世界は色素と芸術から成っていた。どろどろと混ざりながらも、それぞれが核を失わないイデアの金魚鉢。
杉浦ささみ
再開
「私ね、神になるんだ」と言い残し、近所のお姉さんは消息を絶った。あれから25年、まさか再び相まみえるとは夢にも思わず、私は職場でアフリカゾウのように大きく叫んでしまった。「ね、言ったでしょ」
お姉さんは昔と変わらない姿で、診察室の椅子に腰をかけ、精神科医である私を柔らかい眼差しで見つめていた。
あの頃と同じ水色のカーディガンは色落ちしたり破れたりするどころか、まったく新しい柔軟剤の香りを漂わせていた。
丁寧にアイロンがけして、ほこりのないクローゼットに吊るしておく。きっと、そんな生活を今でも続けているのだろう。
濃褐色のロングヘアーは、まるで
自然な目元、やや奥手な鼻筋、気取らない眉。美形でありながら素朴さを兼ね備えたお姉さんは、下町でみんなに愛されていた。
商店街のおじさんやおばさん、公園で遊んだ子どもたち、通学路を行き来するネコたちすらも彼女を拠り所にしていた。
思い出と変わらない仕草が水晶体に動き、それが私の心を打った。懐かしかったのだ。
「久しぶり……ですね」と私。
お姉さんの姿は変わっていなかったが、私の体は老けていた。だからどう接するべきか迷った。
書類の散乱したデスクから、覚束ない動作でペンを掴み、カルテを手元にやる。それらは床に滑り落ちてしまった。気が急いていたのだ。
拾おうとすると、ペンとカルテが宙に浮いた。まさかと思い顔を上げる。お姉さんは道具を指さし、屈託のない笑顔で、私の手元にそれを返した。テレキネシス(超能力の一種)が使えるのだろう。
「ありがとうございます」
「いいよ」相変わらずの安らかな声でお姉さんは言う。「それよりね、今日は君に話したいことがたくさんあって来たんだ」
そういえば、私は電話越しに予約する彼女を、当時のお姉さんと同定できなかった。
お姉さんの声は、たしかに覚えている。しかし、予約をする彼女の声は、大して心を揺さぶらなかった。まあ、機械越しの声は純粋ではない。郷愁を伴わずとも無理はないのだ。
上の名前も下の名前も、かなりありふれていて、そういえば同じ姓名のお姉さんがいたな、とわずかに思い出すだけだった。衣服についたオナモミのような、些細な心当たりだ。
「ところで話し合いとは」
私がペットボトルの水に口を付けると、お姉さんは私に人差し指を向けた。すると私は当時の姿に戻っていた。泣き虫だったあの頃の自分だ。
白衣は蛇の抜け殻のようになり、ボトルは手から滑り落ち、水が床にぶちまけられた。白い裾がぐっしょり濡れたが、お姉さんはそれについて全く気に掛けなかった。
「腹を割って話したいから、申し訳ないけどその姿で我慢してね」
しかし私の姿はすぐ、元に戻った。それを見てお姉さんは狂喜した。今まで見たことない、トラウマを孕む昆虫のような笑い方だ。
膝のあたりに冷たい不快感を覚えながらも、白衣に身を包み、私は彼女の話を待った。
「えっとね、夢が死んだんだ」
思わず、ぽかんと口を開けた。だが、経験上こういう場面に動じることはない。私は、お姉さんが気を引くためにときどき脈絡のない冗談を言うことを思い出した。
「それはどういう」と私が聞いたときには既に、お姉さんは灰色の蛇に変身していた。
全身に蓮のような黒いまだら模様が広がっている。宙に浮かび、ボウフラのように踊り狂っている。
「ここでいう夢はね、寝るときの夢でも将来の目標でもなくて、1匹の蜘蛛のことを指すんだ。世界には表と裏があって、裏には巨大な蜘蛛がいるの。その子が夢と呼ばれているんだ。
夢は人の魂を食べるんだ。魂といってもね、それは固形であり、雲のように漂っているかと思うと、確かなふわふわした感触を持っていて、赤ちゃんのように過去と未来を行き来するんだ。
ときどき魂は迷うの。そして、夢が綾なした相対性理論の蜘蛛の巣によって捕らえられるんだ。世界の裏側は、夢のバランスで成り立ってたけど、その子が死んじゃったからじきに均衡も崩れるんだ」
「お姉さん……いったい何を話しているんですか。というかお姉さん、その体は」
私は、死にかけのヤスデのように丸まって吐き気をこらえた。恣意的な連想ゲームや、数を数えることで、なんとか現実逃避を試みる。しかし、やる必要はなくなった。私がその世界に適応したからだ。
「ごめんね、ちょっと難しい話だったかな」
お姉さんは大きく開いた口から霧状の毒を噴射しながら言った。その気味悪い歯並びは、図鑑で見る蛇の歯列と違いなかった。
いつの間にか中世風の王室に私たちはいた。薄暗く、声がほどよく残響する箱型の部屋だ。奥にある王座の上では、ふわふわ浮きながらお姉さんが舞っていた。
ロウソクが光源であり、赤くて柔らかい王座の布に、お姉さんの影が何重にも投影されている。八方にたくさんの燭台が並んでいて、鈍色の石煉瓦を怪しく浮かび上がらせていた。
適応したと思ったが、連続した思想の螺旋が、海馬を錐揉みしてくる。
「ああああああああ!」私は叫んだ。「ああああああああ!」
憐憫の薔薇が王室を満たした。
しかしそれらは情緒不安定であったので、赤色になったり青色になったりし、私はそれらが地面に投げかけた影を線でつないで、方程式という通信を編み出した。星座に似ていて、上と下がなくなるのを理解する。
さらに私は巨大な兜の金具が重なり合ったところに足を掛け、不安定な固定に躊躇しながらも、アラビアンナイトから月曜日の水道水までを仰々しく爬行したのだ。
お姉さんは、蛇腹のまだら模様をアメーバのように伸縮させながら、私に新たなお告げを託した。
「印はいかなるときも綺麗な大号令螺旋階段で、まるで死へと続く道が波縫いのように頷いたり仰いだりしながら、君のところに戻ってきたんだ。それが結果だよ」
王室は浴槽を伏せたような形でもあった。右側には、鉄格子の区切る小さな円窓があった。格子さえ並んでなければ、人ひとり侵入できるだろう。
窓の向こうは真っ暗闇だった。それは隣の部屋の暗がりかもしれないし、新月が醸し出す漆黒かもしれなかった。
すると1匹、カナブンのような甲虫が外から入ってきた。たくさんの光源に目移りし、不器用な軌跡を描いていたが、それはお姉さんの口の中へとすっぽり飛び込んでいった。
「えっとね、制動でできた説明も矛盾ならびに乱反射を脱ぎ捨てて、プラズマだけになったんだ。
うしろに説明だけをくってけて、迷宮を捕食しながら訝しさを太らせるためだけに。
だから概数に寄り添って、窓のなかから、毒へと枝分かれしているみじん切りの走りに永遠を付与して、記録してあった筋が洗面器のこだわりを切り抜き、迷妄から帯出している乱高下が憤怒して科学を敷き詰めたんだよ。すごいね」
私は右手に持っていた缶コーヒーを口に運ぼうとした。しかしそれも強大な衝撃波によって叩き潰された。お姉さんは相変わらず優しい声で語りかけてくる。
「新しさが並んでいるんだ。縦に。そうして飛来して、今日であることが鉱脈に限定される」
そして続ける。
「君のお母さんは私が殺しちゃったんだ」
「えっ?」
私は虚を突かれた。
「私が神になったことで、生贄になっちゃったの……。本当にごめんね」
「え、死んだ……? というか私の母さんと会ったんですか」
「うん。でもね、お母さんの亡骸は私の力で再び生を受けて、空の彼方で絶えず膨張しているんだ。意志はないよ。
その体はほおずき色なんだ。まるでお腹の中の赤ちゃんみたいにね。それでも飛行船よりはるかに巨大なの」
「……」
「いつか巨体でこの町を呑み込むし、宇宙も吞み込む。あらゆる原子は逃げられないんだ。君もお母さんの胎に呑み込まれちゃうの」
私の体は再び幼くなっていた。次元の狭間を吐瀉物色の旅客機が旋回するのに比べたら、幼児化くらい些細な変化でしかなかった。私は清潔なハンカチで目もとを拭った。
お姉さんはもつれたり、ほどけたり、鎌首をもたげたりしながら言葉を紡いだ。
「なんかさ、走馬灯みたいなのが、見えて、こない、かな? 苦しいよ」
「はい、私もです。少年時代を思い出して、胸が痛いです……」
「君の友達と公園でサッカーしたよね。あれでも私手加減してたんだよ」
「でも、あれはズルですよ、お姉さん。覚えてますか、ナッツキャンディ争奪戦の件」
お姉さんは、へへ、と笑みを浮かべた。アルバムから思い出をひとつひとつ丁寧にピンセットで取り分け、安全な場所に移しかえている気分だ。
「君のおじいちゃんの葬儀に参加したのもさ、つい最近のことな気がするな。お家に招かれて出前寿司食べさせてもらったね。なんだったんだろ、あれ」
「運動会のとき夜なべして、みんなにクッキー作ってくれたのは、マジで感謝してます」
私がそう打ち明けると、蛇は恥ずかしそうに、とぐろを巻いた。
「君のお母さん──私にとってのおばさんはね、いつも見守ってくれてたんだ。もちろん、いつもってのは誇張だけど、でも、お守りとか、大学の合格祝いにもらったワンピースとか、冗談抜きで心の支えだったから。
ただ、やっぱり、おばさんには返せてない借りはあったよ。君の成長を見届けて喜ぶことができなかったのが、一番の未練かな」
蛇はしばらく眠り込んだように目を閉じていたが、しゅるしゅると音を立てると、また喋り出した。
「空の上で膨らんでるほおずき色の塊にはね、お母さんの面影が確かにあるんだ。顔立ちとか、指の形とか、へその緒とかに。遺伝子は同じだから。
でもね、そこにお母さんの記憶はないんだ。
脳の襞に小さなポケットが隠されてて、そこから奇跡や救済措置みたいに思い出の粒子が見つかることもない。断言できる。記憶は絶対にない」
私は、はじめて母との決別を実感した。もう涙は流れなかった。
すると私たちは元の診療室に戻っていた。しかし窓外の空は赤かった。
ちょっとした動作のたびに、私の視野から地面以外のあらゆる遮蔽物が消え、そして再び目の前に戻ってきた。それはまるで、ゲームで壁に近づいたときに、建物が消えるのと似ていた。
黄昏が地平線でちかちかしていた。全てが終わろうとしている。酸素や窒素が鋭い鱗になって、絶えず肺の中を刺していた。痛かった。お姉さんは不思議な色の血を噴き出していたが笑っていた。
「ねぇ、あそぼうよ」とお姉さん。
室内ではどす黒い竜が何匹も飛び回っている。煙でできていた。
グレイのような宇宙人が何人も窓ガラスに張り付いているのが見えた。すり抜けんばかりに顔を押し付ける。ひしめき合い、まっ黒な目がつぶれ、墨のような目汁がガラスに飛び散る。
それでも笑顔を絶やさない。なんて愉快なんだろう。
「記号! 記号!」とグレイが歌うのでそれに倣って私も「記号! 記号!」と叫んでみた。竜はエーテルだ。
世界は色素と芸術から成っていた。どろどろと混ざりながらも、それぞれが核を失わないイデアの金魚鉢だ!
お姉さんは棒のようにまっすぐに伸び、天井を向いていた。私は彼女に触れ、同期を試みた。その体は物干し竿のごとく硬化している。
語らずとも、正しい順序で同期は成立した。アミラーゼが進化している。大腸菌が進化している。煙が充満してきた。お姉さんは炎のように舌をちろちろさせている。それが合図だったのかもしれない。
私たちはロケットのように飛び上がり、診察室の天井を突き破ると、すぐさま眼下に屋根を認めた。
「あそぼう」とお姉さん。
「うん!」と私。
加速した。お姉さんと融合しながら上昇を続けた。不思議なことに白衣ははだけていない。
蛇のスピードはすさまじい。あっという間にアバンギャルドな町を見下ろしていた。風が気持ちいい。雲をすり抜けて、どこまでも昇っていく。お姉さんは口を開いた。
「動名詞が、あらゆるスピードを隠して、迷路の肩書を提示していた。それは晴れ。
ブラックホールであることが美容師の諧謔であるならば、たしかに煩いビニールテープを陸に沈める手筈が見惚れてしまう。
それでは中尉だ。家が吐いた骨は、金の動きの中にそれぞれ古くなる潮騒を命じていた」
「やったーーーーーーーーーーーーー! わーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
私たちはいつのまにかお母さんの腹を突き破り、宇宙空間を矢のように飛んでいた。
星だ。プログラム言語をばら蒔いたように、たくさんの星が煌めいている。
私は感動した。こんな嘘偽りない常世の闇を、希望の大地が生まれるさまを、この目でしかと見届けたのだから。
世界は色素と芸術から成っていた。どろどろと混ざりながらも、それぞれが核を失わないイデアの金魚鉢。 杉浦ささみ @SugiuraSasami
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