再始動のポリフォニー
モロモロ
第1話
4月3日 月曜日
今日、退院した。
母と妹が迎えに来てくれた。久しぶりの帰り道。
「お姉ちゃん、実行委員の仕事どうするの?」
と妹が聞いてきたけれど、何のことだかわからなくて曖昧に頷くしかできなかった。
妹は「やっぱり記憶が曖昧になってるの?」と心配そうな目で私を見ていた。
家に着いて、階段を上がったら迷ってしまった。
「お姉ちゃん、そっちは私の部屋だよ?」
妹の声に我に返る。
夜ご飯は母の手料理。久しぶりの家族との食事。
「梨奈、元気ないけど大丈夫?」
「うん...」
黙って箸を動かしていた私に、母が優しく声をかけてくれた。
いつもの活発な娘とは違う私に、家族は戸惑っているみたい。
風呂上がりに、パジャマを選ぼうとして、また戸惑ってしまった。
どれが私のだったかな、と迷っていたら、母が声をかけてきた。
「梨奈、シャワー長かったけど大丈夫?」
「ごめん...なんだか体が重くて」
母は黙って頷いて、パジャマを手渡してくれた。
トイレも風呂も、自分の体なのに慣れない。
この違和感はいつまで続くのだろう。
明日は入院以来、初めての登校日。
考えただけで胸が苦しくなる。
明日から学校。
クラスメイトに会うのが少し怖い。
どう接すればいいのだろう。
4月4日 火曜日
今日から学校。
朝、制服を着る時から緊張が始まった。
スカートの丈が気になって何度も直してしまう。
鏡の前で立ち尽くす私に、妹が「お姉ちゃん、遅刻しちゃうよ」と声をかけてきた。
教室に入ると、周りから歓声が上がった。
「梨奈!おかえり!」
「心配してたよ〜」
たくさんの声。
でも、私は上手く応えられない。
親友の美咲が駆け寄ってきた。
「元気そうでよかった!でも、なんか雰囲気変わった?」
曖昧に笑うしかなかった。
朝のHRで担任の佐々木先生が、
「伊藤さんが戻ってきてくれて、クラスも完全体になりましたね」
と言ってくれた。
でも、以前のような明るい返事ができず、小さく頷くだけ。
クラスメイトの視線が気になった。
休み時間、美咲と真希が心配そうに寄ってきた。
「梨奈、本当に大丈夫?」
「うん...まだ、色々と思い出せないことがあって...」
「そっか...あの事故、相当ヤバかったもんね」
「うん...」
放課後の掃除当番も、なんとかこなせた。
でも、以前のように仕切ることはできない。
むしろ、他の人の指示を待ってしまう自分がいる。
教室に戻ると、机の中にピンクの封筒が入っていた。
『お帰りなさい』という綺麗な文字。
中には色とりどりのメッセージが書き込まれたカード。
『梨奈へ、文化祭の実行委員長、本当にお疲れ様!あの時の仕切りは最高だったよ!』
『梨ちゃん、合唱コンクールの指揮者、カッコよかった!』
『去年の体育祭、あなたの掛け声で私たちのクラスは優勝できたんだよ』
知らない思い出ばかり。
胸が締め付けられる。
なのに、カードの最後には『またみんなで頑張ろうね!』って。
4月5日 水曜日
一睡もできなかった。
窓の外が白み始めても、雷鳴の余韻が体から抜けない。
制服に着替えて、鏡を見る。
やっぱり、目の下にクマができている。
「お姉ちゃん、顔色悪いよ?」と妹に言われた。
教室に入ると、また昨日と同じように声をかけられる。
でも今日は、それに応える元気もない。
「梨奈、具合悪いの?」
「大丈夫、ちょっと寝てなくて...」
授業中、何度も居眠りしそうになる。
ノートを取る手が止まる。
黒板の文字が、ぼんやりと滲んで見えた。
昼休み。
机に突っ伏していると、美咲が弁当を持って近づいてきた。
「梨奈、一緒に食べよ?」
お腹は空いていなかったけど、断る理由も見つからなくて。
いつもの場所...なのかな。
窓際の席に移動する。
「あのさ、梨奈」
美咲が箸を止めて、申し訳なさそうな顔をする。
「今日、文化祭の最初の打ち合わせなんだけど...」
ああ、メッセージカードにも書いてあった。
私が実行委員長...だった。
「梨奈が委員長じゃなきゃ、って先生もみんなも言ってて。でも、体調悪そうだから...」
「ごめん...」
「ううん、私が代理で出るから!梨奈は休んでて」
美咲の優しさが、かえって重たい。
机の中を整理していると、青いファイルが出てきた。
表紙には『文化祭2024』と書かれている。
開くと、几帳面な字でびっしりとメモが。
『クラス対抗イベントは体育館で』
『衣装係は○○さんにお願い』
『予算は一クラス5万円以内』
付箋もたくさん貼ってある。
どのページにも、みんなの意見を丁寧に書き留めている跡が。
時々、ハートマークや星のイラストも添えられていて。
一番後ろのページには、
『今年は絶対に優勝!みんなで最高の思い出作ろう!』
そんな言葉が大きく書かれていた。
みんなの期待に、胸が苦しくなる。
帰り道、図書館に寄ることにした。
文化祭の資料、もっと調べないと。
静かな館内。
でも、なぜか落ち着く。
美術の本が並ぶ棚に、見覚えのある後ろ姿。
加藤さん。
一瞬、どきりとする。
「あ、伊藤さん」
優しい笑顔で振り返る。
「退院おめでとう。心配してたよ」
「ありがとう...」
思わず強く抱きしめた資料が、床に落ちる。
慌てて拾おうとして、加藤さんと手が重なった。
やけどしたみたいに、手を引っ込める。
「ごめんなさい」
「大丈夫だよ。文化祭の資料?私も見せて」
加藤さんは資料を丁寧にめくりながら、
「伊藤さん、すごく頑張ってたよね」と言う。
「前の打ち合わせで、すごく熱く語ってたの覚えてる。みんなで協力して、絶対成功させようって」
「...」
「特に装飾の時は、美術部の意見をちゃんと聞いてくれて。私たちのやりたいことを尊重してくれて。嬉しかったな」
加藤さんの瞳が優しく揺れる。
胸が締め付けられる。
うまく言葉が出てこない。
「あ、ごめんね。まだ思い出したくないよね...」
「そんな...!」
思わず声が出てしまう。
「伊藤さん?」
「あの、その...」
焦って立ち上がる。
でも、腕を掴まれて動けない。
「伊藤さん、本当に大丈夫?」
加藤さんの顔が、近い。
心臓が早くなる。
「最近、様子が違うって皆が心配してて...」
柔らかい手が、まだ腕を離してくれない。
甘い香りがする。
「私...」
喉が渇く。
この距離が、苦しい。
「私、帰らないと」
慌てて腕を振りほどく。
図書館を飛び出した。
校舎を飛び出す。
肌寒い夕暮れなのに、頬が熱い。
心臓が、まだバクバクしている。
ポケットの中でスマホが震える。
美咲からのLINE。
『梨奈、今日の放課後、田中くんのお見舞い行かない?』
足が止まる。
その名前を見ただけで、胸が苦しくなる。
『ごめん、今日は...』
返信を打つ指が震える。
『また今度行く』
玄関を開けると、母が顔を覗かせた。
「お帰り。あ、梨奈、さっき病院から電話があったわよ」
心臓が飛び出しそうになる。
「次の診察日の確認だって。再来週の水曜日ね」
「...うん」
「あと、田中くんのご家族とも一緒の時間に来てもらえないかって」
その場から逃げ出すように、コンビニに向かう。
「ちょっと買い物行ってくる」
いつものコンビニ。
レジに並んでいると、おばあさんが声をかけてきた。
「あら、梨奈ちゃん。退院したの?」
見知らぬ顔なのに、なぜか親しげな笑顔。
「いつもみたいに元気な声で挨拶してくれないのね」
「これ、サービス」
おばあさんが差し出したのは、イチゴ味のポッキー。
「いつも買ってくのよね。元気出るでしょ?」
知らない優しさに、また胸が締め付けられる。
「あ...ありがとうございます」
おばあさんは困ったように首を傾げる。
「遠慮なんかしないの。いつもは嬉しそうに受け取ってくれるのに」
小さく頭を下げて、コンビニを後にする。
家に帰るまでの道すがら、ポッキーの箱を握りしめたまま。
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