手記12 男の顔を確認

 あの晩、私は男が逃げていく姿を目撃したが、薄暗がりの中だったので顔ははっきりとはわからなかった。

 「敵を知らば百戦危うからず」という言葉もある。私は男の顔をはっきりと確認することは出来ないかと考え、勤め人の男が休みという日曜日にひそかに男の家へ出掛けてみた。

 男が暮らすのは、私の家と同程度の敷地百数十坪程度の農家だ。だが私の家と違って、高い塀も大きな納屋もなく、庭の様子は外の道からやすやすと見通せた。

 男がいた。

 庭先でミニバイクをふかしながら、友だちと遊んでいる。こちらを振り向いた。顔がはっきり見えた。

 二つの点で私は驚かされた。

 一つは友だちと談笑する男の様子のありふれた明るさだ。私があの晩応対したとき、男はゾッとするような異様な殺気を放っていた。だがいま白昼の下、笑っている顔はどこにでもいる田舎の快活なお兄ちゃんに過ぎない。

 そしてもう一つ。

 妊婦事件が発生する時刻前、同じアパートの階下の部屋で、不審な男が目撃されている。玄関のチャイムが鳴ったので、その部屋の主婦がドアを開けると、若い男が「中村さんのうちはどこか」と聞く。主婦は知らないと言って戸を閉めた。彼女は男の様子がどこか異様だったので、チェーン錠は掛けたままだったという。

 新聞記事にその目撃された男の人相が、詳しく載っていた。年の頃は30歳前後、中肉中背、丸顔色白、メガネなし、髪は短髪、サラリーマン風、、、。

 A家の次男の歳は、妊婦事件の時は23歳だと、のちのち刑事から聞いた。だが若干ふけて見えるので、30前後に見えてもおかしくない。

 その他の点では、この目撃情報はA家の次男の風貌と、驚くほどぴたりと一致する。

 昔の捜査技術でも、アパートで目撃された不審者を探し出すのは、きっと容易だったと思う。

 そうして探し出されたA家の次男を、盗聴などの違法捜査で調べたところ、犯人に間違いないとの心証を捜査当局は得た。

 だが逮捕に踏み切り、起訴に持ち込むためには合法的な手段で取得した証拠がいる。あくまで私の憶測なのだが、そこで捜査当局は行き詰まってしまったらしいのだ。

 ところで「中村さんのうちはどこか」と尋ねた不審者は、その後アパートの二階へ上がった。二階の西の部屋の住人であった妊婦は、先ほどまで友人と談笑していたが、帰る友人を見送って表の駐車場まで出ていた。その時すぐ部屋に戻るものと思って、ドアの鍵を掛けなかった。その隙に不審者が部屋に忍び込んだ。

 駐車場から戻ってきた妊婦を、物陰に潜んでいた男が後ろから襲って一撃のもとに倒した。それが妊婦が抵抗らしい抵抗もできずに殺された理由だ。

 私が刑事に、以上のような犯行手口の推測を述べると、彼は「どうしてあなたにそれがわかるのー?!」と驚いていたから、捜査当局の見解も同じだと思う。でも当局の表向きの見解は「犯人の手掛かりは一切得られていない」。だから、犯行手口も当局はわからないことにしている。でも報道を注意深く見聞きしていた者なら一般市民であっても、手口のおおよその推測はついているものだ。

 私はこの頃(1990年の2月だが)、コンビニに立ち寄って、なにげに週刊誌を立ち読みした。妊婦事件の記事が載っていた。中川警察の副署長に記者が取材したところ、彼は「この事件の犯人がいつまで経っても捕まらないのは、犯人がよほど賢いか、それとも捜査が下手かのどちらかだ」と豪語して高笑いしたという。 

 この事件は手口があまりに恐ろしいうえに、犯人がいつまで捕まらないので、世間の人たちはこの犯人はよほど凄い人物だと妄想し勝ちである。

 「帝王切開の手技に長けた産婦人科医」だと推測する識者もいた。

 だが、この事件の犯人として警察の内偵を受けているA家の次男は、どこにでも普通にいる田舎のお兄ちゃんにしか見えない。

 勤め先がどこか、あいにく私は母にも刑事にも聞いていないが、おそらくそこいらの中小企業で、携わっている仕事もありきたりの仕事ではないかと思う。

 犯人は「よほど賢い」ような人物では決してない。

 とすると副署長による残された選択肢は、一つしかないではないか。

 私自身の体験でも、盗聴行為をあっさりばらしたり、110番通報に警官の派遣を遅らせたことを簡単に見破られたりする捜査当局が、世間一般が抱くイメージのように「日本警察は優秀」だとはまったく思えなかった。

 あえて言うなら不祥事隠しには優秀、、、。


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