神話の鳥

@yugandamizuumi

神話の鳥


1


熾天使のフレスコ画――風化して天井が崩れ落ち、真ん中の翼が一枚欠けていた。家の近くの小道の先にある教会の天井の絵、廃墟になった教会のそれにしてはきれいに残っていた。ミラ、熾天使は二枚の翼で顔を覆い、二枚の翼で足を覆い、残りの二枚の翼を開いて空を飛ぶんだよ。神に最も近い存在でさえ、その栄光を直接見ないように顔を隠すんだ。飛ぶための翼で。父親は話しながら十字架のネックレスを彼女の首につけた。彼女はその時の温度を思い出していた。


2


アプリケーションを開く。インタビュアの男が画面に映る。彼とは指導教官の紹介で出会った。ソルボンヌの卒業生で、ポスドクを少しした後、出版社で働き始めたと聞いた。癖毛を撫で付けた頭に皺の残るシャツ。自分もアカデミアに残りたかったんだけど、家族のことを考えるとね。着古したコートを椅子の背にかけ、手を黒い机の上で組んでいる。


男が質問をする。いいえ、父は神父で、母はフリーのジャーナリストでした。


「物理学との出会いはどうでしたか?学校の物理などより刺激的な"本物の物理"を誰かに教えてもらったとか?」


「良い先生もいましたが、特に誰かに教えてもらったわけではなく、自分から惹かれていきました。」


今回、グモウスキー氏の果たした役割について教えてください。


インタビューが進む。少なくとも退屈な会議に出なくて済んだのは良かった。

白いカップの中の黒い液体。焙煎された豆の香りがする。ポケットに手を入れる。指輪を処分するのを忘れていたことに気づいた。



「今回の発見の応用はどのようにお考えですか?」


「もし粒子を適切な濃度で配置することができれば、その一部を基底状態に推移させ、エネルギーを放出させることで、全体を連鎖的に基底状態に推移させて、大きなエネルギーを取り出せると思います。ただ、制御できなければ危険なので、、、」


話しながら画面の右上を確認する。グモウスキーと会うまでに、彼の話に決断を下さなくては。男の薬指には指輪がはまっている。外では雨が降り出していた。



「私はクロスワードには興味がないのですがね。プログラミングとクロスワードって似ていませんか?物理学と違って、成功が約束されていて、対話的な試行錯誤ができるので行き詰まらない。」


対話的?彼の質問は、事前に貰った質問の範囲を大きく超えはじめていた。ミラは耳の後ろを人差し指で擦ったが、男の言葉は遮らなかった。コーヒーを少し飲んだ。


「しかし、その過程で多くの間違いに気づきますよね。物理学の論文についても同じではないですか?誰も過程に注意を払わないために、誰にも見つけられない深刻な誤りがあるのではないですか?これは高く評価されている物理学者に関しても言えることだと思いますが。」


「まぁ、完全にないとは言えないでしょうが、私はまだ物理学の論文は十分信頼できると思っていますよ、少なくとも私の専門の範囲では。」

画面から目を外す。リビングの一角には小さめの本棚がある。『旧約聖書』、ダーウィン『人間の進化と性淘汰』、そしてメルヴィル『白鯨』。物理学の本はほとんどなく、隙間を埋めるように哲学や文学の古典が増えていく。


「例えばチェスなどは勝敗がありますから、チェスでは人間の認識と独立なアルゴリズムを通して人々を公平に順位づけできます。しかし物理学はそうではない。」

「近頃の官僚はチェスのように学者を評価し始めていますね。引用数とかh-indexとか。人々を直線上に並べるには物理学はあまりにも多様で大規模だと思いますけどね。」


「その通りだと思いますよ、CERNの同僚にも、非常に優れた物理学者で、 h-indexが2くらいしかなかった人が複数いますから。」


カップの底に残ったコーヒーを全て口に流し込んで、窓の外を見る。ベンチ、点灯する街灯、ポストの上のサッカーボール、植え込みに突き刺さった板。パン屋の看板の文字は禿げて読めなくなっている。雨は雪に変わっていた。

「登山をされるそうですね、身体的な趣味が物理学に良い影響を与えるのでしょうか?」

「どうでしょうか、楽しいからやっているだけですが、少なくとも油絵を描いたりするより頭を休めることが出来ますから。」

「アウトドアの趣味は家族がいるとーーー
」

「あとどれくらいかかりますか?講義に遅れたくないのですが。」


「わかりました。もう予定の時間は過ぎてしまいましたね。これ以上あなたを引き留めようとは思いませんよ。」

男は彼女と同じ側に居るかのように笑った。微かに笑い返して、椅子に座り直した。ポケットの中身を握りしめる。何かが折れる感触があった。


「いつ載るんでしたっけ?」


「次の号ですね。来週の日曜には文字起こしを送ります。」


「そうですか。今日はありがとうございました。」


アプリケーションを終了し、ノートパソコンを閉じた。カップをキッチンに戻した後、本棚から本を一つ取り出した。何を選ぶかは決まっていた。


3

その爆弾は、球とその表面に張り巡らされた配線から成っていた。


彼女は正しく物理を理解していた。彼女の発見した粒子の応用は予言通りで、そして、制御する必要はなかった。



実験には多くの学者が参加した。


青白い太陽が地上に現れ、赤くなり、やがて消えた。爆風と熱波が観測所に届いた後、巨大な雲が立ち上がった。その雲は、開いた六枚の翼のようだった。


「我は"死"なり、世界の破壊者なり」誰かが呟く。

ミラは聖書の内容が思い出せなくなっていることに気づいた。



次の日、ミラは家にある本を全て捨てた。本棚には折れた十字架だけが残っていた。

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