそれが最後だった。
またぽちゃんと音がする。
「我は、今このときを以て、貴様との婚約を、破棄する!」
ぽちゃん。ぽちゃん。と耳元で音がする。
反応のないジェニーファに第三王子は鼻を鳴らして問うた。
「何故だか分かるか?」
「……いえ、分かりません」
「ハッ、本当に分厚い面だな。お前が他の令嬢とともに、アティカに対して虐めをしていたことぐらい、知っている!」
ぽちゃんと音がする。
ジェニーファは小首を傾げた。第三王子の発言が、よく分からなかったからだ。
確かに、ジェニーファの周囲の令嬢でアティカへの虐めに加担している人間はいる。だが、特に親しい令嬢たちはむしろ婚約者の方に対して失望をしたりしていて、アティカへの虐めには至っていなかった。ジェニーファ自身も、アティカとは殆ど関わったことがなく、覚えが無い。
なので第三王子の発言を理解出来なかったのだが、そんなジェニーファの反応に第三王子は目元を吊り上げた。怖いといつも思う顔だ。
ぽちゃんと音がする。
「貴様ッ! この期に及んで……!」
「……殿下、わたくしは、そちらの令嬢への虐めなど――」
「黙れッ! 今まで散々アティカを虐めていた者の言葉など耳にしたくもないッ! たとえ貴様が直接手を下していないとしても、周囲で見ていたのだろう!」
「……」
否定は出来なかった。確かにアティカが仲間はずれにされ、虐めに合っているのを目撃したことなど何度もある。けれどそれを助けようなどと、したことは無かった。
アティカへの虐めが始まった時には既に第三王子が彼女の元へ通っていて、それに嫉妬していたのは事実だ。どうして彼女に、と思ったことは一度や二度ではない。
「この俺の婚約者でもある貴様が動けば、あの程度の虐めすぐに収まったであろう! それを貴様は……!」
(確かに、殿下の言うとおり)
ぽちゃん。
ジェニーファの学年で男子生徒で最も身分が高いのは、第三王子だ。一方女性で最も身分が高いのは第四王女だが、次いで高いのは侯爵家の令嬢であり第三王子の婚約者であるジェニーファだろう。
第四王女はアティカへの虐めに関しては関わろうとしなかった。第三王子も何度か虐めを止めるよう訴えかけていたようだが、騒ぎの原因はアティカにあるのだから彼女をどうにかすればいいだろう、とすげなく断られたらしい。元々仲が良いわけでもないので、男としてのプライドも合わさり第三王子はそれ以上頼めなかったのだろう。
……そもそも始まりはアティカが貴族社会の礼儀を理解せずに行動したことにあり、それを助けるにしても男性陣の動きは良くないものだった。でなければ今、この学園の中の多くの婚約が解消されているようなことにはならなかったはずだ。
けれども。
(でも)
どうして間違ったことをした人間を庇わねばならないのだろう。
自分勝手な言い分だとしても。自分のことしか考えていないとしても。醜いといわれても。ジェニーファにとって第三王子は初恋の人で、世間にも認められた婚約者だったのだ。それを横からかすめとるような行為など、貴族でなかろうと、平民であろうと憎まれる行為のはずだ。そんなことをしたアティカを、彼女は最後まで貴族社会の礼儀を守らずに来たというのに、何故庇わなければならないのだろう。
黙り込んだジェニーファが、図星をつかれて返事を返せないでいると思ったらしい第三王子はふん、と鼻を鳴らして。胸を張った。
「まあ良い。貴様は今、このときを以て、俺の婚約者ではなくなった。良いな?」
「……承知、いたしました」
ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。音の速度が加速する。
静かに頭を下げる。相手は皇族、ジェニーファは貴族。どちらが上など最初からハッキリしていることだ。どちらに非があるにせよ、この場でそれを明らかにすることなど出来ない。
ジェニーファが頭を上げた時には、第三王子はその顔を笑顔に変えていた。けれど勿論笑顔が向けられる相手はジェニーファではない。
「やっとだ。やっと婚約が破棄できた……清々する、なあそうだろう? アティカ」
第三王子に抱き寄せられたアティカが、頬を染め、困ったような顔をする。まるで幸せな恋人同士のようだった。
(――もう、いいかな)
今まで遠まわしに拒絶され続けてはいた。けれど直接拒絶されて、ジェニーファは、もうここで終わっても良いかもしれないとおもった。なんか凄く、疲れたのだ。目元が熱くなって、人目も憚らずに泣きたくなる。
好きだったのだ。
初恋だったのだ。
初恋は実らなかった。……もう、それで終わっても。
ぽちゃん。
「ジェニーファ・デュクロス様!!!!!!!」
■
「何してるの、ジェラルド」
ジェラルドの友人であるメアリーヌは、やけにそわそわとしている友人を見上げた。彼の視線はずっとバルコニー――丁度、遠目ではあるもののバルコニーでは第三王子がなにやら騒ぎを起こしており、視線自体は周囲も向けている――に注がれている。
声を掛けられたジェラルドは、メアリーヌとその横に立つチヘブに凄い形相で振り返った。幼い頃から彼を知っているメアリーヌとチヘブも、滅多に見ない、本気で焦っている表情だった。
「今!! 何時!!」
「えっと、もう正午になるかな」
「正午!!!」
大声、ではないものの絶叫したジェラルドに、二人は顔を合わせて首をかしげる。周囲の生徒もなんだ五月蝿いな、とばかりに視線をジェラルドにやっていた。一体どうしたというのだ、と困惑し、問いかけようとしたその時。
ジェラルドは泉のすぐ横に立つと息を吸い込み、そして天まで届くような大声を上げた。
「ジェニーファ・デュクロス様!!!!!!!」
■
その声が聞こえた瞬間、ジェニーファは走っていた。数段ある階段を駆け下り、否、最初の段からそのままバルコニーの手すりに飛び移る。火事場の馬鹿力というものだったと後に本人が語るその大ジャンプは周囲の人間の度肝を抜いた。大人しい侯爵令嬢がそんなことをすれば驚くのも当然だろう。バルコニーの手すりに飛び移ったジェニーファは、躊躇うこともなく、そのまま勢いよく泉に向かって飛び降りた。
悲鳴と思われる声が多数聞こえる。背後からも、第三王子らが「ジェニーファ!?」「デュクロス様!?」と困惑した声を上げている。自殺、に見えるだろう。だが違うと、ジェニーファと――ジェラルドだけが、分かっていた。
何故だろう、その瞬間、ただのぽちゃんという水音がカウントを刻む声に変わったような気がした。
残り三十秒。
卒業式用に豪華に装飾されている制服のスカートの裾がはためく。青く美しい湖の湖面、太陽の光を反射して煌めく湖面に向かって、ジェニーファの身体は落ちていく。世界中の全ての時がゆっくりとなったかのような感覚。
残り二十五秒。
ジェニーファの足先が、湖面を踏みしめる。体重が水面にかかり、波紋が広がる。コンマ数秒置いて広がっていった声は、今度は悲鳴では無かった。
残り二十秒。
ジェニーファは駆け出した。彼女の望みに従い、湖面が波立つ。普通に走れば間に合わないだろう。けれど波によって加速した今なら、届くかもしれない。ジェニーファの駆ける真っ直ぐ先にジェラルドが立っている。
残り十五秒。
「ジェニーファ様!」
ジェラルドが湖に向かって走り出した。《泉の精霊》ではない彼は当然水の上を走ることなど出来ない。足が、膝が、水に浸かっていく。
残り十秒。
ジェニーファも走る。腕を振り、邪魔なスカートの裾が一部翻ることも気にせずに、ただ一心不乱に。
残り五秒。
ジェラルドは既に胸元まで水に浸かっていた。また一歩進みながらも顔を上げ。
残り一秒。
ジェニーファはしゃがんだ。そしてそのまま、
■
触れた唇は焼けるように熱かった。ゆっくりとその熱が離れていき、どちらからともなく目を開ける。一切の音の無い世界の中で、あっ、と先に声を上げたのはジェラルドだった。
「ジェニーファ様、髪がっ、目がっ!」
ジェラルドの訴えの通り、走って乱れた髪が一房落ちると、ジェニーファ本人にも真っ青な色に変わった自分の髪が見えた。瞳も同じく青色に変わっているだろう。
ジェラルドの発言に反応しようと思ったが、全力で走った結果、切れた息に、頭まで上ってきた血に、ジェニーファはただ肩を上下させた。そもそも侯爵令嬢が全力で走るなどということをするだろうか? する訳はない。ふらりと傾いた上体を、胸元まで浸かっているにも関わらずジェラルドが腕を差し出して支える。
そこで、音が帰ってきた。遠のいていた周囲の声が一気に押し寄せてくる。
「《泉の精霊》だ」「キスだわ!」「あれは誰だ?」「真実の愛」「王子は」「ジェニーファ様が今代の方だったなんて」「水を歩いたぞ」「まるで劇のよう」「素敵だわ」「焦っていたな」「タイムリミットは今日だったのか?」「ジェニーファ様の誕生日から確かに今日で月が三回巡るぞ」「なんでそんなこと分かるんだ」「髪の毛が」「瞳も」「色が変わられてもお美しい」「王子とはどうなるんだ」「二心か?」「浮気?」「たった今婚約は破棄したじゃないか」「王子は今日がタイムリミットだと知っていたのか?」「知っていたなら酷すぎるわ」「何がどうなってるんだ!」「王子に心はないのか」「ジェニーファ様の相手は誰なの?」「二代続けて精霊に返ることにはならなかったのか」「聞きました? あの男の方、あれほど大きな声で」「愛の証ね!」「ジェニーファ様が飛び降りた所天使だった」「これは一大スクープだ!」
「ジェニーファ様、大丈夫ですか。飛び降りられて、足を痛めたりなどは」
酷く周囲の音は五月蝿いのに、ジェラルドの声はくっきりと聞こえる。ジェニーファは首を横に振った。それから、やっと息を整えるとジェラルドの顔を見た。ジェラルドは顔も髪も頬も濡れていた。顔はジェニーファと同じように紅潮していたが、ジェニーファほどは息切れも起こしていない。
差し出されたジェラルドの手に自らの手を重ねる。その瞬間、身体の中で力が動いたのがジェニーファには分かった。
「わっ!」
という声を上げ、ジェラルドの身体はまるで水中から押し出されるように浮上した。バランスを少し崩しながらも転ばなかったジェラルドは、湖面に立っていた。重ねられた掌は離れていない。突然のことに、再び周囲も騒ぎ出す。
目をまぁるくして、数度瞬きをしたジェラルドはジェニーファを見下ろす。
「…………ジェニーファ様の、力ですか?」
「どうやら……、そのようです」
ジェニーファはゆっくりと立ち上がった。ジェラルドを見上げると、エメラルドグリーンの中でジェニーファの青が融けていた。
何を言うでもなく、暫し二人は見つめ合っていたが、岸際に立っていたメアリーヌとチヘブの「戻ってきなさーい!」という声に我に返り、手を重ねたまま岸へと歩いていった。
■
皇帝の住まう城。その巨大な謁見の場にて、三人の臣下が深々と頭を下げていた。一人はデュクロス侯爵。もう一人はデュクロス侯爵夫人。そして最後の一人は、かつてこの国で最も美しいと呼ばれた黒髪と、黒曜石だ黒真珠だと謳われた瞳を、どちらも真っ青に染めた
「面を上げよ」
重厚な響きを持つ皇帝の言葉に、三人は顔を上げた。正面には皇帝。その横には皇后。そして二人の左右には、この国の皇族が皆揃っていた。
「すまぬな、デュクロス侯爵、夫人、そしてジェニーファ。皆、《泉の精霊》が見たいと言うのでな」
「いいえ、構いませぬとも」
《泉の精霊》本人であるジェニーファの代わりに、父である侯爵が返事をした。
ジェニーファは静かに皇帝を見上げる。その左右には、ほんの少し前までは同級生でもあった第四王女、そして婚約者でもあった第三王子も居るが、皇帝という誰よりも貴い貴人を前にして、余所見など出来るはずもなかった。
「懐かしいな、ジェニーファ。最後に直接おぬしの顔を見たのは、
「――はい。息災でございます、皇帝陛下」
静かにジェニーファが返事をすると、満足したように皇帝が頷く。それから視線は侯爵へと移った。
「して。その後、どうなったのだ。バレンティン子爵の息子と結婚をするのか?」
ぴくり、と視界の端で第三王子が動いたように見えたが、ジェニーファは静かに皇帝を見続けた。
「いえ、そこまではまだ話は進んではいません」
「
「たしかにかの子息は、我が娘を真に愛しておりました。けれど、結婚という結論に至るのはまだ早いかと存じます。幸いにも子爵とも話が付きまして、暫しの間は婚約という形で、仲を深めさせるということになりました」
「成る程。……まあ、良いのだ。ジェニーファがどの者と結婚するのかなど、些細ごとよ」
皇帝の瞳がジェニーファを捉えた。ジェニーファは僅かに喉を上下させる。巨大な帝国を支配する男に、見抜かれている。
「ジェニーファ・デュクロス。余が気にするところは唯一つ。お主はその身、その力、我が帝国へと捧げるか」
「勿論でございます。……この身、この力。我らが帝国の発展のために使ってこそと存じます」
ハッキリと返答したジェニーファに満足したように皇帝は僅かに目尻に皺を寄せ、三人の臣下を下がらせた。
■
窓際でチューリップの花が揺れている。
学園を卒業し、晴れて大人となったジェニーファに出来るのはいつかどこかの貴族に嫁いだ後に、女主人として仕事が出来るよう母より直接仕事を習うことと、《泉の精霊》であることが他の貴族たちに露見した後に山のように届く社交界の誘いに乗ることなどだ。これでも随分と大変なことで、ずっと走り回るようなものである。
けれども必ず、毎日午後の時間だけは空けておく。
午後になるとジェニーファは静かに応接間にて度々お菓子を摘みながら待ち人が来るのをただ待っている。待ち人もここ数ヶ月で一気に有名人になってしまい、学園でもしょっちゅう見知らぬ者に捕まるのだと愚痴をこぼしていた。今日も捕まっているのか、中々やってこない待ち人を待っていると、やっとのことで到着の連絡がジェニーファの元へと届く。
扉がノックされ、使用人の声が待ち人の名を告げる。開かれたドアの向こうから、現れたエメラルドグリーンが、喜色ばんで細められた。
「お待たせいたしました!」
「お待ちしましたわ、ジェラルド様」
泉の精霊は婚約破棄されるけどタイムリミットギリギリで真実の愛のキスをする 重原 水鳥 @omohara_midori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます