貧乏大学生の恋事情は②最後の夜に六回を記録

綿串天兵

苦肉の策が大当たりしてさ

 もう早いもので七月。窓の外からザーっという音が聞こえる。雨だ。それもかなり強い。


 菜可乃なかのはまだ寝ている。寝息が可愛い。俺は朝飯を作るためにベッドからそっと起き上がった。まあ、色々あったが、結局、セミダブルのベッドで毎晩一緒に寝ている。


 菜可乃なかののおかげでEDは完治、ほぼ毎晩、『ピーセックス』をしている。『ピーピーコンドーム』の着け方もうまくなったし、菜可乃なかのも気持ちいいみたいだ。

 まずは洗濯機のスイッチをオン。


「さてっと、とりあえず飯は……うん、もう炊けてる。あとは味噌汁とだし巻き卵でも作るか」


 幸いなことに、俺も菜可乃なかのも同じ味噌のエリアなので、その点については問題は無かった。

 ただ、俺のお袋は台湾出身なためか、味噌を複数ブレンドするのを好む。そのため、俺も混ぜて使っている。


 これは菜可乃なかのにも好評だ。今日の味噌汁はレタスと豆腐、それに油揚げにしよう。


 まずはだし巻き卵。面倒なので顆粒のだし風味調味料をちょっとお湯で溶いて、卵を三つ。

 これを、先日、ちょっと離れたショッピングセンターで購入した卵焼き用の小さなフライパンで焼く。


 焼けてきたら卵を巻いてフライパンの端に寄せ、そこへ溶いた卵を追加、寄せた卵を少し持ち上げて下にも流し込む。

 そして焼けてきたら手前に転がすように巻いて――の繰り返し。


二海ふたみ、上手すぎるよ、参ったな、もう」

「慣れだよ」


 リビングから菜可乃なかのの声が聞こえた。


「今日のお味噌汁、なに?」

「レタス」

「え、レタスをお味噌汁に入れるの?」

「これが美味いんだ」


 俺は菜可乃なかのと一緒にご飯と味噌汁、だし巻き卵をリビングに運んだ。


「じゃあ、頂きます。あ、ホントだ、レタス、予想外」

「だろ?」

「これなら、レタスひと玉買っても痛む前に消費できるわ」


 菜可乃なかのは本当に美味しそうに味噌汁を飲んだ。


「ね、二海ふたみ

「なに?」

「ライブ、もうすぐだね。お店、スマホで探してみたけど、とてもおしゃれな感じだよ」


 菜可乃なかのはスマホでホームページを見せてくれた。


「お客さん来るの?」

「いや、基本、身内だけみたいだ。OBとか来るかもって」

「そう、私、行っても大丈夫かな」

「大歓迎って言ってた」

「楽しみ」


 俺はいつものように食器を片付け、洗濯物を干し始めた。雨なので、全部、室内干し。

 こんなこともあろうかと、買っておいた突っ張る棒をバスルームに取り付けた。これで洗濯物をぶら下げることができる。


 菜可乃なかの、そういえば最近、あまり抱きしめてくれない。俺のことがなにか気に入らないのか、それとも、もう倦怠期けんたいきなのか?

 昨夜も風呂は別々だった。することはしたが。


 リビングに戻ると、菜可乃なかのは大学に行く準備をしていた。


二海ふたみさ、髪、切らないの?」

「ああ。散髪代、もったいないし」

「私、切ってあげようか」

「いや、いい」

「そう」


 なんだ? この違和感。前は、髪の毛が長くてかっこよかった的なことを言っていたような気がする。

 菜可乃なかの、少し震えている。俺が菜可乃なかのを後ろから抱きしめると、菜可乃なかのは俺の腕に手を添えた。


「ごめんね」

「大丈夫か?」

「うん。でも、もう少しこうしてて」

「大丈夫、まだ時間はある」


二海ふたみってさ、いつも長袖だよね」

「これしか持っていないから」

「半袖は着ないの?」


 どうしようか、正直に話そうか……いや、ここは正直に話すべきだ。今、菜可乃なかのとは微妙に関係が良くない気がする。


「左の袖をめくってみて」

「うん、どうしたの?」

「二つ目の秘密」


 菜可乃なかのは、ゆっくりと袖をめくった。


「なに? この傷跡、模様みたい。自分で付けたの?」

「そう」

「どうして?」

「高校の時、彼女っぽい女子がいてさ、その子、がんの手術を受けたんだ。立ち会ったわけじゃないんだけど、難しい手術で」


「それで?」

「なんか、手術がうまくいきますようにって、願掛けみたいにカッターで切り始めてさ」

「なんとなく気持ち、わかるよ」


「途中から芸術的意欲が湧いてきて、こんな紋章みたいな傷痕になったんだ」

「変なの」

「まあ、切ったのとは関係ないとは思うが、手術は無事成功したけど」

「そっか。それ以上は訊かない方がいいのかな」


 でも、まだ生きているのかわからないから、怖くて電話をかけることができない。


「まあ。で、傷を隠すためにいつも長袖を着ている。黒歴史みたいなもんだ」

「そんなこと無いよ」


 この話を人にするのは初めてだ。親も知らないし友だちも知らない。菜可乃なかのは俺の腕をギュっと掴んだ。


二海ふたみ、たくさん話してくれてありがとう」

「なにが?」


「以前、大会で見た二海ふたみって、ニコニコ笑っていっぱい喋ってたのに、私とは全然じゃん。実は嫌われているんじゃないかって不安だったんだ」

「悪かった」


 確かに、あれから半年ほどして俺は無口になった。


「少しだけ安心した」

「少しだけ?」

「うん、少しだけ」

「どうしたらいい?」


 どうしたらいいんだろう。


 俺たちは雨の中を歩いて大学に行った。そして一日の講義が終わると、いつものように空手道部の終わりを待って武道場へ。雨はもう上がっている。


清水きよみずくんじゃないか」

「高塚さん」

菜可乃なかのとはうまく行っているのかい?」

「なんとなく変なんです」


「そうか。ひとつ、いいことを教えよう」

「なんでしょうか?」


 高塚さんがニコっと笑った。


菜可乃なかのの誕生日は、七月十五日、再来週の木曜日。何かプレゼントをしてみたらどうだろうか?」

「わかりました。でも……」

「何をプレゼントしたらいいのかわからないんだろう?」

「はい」


 女の子にプレゼントをしたことがない。全くないわけではないが、小学生の時だ。


「私にアイデアがある。耳を」

「はい……あ、高塚さん、ダメですよ」

「いいじゃないか、匂いを嗅ぐぐらい。アイデア代だ」

「ありがとうございます。ショッピングモールでこっそり買ってきます」

「ああ。あそこならあると思う」



  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 ジャズ研のメンバー、それに菜可乃なかの、その他友人と思われる人たちと一緒に路線バスに乗った。アズルアロックは、終点である大きな駅の近くにあるらしい。


 アズルアロックは、バスを降りてゾロゾロと五分ほど歩いたところにあるビルの地下一階にあった。


「そういえば、二海ふたみって、お酒飲んだことあるの?」

「ある」

「それって犯罪じゃないの?」


 菜可乃なかのがニヤっと笑いながら俺を見た。


「台湾は十八歳から飲めるんだ。大学受験が終わった時にお袋の実家に帰省して」

「へえ、そうなんだ。どうだった?」

「ビールは旨くなかった」


 ポケットの中にあるスマホが震えた。メールかと思ったが、震え続けている。取り出してみると、知らない番号だが、市外局番から考えて怪しい電話ではなさそうだ。


 俺は一旦、店の外に行き、電話に出た。


「わかりました」


 店のドアを開け、先輩に事情を話し、楽器はそのまま店に預かってもらう事にした。


菜可乃なかの、悪い、俺、急用ができて、今から病院に行かなくちゃいけない」

「そうなの? まだ演奏していないのに」

「すまん、じゃあ」


 菜可乃なかのが俺の手を掴んだ。顔を見ると、口元の左側が、なんていうかちょっと硬い感じ。


「ねえ、二海ふたみ、どうして一緒に行こうとか言ってくれないの?」

「いや、じゃあ、一緒に行こうか」

「うん」


 しまった、ミスったか。また菜可乃なかのの機嫌が悪くなる。


 二人で駅前に戻ると、タクシーを拾った。今日は木曜日、幸い、タクシーは客を待っていてすぐに乗ることができた。


二海ふたみ、何があったの?」

「輸血支援だよ」

「どういうこと?」

「俺、血液型、AB型ボンベイなんだ」


「珍しいの?」

「一万人にひとりぐらい」

「でも、二海ふたみが行かなくたって」

「いや、実際に献血できる体力がある人数は限られている。それに……」


「何か気になることがあるの?」

「普通は献血センターに呼ばれるんだ。でも病院ということは、よっぽどの緊急事態」

「そっか。参っちゃうな、もう。二海ふたみはヒーローの要素、ありすぎだよ」


 菜可乃なかのの表情が暗い。外は薄暗いが、それでもわかるぐらい。前髪で目元は見えないが、口元でわかる。少し、歯ぎしりをしているようにも見える。


 病院に到着し、夜間窓口で事情を話したらすぐに担当らしき看護師がやってきた。


「お連れ様はここでお待ちください」


 血液提供者のプライバシー保護のため、菜可乃なかのは奥まで行けない。俺自身、誰のために献血するのかもわからない。


 一時間ほどで窓口まで戻ると、菜可乃なかのは玄関の方を見ていた。スマホでもいじっていればいいのに。


「お待たせ」


 やっぱり何も言わない。菜可乃なかのは黙って立ち上がった。俺は、タクシーチケットをもらい、菜可乃なかのの手を引いて外に出た。


「大丈夫か?」

「聴きたかった」


 訊きたかったと聴きたかった、どっちだろう?


二海ふたみの演奏、聴きたかった」

「でも、しょうがないじゃないか」

「わかるよ、わかる。だけど……さ」


 良いことをしたはずなのに、気分はかなり悪い。菜可乃なかの、ここ最近、ずっと変だし、今はさらに変だ。結局、今日は菜可乃なかのの希望で寝袋を出した。

 寝袋で寝たのは菜可乃なかののほうだが。


 菜可乃なかのの背中が震えている。寝袋は羽毛で薄いから余計にわかる。抱きしめようとしたが拒まれた。俺たち、三か月で終わってしまうんだろうか?



  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 翌日、菜可乃なかのと一緒にアズルアロックに楽器を取りに行った。俺が楽器を取りに行く話をしたら、菜可乃なかのが俺の腕を掴んだからだ。

 そのまま手を握って引っ張ると、「さも当然」とばかりについてきた。


 バスでは一番後ろの席に二人並んで座ったが、終始無言だ。菜可乃なかのの気持ちがよくわからない。昨日と同じ道を通ってアズルアロックに向かった。


 地下一階へ続く階段を歩く音、結構、響くな。よく見ると、床だけでなく壁も大理石っぽい。


「お、君、昨日の学生さんだね。名前は?」

清水きよみずと言います」

「そちらは彼女さん?」

「はい」


 菜可乃なかのはペコリとお辞儀をした。


「今日、ライブ予定無いから、よかったら一曲、披露してあげなよ。彼女さん、楽しみにしていたんだろう?」


 菜可乃なかのが顔を上げた。


二海ふたみ、演奏して」


 しゃ、喋った。ようやく喋った。ここはなんでも言うことを聞くしかない。


「あの、楽器はどこにありますか?」

「店を出ると右に倉庫があって、そこに置いてあるよ」

「わかりました」


 リードを咥えながらそそくさとテナーサックスを組み立て始めたものの、しかし、どうしよう? ひとりだし……。


菜可乃なかの、ジャズじゃなくてもいいか?」

「うん、二海ふたみの好きな曲」


 あの曲ならソロで吹いても様になる。実はフラジオが苦手で高いGの音が出せないから、一音、下げて耳コピした曲だが。


 最初は穏やかに、優しく問いかけるように、そしてコーラスが進むごとに激しくフェイク、最後は自己中なアドリブ。こういうところがすごく好きなんだ。


 演奏が終わると、菜可乃なかのとマスター、そしてひとりだけ居たお客さんが拍手をしてくれた。


「ファトー・バルビエリの曲かな。清水きよみずくん、マニアックだね」

「やっぱり、マニアックですよね」


 マスターに声を掛けられた俺は、苦笑いをしたんだと思う。


二海ふたみ、ありがとう、感動した」

菜可乃なかの、これ、一日遅れたけど、誕生日プレゼント」


 俺はサックスケースからリボンのついた小さな袋を取り出し、菜可乃なかのに渡した。


「開けていいの?」

「いいよ」


 ガサガサっと、ちょっと乱暴に袋を開けると、菜可乃なかのが泣き出した。


「ご、ごめん、気に入らなかったか?」

「ルビーのペンダント、うれしいよ。つけてくれるかな」

「君、やるね」


 店内にいたお客さんが話しかけてきた。


「七月の誕生石はルビー、そして、さっきの曲はファトー・バルビエリの『ルビー、ルビー』に収録されているルビー、おしゃれ過ぎて、オジサンまで泣いちゃうよ」

二海ふたみ、そうなの?」


「あ、いや、曲名は忘れていて、まあ、偶然」


 菜可乃なかのは俺に抱き着き、声をあげて泣き始めた。

 あの、二人っきりじゃないんだから……曲名を忘れていたのは本当のこと。俺は曲名を覚えるのが苦手だから。


 さっきのお客さんと目が合った。


「おごるからさ、好きなもの頼みなよ。食べ物でも飲み物でもなんでも」

「すいません、ご迷惑かけてしまって」

「いやいや、素敵なシーンに出会えて最高の気分だ。さあ、頼んで」


 菜可乃なかのは落ち着いたようで、一緒にメニューを眺め始めた。


菜可乃なかのの好きなカルボナーラもあるぞ」

「いい、他のにする。二海ふたみのカルボナーラがいいから」


 女心はよくわからないが、どうやらこれからもこの関係を続けることができそうだ。でも、菜可乃なかのには、なにか地雷がある。なんだろう?




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あとがき

数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。


本編のように、楽器を置いて出て行ってしまう場合、普通は他の部員が部室まで持ち帰りますが、まあ、話の展開的におもしろいので、ライブハウスで預かってもらっているという設定にしました。


「ファトー・バルビエリ」(人名はいじっていますが)の「ルビー」、とてもいい曲なので、ぜひ聞いてみてください。


この方は、ジャズから始まって、ラテン系の音楽をやっていた方です。



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