5章 女子になりたい男子

5-1

 美容院の予約をすっぽかしていた。

 それ以外は万事順調。元に戻っていた。

 キリコと抱き合ったとき、元に戻ったと気づかないくらい自然で、まばたきした瞬間に、見ていた部屋の景色が変わったなというくらいあっさりしたものだった。


 ああ、でも、ちょっとした変化はあった。

 キリコがあたしたちのグループの仲間に入ったことだ。

 登校途中に、まずはあたしから双葉と友梨奈にキリコのことを話しておくことにした。キリコはグズで要領を得ないといけないから。


「キリコさ、先輩ににらまれていたらしいよ」

「うっそ。ほんとにグズだよね」

 双葉はあけすけにいう。


「音無花音が生意気だから引きずり落とせって。たぶん、それってカーストから引きずり落とせっていう意味だと思うけど、普通に階段から引きずり落とすとか、ありえなくない?」

「ちょーウケる。なんなのそれ」

 友梨奈と双葉は爆笑だ。こっちは激痛で湿布臭くなるほどのケガだったのに。


「でさぁ、キリコもヤバいけど、やられっぱなしもムカつくじゃん? キリコをこっちに取り込んでスパイさせようよ」

「ああ、ありだね」

「おもしろそう」

「パシらせよう」


 ふたりは盛り上がってこの話しに乗ってきた。

 休み時間、三人でキリコの机を取り囲んだ。

 キリコはほぼ動かない。いつだって自分の席で背中を丸めている。


「というわけで」

 あたしは有無を言わさずまくし立てた。キリコには先輩からなにか言われたときにはすぐに報告するように申し伝えた。

「あたしたち、キリコの味方だから」

 あたしは念押しして仲間に入れてやったことを強調した。キリコは可もなく不可もなくみたいなつまらない顔をしている。


 双葉が恫喝まがいににらみをきかせる。

「そうだよ。先輩は来年には卒業しちゃうんだよ。どっちについたほうがいいかわかってるよね?」

「キリコもうれしいでしょ。仲間に入れて」

 友梨奈はキリコの頭をぽんぽんと優しく触れると、髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回した。

 まずはこんなかんじでかまわないよね?

 あたしだって、急には変われないんだから。



 放課後、双葉と友梨奈を連れ立って帰るところだった。

 上履きをぬいで履き替えようとしたら、ぽつんと一点、上履きにシミがついていることに気がついた。

 お昼の時、ここにも飛び散ったのか。


「そうだ、忘れ物。とってくる」

 あたしは洗ったハンカチをベランダに干していたことを思い出し、双葉らにそう告げて取って返した。

 給食の盛り付けをしているとき、ソースがはねて制服の袖を汚されてしまったのだ。

 やらかした相手の糸川さんはビビっていたが、あたしは「気にしないで」と表情を変えずに自分のハンカチで拭き取った。


 上履きまで汚されていたなんて、ちょっとウツだ。

 家に持って帰って洗ったら、明日までに乾くかな。でも、持って帰る袋も持ってきてないし。

 今日のところはしかたない。

 だけどハンカチは気に入ってるものだし、そのまま放っておけないので取ってきた。


 戻ってくると――双葉も友梨奈も待ってはくれてなかった。

 急いで靴を履き替えて表へ出る。

 通りを見渡せば、なぜかキリコまでがいつの間にか合流していた。

「ちょっと!」

 大声張り上げて呼び止める。


 十五メートルくらい先の十字路に横断歩道があって、三人は道路を渡ってさらに先へと進んでいた。ふたりの後ろを歩いているキリコが「早く!」とのんきに叫んでいる。

「早くって……急に親しげに話しかけないでよ」


 文句を言いながら走って追いかける。

 横断歩道を渡ろうとしたときだった。視界の端に車が飛び込んできて、ブレーキをかける大きな音がした。


 ――ウソ……間に合わない……っ!


 油断していた。

 横断歩道に信号はないけど、通学路でもあるから警察官がたまに立っていることもある。横断歩道は歩行者優先だから、歩行者に道を譲らないドライバーを取り締まる場所として知られていて、手前で待っていると止まってくれる車も多い。

 だけど、飛び出したあたしが悪い。


 ――戻らなきゃ……


「いやぁぁぁぁ!」

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 と、同時に強く腕を引っ張られ、あたしは誰かに抱え込まれながら転がった。ぐるぐるとめまいを起こすくらいに。


 ようやく足の捻挫もよくなったというのに、またあちこちに激痛が走る。

 だが、車に跳ね飛ばされたのなら、こんなんじゃすまなかっただろう。

 あたしは助けてくれた人の下敷きになったが、なんとか無事だった。

 相手の長い髪が顔に覆い被さって邪魔でも文句はいえまい。


 自分と同じトリートメントの香りがした。

 黒髪の男性アイドルがCMをしていたこのトリートメントはあまりに人気で、一時期は品切れが起こっていたほどだった。

 男性がCMしているとはいえ、女性向けの商品だ。まさか、女子が体を張って助けてくれたの?


 その命の恩人は、自分の腕でゆっくり体を支え起こすと顔を上げた。

 ――え?

 彼女の顔を見てさらに驚いた。

 想定などするはずない。

 目の前にあたしがいるなんて。

 キリコならともかく、あたしが入れ替わり体質になってしまうとか、とばっちりもいいところだ。


 驚いたとはいえ、あたしはこれが二度目だ。

 入れ替わりがはじめての相手はものすごくびっくりしているはずだった。

 なのに――目の前にいる音無花音は髪をかき上げ、こちらの姿を認めると、「あっ、ごめんなさいっ」といって飛びのいた。

 こちらの姿を見て動揺する様子はない。

 相手の目の前には自分の姿があるはずだけど、入れ替わったのではないのだろうか。


 まさかの、分裂? あたしがふたりに? そんなバカな。


 痛む体を気遣いながら上半身を起こすと自分の足が見えた。黒いズボンをはいている。上半身を見ればうちの学校の制服である学ランを着ている。

 ――えぇ。男子になっちゃったの?


 そのときだ。「おい!」と怒鳴り声が降りかかってきた。

「危ねぇだろうが!」

 車の助手席に乗った男が窓を全開にし、身を乗り出すように怒りをあらわにしていた。

 なにもそんなに大人げないことをいわなくても……と、思っていると、すかさず音無花音が「そっちも気をつけなさいよ!」と、すごみをきかせる。


「ちょ、ちょっと……」

 ヤバくないか。あたしはその威勢の良さにひるんでしまった。

 でも、周りにいた歩行者や、学校の駐車場にたまたまいた先生が集まってきて、相手も分が悪いと思ったのか、それとも運転手の方は冷静だったのか、走り去ってしまった。


 双葉たちも駆け寄ってきて音無花音に群がった。

「大丈夫なの?」

「最近ケガしすぎじゃない?」

 入れ替わりを知らない双葉と友梨奈はちょっとあきれたようにいう。

「平気だよ。車に突っ込んでいったのはさすがにヤバかったけど」

 音無花音はなんということもないようにおどけながら、二人に支えられて立ち上がった。


「ヤバいじゃないでしょ」

 やってきた先生が注意する。

「いきなり飛び出したのはあなたの方だし、あんな言い方して逆ギレされたら大変よ」

「すみません……」

 しおらしく音無花音は頭を下げた。

「そもそも、夕凪くんが助けてくれたから何事もなかったんだし」


 先生はあたしの腕を取ると「大丈夫?」といいながら引き上げた。ひょいっと、簡単に体が持ち上がる。

 ということは――この体は夕凪風太なのか。


 立ち上がると集まっていた人たちを頭一つ上から見下ろした。

 180センチはあろうかという高身長。痩せ気味の体はひょろひょろっていうか、ナヨナヨ。

 今は女子みたいなベリーショートだが、いっときは侍のようなポニーテールにしていたこともある。

 ぶっ飛んでいるところもあるが、目立つこともない。孤独を愛するといったら聞こえがいいが、たしか、あまり友達はいなかったはず。


 なんであたしは夕凪になってしまったんだ。

 入れ替わった音無花音もあたしらくないというか……そうよ、あたしらしくはない。さすがのあたしもあそこまで気が強くない。

 だからといって、平穏な夕凪の性格ともちょっと違うようにもかんじる。


「ふたりとも、なんともない?」

 先生がたずねる。

「はいっ」

 間髪おかず音無花音は元気に答えた。

 ケガはないようだ。それはきっと、意外にも男らしく夕凪が守ってくれたおかげでもあるのだろう。


 夕凪風太の体になったあたしはというと、泣きたくなるほど体中が痛い。

 筋肉も脂肪もなくてクッション性がないものだから、ひじもひざも、肩甲骨も尾てい骨も、出っ張った骨という骨が痛くて、手の甲もすりむいていたが、夕凪とはいえ一応男子なので「なんともないです」とやせ我慢した。


「ありがとね、ナギ」

 音無花音はあたしに向かってそういうが、あたしは夕凪をナギとは呼んでいない。そう呼んでいる女子もいるけど、ただ席が隣というだけで、夕凪のことをなにも知らない。


「……気をつけろよ、マジで」

 と、夕凪のふりしていってはみたものの、やはり、しっくりこない。


「なんか、ナギおかしくない?」

 友梨奈が微笑交じりに指摘すると、双葉は「花音の前だからじゃない?」と応じ、「そっかそっか、男気あるところ見せないとね」と、ふたりはへんな方向にはやしたてる。

「もう、ちょっとやめてよ。帰るよ」

 音無花音はふたりをなだめた。


「じゃあ、今度こそ本当に気をつけて」

 先生に送り出されて4人は帰って行った。

 冗談じゃない。このまま帰してなるものか。

 あたしはひっそりあとをつけて、音無花音がひとりになるときを待った。

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