第8話 幸福な夢
夕食後、サラはアルブレヒトの部屋の前にいた。
ここに来るのは久しぶりだ。
「よし……さっと渡すだけ、さっと渡すだけ。」
この部屋の前に立つと、何故か毎回緊張してしまうが、今回こそは目的を果たすと決めた。
意を決しノックをする。
「ア、アルブレヒト君、居るかな?サラです。」
扉の向こうから返事はなく、静寂が流れる。
もしかして居ないのかもと思い始めたとき、ガチャリと扉が開いた。
「……何か用ですか。」
いつも通りむすっとしたアルブレヒトが出てきた。
先程まで着ていた制服から、開襟の白シャツに着替えている。いつもより首元が露出していて、サラは見てはいけないものを見てしまった気分になった。
だが、アルブレヒトから不機嫌オーラを感じ取ったので、慌てて手に持っていたものを差し出した。
「これ!私が高等学院にいた時の過去問題。先生が変わってなかったら、多分似たような問題が出るはずだから。それとこれはポイントをまとめたノートなんだけど、良かったら参考にして。」
「……」
サラは自分の机の引き出しにこれまでの試験用紙を保管していた。場所をとるし誰に見せる訳でもないから、処分してもいいかなと思っていたが、取っておいて良かった。
それに加えて、昔の教科書を引っ張り出して要点をまとめたノートもつくった。
「アルブレヒト君が私より優秀なのは重々承知だし、必要ないかもしれないけど、ちょっとでも試験が楽になればと思って。何かわからないところがあればいつでも聞いてね。じゃあこれで」
目的を達成し安心して去ろうとしたサラだったが、その場から動けなかった。
振り返ると、アルブレヒトに腕を掴まれていた。
「ど、どうかした?」
「いえ……その、教えて欲しいところが」
「!ほんと?」
分からないところがあれば聞いてとは言ったが、社交辞令のつもりだったので本当に聞いてくるとは思っていなかった。アルブレヒトでもわからないことを自分がこたえられるか、サラは焦り始めた。
「……魔術学のキュイス配列について」
魔術学はいちばん得意な科目だったので、サラは胸を撫で下ろした。
キュイス配列なら教えられる。
「最初の理解が難しいよね。じゃあ、談話室でやる?」
こうして思いがけずアルブレヒトと勉強会をすることになった。
「お隣失礼します……。」
談話室のソファに肩を並べて座る。
「試験に出てくるのはこの基本形だけなんだけど、後々のこと考えたら変化形も覚えておくといいかも。大学校の講義で再登場するから。」
裏紙に書き付けながら解説する。
アルブレヒトは大人しくそれを聞き、そしてすぐに問題をスラスラと解き始めた。
「すごい、全部あってるよ!じゃあこの問題は解ける?」
自分の部屋から持ってきた高等学院時代の参考書の問題を解かせてみると、これも淀みない手つきで解答していく。
字まで美しいなんて、いったいどこまでこの貴公子は完璧なんだろうか。
流れるような字は、彼の気質を表しているようだ。
問題を解く過程を見ても、基礎をしっかりと理解して解いていることが分かった。
「さすが、もう何も言うことないよ。今度の試験は完璧だね!」
さっきまで分からないと言っていたのが嘘のようだ。
「他に分からないところはある?」
「……ありません。僕はもう少しここで勉強していきます。その……教えてくれてありがとうございました。」
「!」
予想外に礼を言われて内心動揺した。
「いえいえ。また何か聞きたいことがあったら言ってね。」
ただのお節介が役に立って安心した。
談話室から出たサラは、ふと思い至って給湯室に向かい、お湯を沸かして紅茶を淹れると再び談話室に戻った。
アルブレヒトは先ほどと変わらない姿勢で参考書を開いていた。
「アルブレヒト君、お茶どうぞ。」
高等学院生だった時、父がこうして勉強中に温かいお茶を淹れてくれて、一息つけたことを思い出したのだ。
「ありがとうございます。」
「それと、もしよかったら私もここで本読んでてもいいかな。」
「……ここは共有スペースでしょう。かまいません。」
「そっか!ありがとう!」
1人で試験勉強するのはどこか心細い。
いらない気遣いかもしれないが、分からない所があれば教えてあげられると思った。
サラはテーブルを挟んでアルブレヒトの向かい側に腰掛けると、音を立てないように本を読み始めた。
鉛筆が紙を叩く音や、ぺらりと本がめくれる音だけが響く静かな空間だったが、不思議と気まずさは感じなかった。
アルブレヒトと出会ってからいちばん穏やかな時間が流れている。
彼が自分を頼ってくれたことが、サラは嬉しかった。
完璧超人な彼も、高等学院生だった頃の自分と同じところで行き詰まっていて、同じ人間なんだと思えた。
必要以上に壁を作っていたのは自分の方だったかもしれない。
自分にしてあげられることは少ないが、忙しいアルブレヒトのことを自分のやり方で助けてあげたい。
少しぬるくなった紅茶をすすりながら、サラは何か新しい関係が始まることを予感した。
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「う、ん……?」
気づけば体がふわふわと浮いていた。
ここはどこだったか、自分は今まで何をしていたか、考えようとするが、心地の良い睡魔に誘われて瞼が持ち上がらない。
やっぱり図書館での徹夜が響いているのかもしれない。
次にサラの意識が浮上したのはベッドの上だった。
体に馴染んだ自分の部屋の匂いに交じって、別の香りがする。
とても安心する匂いだ。だが、どこかに離れて行ってしまいそうな気配がする。
とっさに手を伸ばして掴んだ。
「っ……」
誰かの息遣いが聞こえた。
どうにか重たい瞼を持ち上げようとするが、接着剤でくっついているみたいに開けられなかった。
そうしているうちに、手に掴んだものが戻ってきてくれた。
サラの体が一瞬ベッドに沈み込む。
「……ん?」
なんだか口元にふわふわと温かいものが当たっている。
心地が良くて、自分からもふにふにと唇を押し付けた。
小さい頃大好きだった猫のぬいぐるみを思い出した。
もふもふとした手触りが大好きだった。
一番のお気に入りだったが、母が亡くなったときに、母が寂しくならないように棺に一緒に入れた。
その猫のぬいぐるみが、自分に会いに来てくれたと思った。
「お母さん……」
自分のものではない誰かの手が、自分の目元をなぞっている。
その時初めて、サラは自分が泣いていることに気づいた。
そして口元に温かみと柔らかさがまた戻ってきたが、先ほどと違って口の中まで深く侵入してくる。
「っふ、んぅ」
少し強引だが優しくて、不思議と不快感は無かった。
口の中に温かいものが流れ込み、それを当然のようにサラは飲み下した。
しばらくそうしていて、自分の境目がどこなのか分からなくなってきた頃、それは離れていった。
サラはまたとろとろと睡魔に身を任せ始め、離れていく存在を今度は引き留めることは無かった。
こんなに満たされた気分になったのはいつぶりだろうか。
泣きたい気持ちはもうどこかへ行っていた。
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「うーーーん、よく寝た!」
翌日、サラは未だかつてないほど爽快な朝を迎えていた。
ベッドの上で大きな伸びをすると、いつもは重たい頭がこれでもかというくらいにすっきりする。
今なら何でもできる気がした。
そういえば何か懐かしいような切ないような夢を見た気がする。
昨夜は何をしていたか、サラは記憶をめぐらせた。
「確か談話室でアルブレヒト君に勉強を教えて、それから……」
思い出そうとしたが、
「どうやって部屋まで戻ってきたんだっけ?」
首をかしげながら着替えて、くせ毛を慣れた手つきでまとめていく。
部屋を出ると、ちょうど階段を降りようとしているアルブレヒトと出くわした。
「おはよう、アルブレヒト君。」
「おはようございます。」
この時間に朝食以外で会うのは初めてで、もしかしたら挨拶を返してくれないかと思ったが、むすっとした顔で応えてくれた。
ついでに昨日のことも聞いてみることにした。
「そういえば、昨日の夜、私自分で部屋に戻ってたかな?なんだかよく覚えてなくて。」
「……自分で立って、ふらふらと部屋に戻っていきました。」
「あ、やっぱりそうだったんだ。すごいね、人間って寝ながら歩けたんだ……。」
「はぁ……。」
「な、なんかごめん。」
アルブレヒトが盛大にため息をついたので、自分の能天気さを反省したサラだった。
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