近くて、遠い。そんな距離

読み方は自由

プロローグ

第1話 静子視点:親友とのキス

 氷の音が涼しい。部屋の中も、エアコンの風で涼しいけれど。硝子コップの中に入っている氷が「キンッ」と崩れる音は、夏の日差しを弱めてくれた。私はベッドの上に本を置き、自分の隣に座っている親友、春山美佳里の顔を見つめると、その頬が赤くなった瞬間を狙って、彼女の唇にキスをした。「う、うううっ」

 

 そう言いながらも、。彼女の柔らかい感触を、言いようのない甘美な味を。唇の表面、鼓動、体温を通じて、蝉の声と共に感じつつけた。私は彼女の体から離れ、その瞳を見はじめた。彼女の瞳は、潤んでいる。学校ではクラスの中心に居るような彼女が、私とのキスに酔って、スモモのような顔を浮かべていた。

 

 私は、その表情に酔った。その表情を、彼女の耽美を見ているのは、この私だけだから。彼女の頬を撫でて、思わず「クスッ」と笑ってしまった。私は彼女の顎を摘まんで、その目をじっと見つづけた。「良かったね?」

 

 彼女は、その言葉に顔を伏せた。私もそうだが、彼女も恥ずかしい……らしい。顔の火照りに負けて、私の顔から視線を逸らしていた。彼女は私の手を握り、それにしばらく触れて、両手の指から手を放した。「これで、最後にしよう?」

 

 そう言われて、うなずいた。これを続けては、行けない。小学生の、十一歳の女の子がこんな事を続けるのは、気持ちの上で「よろしくない」と思った。周りの女子達は、好きな男の子、同級生の男子やアイドル、二次元キャラの話で盛り上がっているのに。


 そこから外れている私達は、どう考えてもおかしかった。私は自分の正面に向きなおり、そこから部屋の中を眺め、周りの家具類や机を眺め、そして、カーテンが閉められた部屋の窓を眺めた。「ありがとう」

 

 彼女はまた、私の言葉に赤くなった。「ありがとう」の意味をたぶん、察したから。窓から差し込むキラキラに頭の髪を光らせて、私の感謝に「う、ううう」と俯きつづけた。


 彼女は体育座りのまま、足と足の間に頭を埋めて、私と一緒に時計の音を聴きつづけたが、その沈黙に耐えられなくなると、ベッドの上から立ち上がって、自分のジュースを一気に飲み干した。


「しーちゃん」


「うん?」


「帰るね?」


 それに「うん」とうなずいた。身体の火照りを誤魔化すには、その言葉に逃げるしかない。彼女は私の見ている前で、服の乱れを直し、自分の鞄を持ち、乱れた髪を整えて、部屋の扉を開けた。私も彼女の後に続いて、家の階段を降りた。


 私達は一階の廊下に降りると、家の玄関に向かい、美佳里が自分の靴を掃きおえたところで、それぞれに「それじゃ」と言い合った。「また、明日ね?」


 私は、その言葉にうなずいた。彼女の言葉に応えるように。私は親友の少女に手を振って、彼女の姿を見送った。「バイバイ」


 そう言って、家の中に戻った。家の中は、静かだった。家族は外に出ているし、それが帰ってくる気配もない。自分の心音だけが、薄暗い玄関の中に響いていた。私は玄関の電気を点け、家の廊下を通って、自分の部屋に戻った。「柔らかかった」


 素直な感想。それがまた、私の身体を火照らせた。私はベッドの上に寝そべり、事の元凶になった漫画本を閉じて、見慣れた天井をじっと見つづけた。


 そんな事があった翌日、正確には月曜日だが。朝起きるのが、少し億劫だった。いつもなら窓のカーテンを開けた瞬間に「気持ちいい」と思う筈、なのに。この日は何をするのも億劫で、朝食のパンはもちろん、いつもの身支度でさえ、何処か夢心地の気分だった。


 私は紺色のランドセルを背負い、母親の「行ってらっしゃい」にも「う、ううん」と応えて、玄関の外に出て行った。

 

 玄関の外は、晴れていた。雲一つないわけではないが、登下校には最適。市道の隅を歩くのも、横断歩道を渡るのも、その待ち時間すら気持ちよかった。


 私はいつもの経路を通って、待ち合わせの場所に向かった。美佳里と決めた待ち合わせの場所に。私は「不安」と「期待」、「恐怖」と「興奮」とを抱いて、待ち合わせの場所に目をやった。「あっ!」

 

 そう叫んだ瞬間に美佳里も「あっ」と驚いた。お互いに「!」が付かない驚き、その反応に困る驚きである。美佳里は恥ずかしげな顔で、目の前の私に「おはよう」と微笑んだ。「昨日は……その、楽しかったね?」

 

 私は、その一言に胸を打たれた。彼女が見せた気遣いに、そして、今もある残り火に。周りの声を忘れて、身体を火照らせてしまったのである。私は彼女の隣に並び、彼女の手を繋いで、いつもの学校に向かった。そして、普段の日常に戻った。

 

 私は……うんう、私達は、。美佳里の方は、分からないけど。私の方は、「変わった」と思った。授業中にふと目が合った瞬間、お互いがお互いの名前を呼ぶ瞬間、クラスの子達がそう話に盛り上がる瞬間、その一つ一つに妙な興奮を覚えてしまった。


 私達は周りの目を盗み、それが出来る瞬間を見つけると、空き教室の中に隠れたり、(周りからは死角になる)柱の後ろに隠れたり、学校の屋上に隠れたりして、互いの体温、特に唇の感触を味わいつづけた。「えへへっ」

 

 そう笑う彼女に私も「ふふっ」と返した。私は彼女の頬に触れ、その目を見つめて、彼女に自分の想いを打ち明けようとしたが……。学校のチャイムに「それ」を阻まれてしまった。私は自分の衝動に驚いて、彼女の顔から視線を逸らした。


「なっ、何でもない!」


「そ、そう?」


 美佳里は、私の顔をマジマジと見た。自分だって、胸がドキドキしているくせに。私の鼻を摘まんで、それに「可愛い」と笑った。彼女は私の鼻から手を放し、身体の向きを変えて、今の場所から歩き出した。「早く戻ろう? 五時間目が始まっちゃう」


 私は、「それ」にガッカリした。日曜日の午後もそうだけど、昼休みが終わった瞬間も何だかガッカリする。自由な時間も、これで終わり。そんな気分に襲われた。私は五時間目の授業を億劫に思いながらも、美佳里の手に引っ張られて、その場から渋々歩き出した。「もっとしたかったね?」


 美佳里は、それに応えなかった。両耳の縁が赤かったので、私の声は聞こえているだろうけど。教室の手前で手を放した姿は、自分の興奮を隠す、一種の照れかくしに思えた。彼女は私の隣から離れ、自分の席に行って、周りの友達と話しはじめた。


 そんな毎日を繰り返していく内に私の身体もどんどん変わっていた。小学五年生の身体から六年生、そして、中学一年から二年生に。気持ちも身体も、どんとん変わっていったのである。中学の部活で「美術部」に入った私も、友達の誘いで「バスケ部」に入った美佳里も、制服の着こなしが全然違う事も合わせて、思春期の沼にどんどん嵌まっていった。


 私はYシャツの第一ボタンを閉め、スカートも丈も膝上当たりまで伸ばし、紺色のソックスを履いて、体育館の上から、あるいは、ステージの上から美佳里が部活に勤しむ姿、青春に輝く美佳里の姿を眺めつづけた。「美佳里……」


 そう呟く声はいつも、周りの声に掻き消された。周りの女子達が上げる、黄色い声に。美佳里のチームメイト「行けぇえええ!」と叫ぶ声に。美佳里自身の笑顔と相まって、彼女の頬を伝う汗にゆっくりと溶けていったのである。


 私は、それらの光景を眺めた。眺めて、ステージの上から降りた。自分の胸にスケッチブックを抱きしめ、その殆どが幽霊部員である美術部の部室に帰り、イーゼルの上に乗せてあるキャンパスを眺め、そこに描かれている絵、コンクール用の絵を眺めた。真っ黒な海の中に足を浸し、海水で濡れたワンピースを着て、互いの顔を見つめ合っている二人、その儚げな少女達の絵を。窓から差し込んでいる橙色の光に照らして、絵の全体をじっと眺めたのである。私は、自分の絵にうつむいた。「切ない」

 

 そう、無意識に思った。学校のグランドから様々な声が聞こえる中で、自分の想いを吐きつづけた。私はせっかく持ち掛けた絵筆を戻し、椅子の上から立って、窓の前に立った。

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