スイートハートハニー

凪紗夜

第1話


 ももは秘密の鍵をひとつ持っている。見た目にはなんの変哲もない、銀色の鍵だ。

 鍵は普段、ピンク色のめんだこのポーチにしまっている。めんだこは推しのイメージキャラだ。めんだこは最近世間的にブームで、いろいろな雑貨が販売されていて手に入りやすい。このポーチも千円もせず、手に入れたものだった。

 鈍く光りを照り返す鍵を宙にぶらんとさせる。仕事場の休憩中にこうして見つめていると、心が異世界へ飛ぶのだ。

 頭の中でもしもの世界が展開される。この鍵でドアを開けたら、恋人がカレーを作って「おかえり」と言ってくれる。恋人の笑顔は、仕事の疲れを一気に吹き飛ばす。一人暮らし用の家のキッチンは狭くて、きっとカレーのにおいが廊下にもワンルームにも広がっている。平和な夕暮れ。きっとカレー皿は百均で買った無個性な白い皿。カレーとは別の小皿に盛り付けたサラダには、私は胡麻ドレッシングをかけ、彼はコブサラダドレッシングをかける。

「竹中さん、どうしたんですか? 鍵なんか見つめちゃって。あ、恋人の家の鍵とか?」

 そんな妄想は後輩の金川琴子かながわことこの声によってぶち壊される。

 百は焦ったところを見せないようにゆっくりと、鍵をポーチにしまった。

「いや、家に犬をね、残してきたのが気になって……」

「あ、それで家に帰りたいなー的な? わかりますわかります。竹中さんのわんちゃん、何犬ですか?」

「ダックス。まだ八か月なの。かわいいよ。写真見る?」

「見ます、見ます」

 スマホを取り出して写真を探していると、自然と話題は鍵の話から逸れた。

 この鍵は秘密の鍵なのだ。百の母親すら知らない。誰にも言えない幸福の在り処。


 電車の中で揺られていると、スマホがポケットの中で震えた。先ほどから何回も震えている。百がスマホを取り出して通知センターを確認すると、案の定、母親からのLINE着信が数百件と並んでいた。

 LINEのメッセージも夥しい。「どこにいるの?」「まさか男の家じゃないでしょうね」「今日はカレーよ。早く帰ってきて」など、帰宅を促す文言が並んでいる。既読をつけた瞬間に、リアルタイムで「あ、既読ついた」とメッセージが飛んできた。百は真顔で「ごめんね、残業で遅くなっちゃった。今電車だから」と送信する。

 了解のスタンプと「遅れるときはメッセージちょうだいって何度も言ってるじゃないの」というメッセージがほとんど同時に送られてくる。既読はつけてしまったが、百は見ないふりをしてスマホをしまった。これに弁明したところで長くなってしょうがないし、母がこうした攻撃を仕掛けてくるのはいつものことで、いまさら百が軽く反抗したところでやめるとは思えないのだった。

 帰宅すると、2LDKの部屋には玉ねぎを煮込んだときのにおいが充満していた。築十年ほどの家は食事を作った時以外はほとんど無臭だ。

「おかえりなさい」と言ってくれるのは、フリルのついたエプロンを着た母親だ。竹中千莉たけなかせんり。五十代。「白いフリルつきのエプロンなんて、百の母親以外、漫画やアニメやドラマでしか見ない」と百の友達・時雨しぐれは言っていた。エプロンは少々、シミの痕跡はあるが、おおむね本来の白を損なわないまま、清潔に保たれていた。母親は黒髪の巻き髪で、今日はエプロンの下は紫色のニットを着ている。

「ただいま、お母さん」

「遅れるときはちゃんと言ってね。女の子はいろいろ心配なんだからね……お外は怖いことで溢れかえっているの。痛い目にも怖い目にも遭いたくないでしょう?」

「そりゃもちろんね」

「なによその言い方。ほら最近も闇バイトっていうのが流行っていて、強盗の上に殺害されちゃう人がいるんだからね。ね、やっぱり外は怖いわ。危険なことで溢れかえっている。もうお仕事なんてやめてしまいましょ? あとはお父さんの遺してくれた財産と、最悪、生活保護で暮らしましょ?」

「それはダメだよ。てか闇バイトってたしか家にまで入ってくるんでしょ。引きこもってたって危ないじゃん」

 事あるごとに、母親は世間の怖いニュースを引き合いにだして、仕事を辞めるように言ってくる。母親曰く、道行く人はみんな財布を狙っていたり、家を割り出して強盗するような輩らしい。仕事をして遅くなると、強盗ではなくても、詐欺や暴行・強姦など、危ないことに絶対に巻き込まれると主張する。

「大阪の街はだいたい明るいし、二十二時くらいでも女性も歩いてるよ」と時雨は言っていたが、本当なのだろうか。百は高校生のときの門限は十六時で、今も退勤したらすぐに帰るように促されてそれに従っているのでわからない。残業で過去一番遅くなったときは「電車に乗らずにタクシーで! 目をつけられないように乗るときも注意するのよ」と母親に電話で言われたため、そうした。

 スーツを脱いで自室のクローゼットにかけて、二人しか座れないダイニングテーブルにつくと、母親がカレーを盛り付けた皿を出してくれる。百の皿は淡いピンク色で、母親の皿は淡い紫色だ。どこかの有名な焼き物らしい。百は黙ってダイニングテーブルに座ったまま、すべてが終わるのを待っていた。

「できたわ、食べましょ」

 そうして二人分の食事を並べ終えると、母親も席について、二人でいただきますをする。

 母親の作るカレーにはローリエが必ず入っていて、まず、香りがいい。次に小さくみじん切りにされたにんじんと、対比するように大きなじゃがいも。にんじんは百が幼稚園児のときから嫌いだったから、癖でずっと同じように作っているようだ。

 スプーンでじゃがいもを掬って一口含むと、腔内にスパイシーな刺激が広がる。

 百は眉根を寄せた。

「あら、わかる? 少しスパイスを変えてみたの。あと生姜を少し加えたわ」

「前のがよかった」

「あらあら、じゃあ戻してみるわね……百がおいしく食べてくれるのが一番だからね」

 母親は嬉しそうに笑った。

 風呂はもちろん食事が終わったらいつでも入れるように沸かされている。追い炊き機能で熱くし直している間に、百は歯磨きをした。鏡には薄化粧の子供っぽい顔の女が映っている。百の使う化粧品は細かく母親によって制限されていて、コンシーラーも使用は許されないので、いつも目の下にクマがある。このクマは貧血だか血行不良だかによるもので、睡眠とは関係ない。鏡の中の女は世の中に絶望しているような真っ黒い目をしていて、色の悪い唇の隙間から吐息を漏らした。

 三十歳にもなったのに、なにしてるんだろうと鏡を見ていつも思う。

 中学のときの嫌いな教師の口癖が「自立しなさい」だった。

 頭の中で教師の声が反響する。


 自立しなさい

 自立しなさい

 自立しなさい


 自立できたらしてるよ、とっくに。

 時々無性にそう叫びたくなる。


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