再改稿【ファムータル ~エルベットの残り雪~】
副島桜姫
ファムータルの章 1,禁忌
ファムータルの章 1,禁忌
嬉しい――というのは、不謹慎だろう。
兄が邸に居るのは、苦労して成功させた大規模作戦の後始末があるからだ。今もきっと事後処理に追われているに違いない。
それでも少年は嬉しかった。
忙しい兄の時間を取ってしまうのは気が引けるが、兄の顔を見て会話ができる。いつも少年が目覚める前には邸を出て遅くに帰ってくる兄と、だ。
幸い今日は曇りだ。陽の光も気にしなくていい。
兄がつけてくれた護衛の騎士が付き添う中、軽い足取りで、兄のために焼いたマフィンを詰めた籠を持って兄の邸に向かう。この菓子があれば差し入れの名目で兄と絶対に会える。
――と。
鳥の翼の音と共に、走ってくる音が聞こえる。
見遣れば、数名の衛生兵が担架を抱えて走っていた。鳥の口からは兄の声がする。
「急げ! 俺も今行く!」
少年に気付いていない衛生兵も鳥も、必死の顔で兄の邸に向かう。と、内側から邸の扉が開き兄が顔を出す。後ろに医者が控えていた。
担架を回収し直ぐに、慌ただしく扉は閉まる。
少年は――持っていた籠を取り落とした。
マフィンが芝生の上にばらばらと転がる。
だが、少年にそれを気に留めた様子はない。
「今の
籠もマフィンも回収することなく、照れたように頬を紅潮させて少年は自分の邸に駆け戻った。
◆◇◆◇◆
「ご気分はいかがですか?」
侍女はうっすら瞳を開いた彼女に語り掛ける。
反応は――ない。
傷の酷さを見れば仕方ないことかと思いながら、耳は聞こえているだろうと言葉を続ける。
「ここは王宮の
言いながら吸い飲みに入った水を彼女の口元へ持っていく。
ただの水ではない。前国王が魔力を込めた治療用の水だ。
一口、二口と飲ませると、彼女の視点の焦点が合ってくる。
もう一人、同僚の侍女がここに居たが、彼女が目を覚ましたことを主である丁鳩に伝える為に執務室に向かっている。
「……お名前は?」
奴隷ならば無い場合も多いが、一応聞いてみる。
「……わから……ない……」
やはりか、と侍女は心の中で嘆息する。
だが、次の言葉は侍女の予想外だった。
「なにも……おもいだ……せな……い……」
「何も?」
何もとは、どういうことだろうか。
今まで自分がどこで何をしてきたか、どういう仕打ちを受けて来たか――そういうこと全てだろうか。
ややあって、合点がいった。
あまりに過酷な目に遭い、心を守るために全て消してしまったのだと。
しかし、これは主の判断を仰いで応対しなければならないと判断し、彼女の身体の状態を見ながら主を待つ。
ややあって、入るぞーという声の後に扉が開く。
褐色の肌に長い金の髪、いかにも偉丈夫という顔立ちの整った青年が顔を出す。
彼の色の濃紺の石が嵌められた額飾りはエルベットの王族冠だが、現在は魔国王太子として動いている。
この丁鳩邸の主、
「……記憶を全て置いてきてしまったようです」
簡潔にそう言うと、
「ま、そうでもしなきゃ壊れちまうよな……」
丁鳩は髪を掻き揚げようとし、手に万年筆を持ったままだと気が付いて横の侍女に万年筆を渡して頭を搔く。
「そのほうがいいさ。
思い出そうとしたら、お前ら、止めてやってくれ」
一命は取り留めたものの、彼女にはもう時間はない。せめて最後は幸せに、安らかに過ごさせようという判断だと、暗黙のうちにあった。
丁鳩は寝台の彼女の傍に行くと、
「身体、動かねぇか?」
「……は……い……」
「分かった。楽にしてろ。
もう心配要らねえから、お前は安心していい。
ここの二人、暫く置いとくから……話して気を紛らわせろ」
と、体力の限界なのか彼女の瞳がまた閉じかけている。
その、白くなってしまった髪に手を置いて、
「よしよし、寝てろ。
明日は――来るから」
嘘だ。
いつ息を引き取ってもおかしくない。
しかし、それを彼女に言ったところで、何になるだろう。
せめて安らかな最後を――と、ボロボロの肌を撫で、立ち去ろうとした時。
「失礼いたします」
兵士がやってきて敬礼する。
「ファムータル殿下がお越しです。差し入れをと仰っていますが……」
「俺の部屋に入れといてくれ。まだ手が離せねぇ」
ここ最近の慣れたやり取りのはずが、兵士が言葉を濁す。
「それが……彼女に、差し入れをと……」
その視線は、寝台で横たわる彼女に向けられている。
「……は?……」
赤い双眸を見開き、数秒考えた後、
「俺の執務室に入れてくれ。じっくり話す」
◆◇◆◇◆
「……ライ。真面目に訊くぞ。
どういうことだ?」
いつもの甘えたさいっぱいの顔ではなく、緊張した面持ちの弟に尋ねる。
手には手作りのお菓子がぎっしり詰まった籠を下げている。
「兄様。僕にチャンスをください」
真っ白い弟の顔で、赤い瞳は真剣に兄を見詰め、赤い唇は引き締められていた。
【彼女をください】と言わなかったことは内心褒めながら、
「お前ら……知り合いか?」
手元の資料に零れがないか確かめる。
「いえ、昨日……ここに運ばれてくる彼女を見て……それで、……ひとめ、で……」
もごもごと言葉を濁す弟。
その顔は紅潮し、恥じらっている。
兄は、無言で資料を弟の前に突き出した。
【用途……人間または獣用の食肉。卵巣を焼いて永久避妊を試みたところ、下腹部全体が焦げて他に用途なし】
そう書かれている場所を指差しながら。
弟は菓子の籠を落とし、赤い目を見開いて、ひどい、ひどいと繰り返しながら資料を繰る。
「多分、二日持てばいいほうだ。
……お前、見送るか?」
いつまでたっても男としての成長が見られない弟に訪れた初恋。
だが――相手が悪すぎたと丁鳩は心中で嘆息する。
資料を涙でぐしゃぐしゃにして弟が出した結論は――
「連れて……帰らせてください……」
「分かった。安らかに逝けるようにしてやれ」
落とされて形が壊れた菓子の入った籠を置きっぱなしで、弟は彼女の居る部屋に向かっていった。
◆◇◆◇◆
「もう暗いから、ティーズは見えないね……」
少年は両手で抱えて帰りたかったのだが、如何せん、第二性徴も来ていないどころか年の割に幼く華奢な彼では、人ひとり安全に運ぶこともできず、兄が手配してくれた衛生兵に担架で運んでもらっている。
「……そうだ!」
魔力で明かりを灯し、
「見える? これがティーズ。
エルベット・ティーズって言うんだ。僕と母様のお花。
摘んで来たいけど……ここのは摘んじゃダメなんだ。あとで、僕が魔力で咲かせたのを持ってくるよ」
白い石の嵌められた王族冠を額に、白い王族服と長い銀髪を風に靡かせ、白い花の話題を楽しそうに少年は言うが、担架の上の彼女の反応は虚ろだ。
――二日もてばいいほうだ。
そう言って、兄は、見送れと彼女を託してくれた。
だが――
――僕の命だって、いつまで続くか分からない。だったら……。
彼女に――ひとめで惹かれた彼女に託すのも、悪くない。
そうして花のことを一方的に話しながら、自分の邸に着く。
邸では、兄が梟を飛ばしていたのだろう。祖父が既に待っていた。
「
人の死など初めて目にするであろう孫の肩に、そっと手を置く。
「いい機会だ。知りなさい」
少年は、頷く。
だが――兄も祖父も、少年が胸に秘めた想いなど、知る由もなかった。
◆◇◆◇◆
いつもうるさい……というか、怖くて逆らえない侍女長も、今回は事態を察して二人きりにしてくれた。
「ねえ……僕は、長く生きられないんだ」
調度品を置く場所があれば、彼が花を置いてしまうので、花だらけの邸の、花に満ちた寝室。
担架から自分の寝台に移してもらっても、彼女は聞こえているのかすら分からない。それでも少年は言葉を一方的に紡ぐ。
「遺伝病でね……長く生きられないんだって。
ほとんどが、三歳になる前に死んだって聞いてる。
僕も、いつ死ぬか分からない」
そっと、彼女のボロボロの頬を撫で、
「だから――僕の命、君がもらって。
君なら――いや、君だから、もらって」
一目惚れというものは、こんなに誰かを強く思うのか。そう実感しながら、頬に当てた手から、彼女に魔力を移し始める。
「――ライ!!
何やってんだ!!」
やはり、すぐに兄は察して駆けつけてきた。
しかし――もう、目的は果たしている。
彼女には、生きる力が戻った。
「ライ……」
沈痛な面持ちで、兄は頭を振り、
「意味、分かってるだろうな?」
「はい、『封印』されて消されてもいいです」
惑いなく弟が言い放った言葉に、
「いつ死ぬか分からねぇから、命をやったっていうのか?」
「はい。彼女は、きっと、僕の分まで生きてくれます」
言って、彼女の耳元で、
「長生きしてね……」
囁き、
「兄様、あとはお願いします」
「…………」
この弟は、どれだけ残酷なことを自分に言っているか、分かっているのだろうか?
だが――こうなった以上、やることは決まっている。
一緒に来ていた騎士に彼女を保護させ、寝台に一人残った弟に、
目に見える枷を付けるほうが、まだマシだ。
兄の気持ちなど分かっていない弟は、そのまま横向きに寝転がって動かなくなる。額飾り――弟の王族冠が、皮肉な輝きを放っている。
遺伝病特有の、ヴェールのような銀糸の髪の隙間から、色素が全くない肌が覗く。
「……ここまで、自分の命が軽いと思ってたとはな……」
その悲痛な呟きは、果たして弟に届くのか。
意識のない弟の銀色の前髪を撫で、祖父に連絡を入れてその場を後にした。
――エリシア邸。
かつて、
◆◇◆◇◆
――『遺書』。
度々、弟から手渡されるものだ。
弟が『生死』という概念を理解したとき、同時に、自分がいつ死ぬか分からないということも理解した。
エルベット王家の遺伝病――。
エルベットは王族の魔力が要になっており、王族同士の近親婚で魔力を保全していた。
血が近いものが交われば、当然、しわ寄せはある。
結果、弟のような、銀糸の髪に赤い瞳、赤い唇、色素の全くない王子王女が産まれた。
魔力の保護なしに陽に当たれば肌が焼け爛れ死に至る。それでなくても、寿命もはっきりとした時期は断言できないが、短い。
遺伝病の王族の多くは三歳までに命を落としている。その中で十三歳まで生きているのだから、本当に運がいい。
王族としても飛びぬけて高い魔力を持っていても、寿命が延びるわけではない。
故に、こうして――事あるごとに、自分の気持ちを綴っては渡してきた。
『遺書』などと、縁起でもないと押し返そうと思ったが、結局全て受け取っている。『お前さんが死ぬまで、ひとつも開封しないからな』そう言うのが彼には精一杯だった。
目の前にある遺書の山。
弟は、自分の運命を知った時、生きることを諦めたのだろうか。
そもそも、自殺などという選択肢がない王族が、『遺書』などと題した時点で気づくべきだった。
王族の魔力行使には、厳しい制約がある。勝手に魔力を使うなど――ましてや、死ぬ運命の人間を私情で助けるなど、禁忌に値し、もれなく『封印』される。
国益の為に生きる王族が道を誤れば、神殿の奥深くに孤独に『封印』され、ただ魔力を吸い上げられ続ける存在となる。
それを望むほど、追い込まれていた――。生きる希望がなかった。自殺という選択肢すら、なかった。
「……くそ……」
気づいてやれなかった。
愛されている自覚があれば、こんな馬鹿なことはしなかっただろう。
公務にかまけて、まともに会うことも少なかった。寂しい思いをさせた。
自分が邸に居ると分かったら、必ずお菓子を持って押しかけてきた。
「……どうして……」
『遺書』には、何と書いてあるのだろうか? 寂しい想いが綴られているのだろうか。
とはいえ、開封するのは今ではない。
既に、事は起こった。
弟の王族冠から魔力の変化は神殿に知れ渡っている。間もなく、神殿が裁きを決める。
それまでに、足掻こう。
後悔するなら、――できることを全てした後だ。
◆◇◆◇◆
「……ファムータル殿下」
侍女長がいつもの逆らえない声で圧してくる。
兄が張った封縛陣の中。目の前には、寝台用のテーブルに置かれた料理。
「お召し上がりください」
「…………」
食欲はない。それはいつものことだ。
いつもはそれでも入るだけ食べて、侍女長に小言をもらっていた。
彼は――そのまま横向きに寝転がる。
「ファムータル殿下!」
どの道、神殿が後は決めてくれる。
そうなれば、無理に食べる必要もない。
そういえば……
――できることなら、彼女にもう一度会って、元気な姿を見たい。
それを言うと、また侍女長が怒ると思い、そのまま寝転がっていた。
侍女のメリナが、変わらず花を絶やさないように世話してくれていたことは、彼の目には入っていなかった。
◆◇◆◇◆
「……こら、
心地よい声に目を開ける。
「……サティ
兄とそっくりな、ただ、目の色が赤ではなく青の、慣れ親しんだ顔。
笑顔を浮かべて起き上がったファムータルの頭を
「レヴィスが悲しんでるぞ?」
困った顔で言う。
兄を古い名で呼ぶのは、この義兄だけだ。
「……ごめんなさい……」
また、頭を撫でられる。
サティラートは、改めて辺りを見た。
いつもの花に囲まれた寝室に、異様な紋様が浮かんでいる。
寝台用のテーブルを持ってきて、ついさっき作ってもらったばかりの食事を並べる。
義弟は、すぐに憂鬱そうな顔になった。
「レヴィスも心配してる。お前さんの好物ばっかりにしてもらったから、食え」
とりあえず、コーンサラダをスプーンに移して目の前に持っていく。
「よーし、意地比べだ。食わねえと帰らねぇぞ、オレは」
長丁場になると思いつつ、譲る気はなかった。
◆◇◆◇◆
「……少しは食べたか……」
エリシア邸の侍女頭の報告を兵士から受け取り、安堵の息を漏らす。
二年をかけて成功させた、奴隷市掃討作戦。その前準備と事後処理で弟を放置した結果だ。
エルベットから魔国に来て、自分が魔国の王太子としての激務にかまけて、魔国の王族の最後の一人である弟は、害が及ばないようにするだけで、それで守った気になっていた。
義祖父が今、必死にエルベットの神殿に助命嘆願をしている。
エルベットの前国王という立場上、義祖父が言うのが一番効果があるが、そもそもそのような交渉はできないのが常識だ。引き延ばすことしかできないだろう。
それに、今更、生きるということに目覚めても、弟の運命は決まっている。
ならば、麻痺したままのほうがいいのではないか? そんな考えさえ出てくる。
堂々巡りの思考をやめようと、執務室を出る。
この丁鳩邸は、贅沢を嫌う彼の意思を反映し、無駄なものは置いていない。ただ強化のみを行った廊下を通り、一つの扉をノックする。
使用人にあてがっている部屋のひとつだ。
丁鳩邸の使用人は、魔国に根付いている、娼婦、男娼、奴隷などの被害者たちだ。丁鳩は彼らを一時保護し、洗脳の抜けきらない者たちをここで社会復帰できるよう勉強させ、然るべき場所に送り出していた。
つい最近――二日前に入った少女の部屋だ。
弟が魔力を使って助けた娘だ。勿論、彼女にその記憶はなく、そもそも記憶そのものがないので、奴隷市から保護して連れてきたと教えてある。
使用人の中には、瀕死の彼女に接した者もいるが、あまりの変わりように誰も気が付かないだろう。
白くなっていた髪は綺麗な赤毛になり、ボロボロだった肌は艶のある褐色。虚ろだった濁った瞳は、今は明るい翡翠色だ。
髪が伸びてしまったのでどうしようか悩んだが、本人が伸ばしたいというので長くしてある。
「丁鳩殿下!」
ノックをすると扉が開き、驚いた様子を見せる。
「ボビン、足りたか?」
「は、はい……」
織り台を見せてくれる。織り台は普通だが、ボビンは有り合わせのものが多種、混合で使われていた。
使用人には部屋と、趣味を嗜む程度の余裕は与えていると伝えると、彼女はボビンレースを織りたいと言ったのだ。記憶のない彼女に残っているのだから、よほど大事なものなのだろう。
魔国ではボビンレースは、貴族の娘が嗜むことがある。それを受けて、娼館では高級娼婦に教養として覚えさせることも珍しくない。
だが、彼女が必要としたボビンの数は、嗜む程度ではなく、種類構わず掻き集めてやっと足りたという感じだ。
織り台の織りかけのレースも、もはや教養の域ではない。
「どうなんだ? お前から見て」
かつて親に娼館に売られ、高級娼婦としての生活を強いられていたところを丁鳩が保護した使用人に聞いてみる。
彼女――ジュディは、
「糸の細さといい、技術といい、とても、娼館で教えるレベルではありません。プロの職人に教えを受けていたとしか……」
予想通りの答えに、疑問しか浮かばない。
レースメーカーなど、本職は魔国に居ない。奴隷として死ぬ寸前だった彼女は、どういう経緯で流れてきたのか……。
ジュディに、先輩として色々教えてやってくれと頼み、ボビンを何とかすると言い残して部屋を出た。
弟に会わせてやろうかとも思ったが――それで、弟に『生への未練』が今更芽生えれば、悲しい結末になる。
彼女は、他の保護した被害者同様に扱い、社会復帰させようと思っていた。
――とりあえず、名無しは困るな……。
彼女の記憶が戻れば、元々あった名前が出てくるかもしれない。簡単に勝手に名前を付けるのは軽率だ。
とりあえず、仮の名前だけでもなんとかしようかと思案していた。
◆◇◆◇◆
サティラートが帰って、しばらく経って当然やってきた夕食の時間。
侍女長は、どうしても食べさせようと、最後の一人を呼んだ。
「あ、先生!」
王太子が、魔国の呪いに対処するために置いた典医だ。この王子は、やたらと懐いていた。
「ファム様。駄目ですよ、食べないと」
「……ごめんなさい……」
素直に応じ、テーブルに出された料理も、魔国の医者と話しながら少しずつ食べている。
この王子は、兄が居なくてどうしようもない時は、この医者の研究室に入り浸っていた。
小太りな黒髪の中年と、どこにでも居そうな感じの男だが、なぜか王子は懐いたらしい。
王子のやったことを責めるわけでも咎めるわけでもなく、話を聞くに徹して感情を零させる様は、まさにプロだ。
「はい、それだけお召し上がりになれば充分でしょう。
こちらをどうぞ」
食事をもう摂らなくていいと言われたことより、特製の薬草茶を出してもらったことのほうが嬉しいのだろう。王子は笑顔でそれを飲み干した。
「いいですか? ファム様。今度から、お食事をなさったらお茶を差し上げます。
ちゃんと食べてくださいね」
「はい!」
封縛陣から出られない王子は、笑顔で魔国の医者を見送った。
医者は、食事のトレイを侍女長に見せて、食べた分を報告する。明らかに食べ残しが多い。
「ファム様は、もともと食が細くていらっしゃいますが……努力します」
結局、丁鳩もその結果を聞いて、食事のことは魔国の医者に任せることになった。
◆◇◆◇◆
三日目の朝。魔国の医者が食事を摂らせたと報告を受けてから、丁鳩は異父兄サティラートと共に、弟の寝室に向かった。
会うのはためらってきたが……向き合うことを避けては通れない。
侍女長に、自分が封縛陣を敷いた寝室に通され――
「――おい!」
弟に、一瞬で距離を詰めて、
「何の臭いだ?」
「……え……?」
意味の分かっていない弟は、兄の普段見せない怖い顔に怯えている。
「コイツ、何を口にした?」
侍女長に問うと、先ほど食べた朝食のメニューと、多すぎる食べ残しが出てくる。だが――これではない。
「他に何か口にしてないか?」
侍女長は考えを巡らせ――
「そういえば、お食事のご褒美にと、お茶を……。ファムータル殿下も喜ばれていました」
「どんな茶だ?」
「詳しくは存じません」
詰め寄る相手を変えた。
「その茶は何だ? いつも飲んでたのか?」
「待て、レヴィス。そんな聞き方すると怖がるだろ!」
異様な雰囲気の
「
「……先生……」
「いつも飲んでたのか?」
「はい……兄様がいなくて寂しい時はいつも、先生のところへ行って……先生だけが、このお茶をくれて……」
「つまり、俺が居ないときは、いつもそこへ行って飲んでたんだな?」
「は、はい……」
――成程。
弟に成長の兆しがないこと。
弟が、生死の感覚を麻痺させたこと。
「畜生……全部俺が判断を間違えたせいか……」
憂鬱に、深刻に呟き、
『お話し中申し訳ありません。火急の要件につき、割り込むことをお許しください。
自室で鳥を介して神官たちに交渉しているであろう祖父に、鳥の口を通じて言う。
「兄貴、ここは頼む!」
言って駆け出すのは、問題の魔国の典医の部屋だ。
「てめぇ……俺の弟になんてことしてくれた……」
魔国の呪われた魔力は、炎だ。無暗に振るえば証拠すら燃やしてしまう。
魔力を使わず、抜身の剣を医者に突きつけ、
「なんでライに手を出しやがった!!」
この医者を、呪いに詳しい医者と判断し、弟の典医にしたのは自分だ。完全に、自分のミスが招いた結果だ。
何故、弟に手を出したかは、部屋の異様さを見れば聞くまでもなかった。
魔力を使って隠していたものを無理やり引き出せば――『医者の役得』で得た、様々な
分かっていた。弟は、亡き
そこへ、「憎い王太子の弟」という「付加価値」が加われば、どうなるかは安易に想像できる。
だから、信頼できる環境でなければエリシア邸から出さなかった。エリシア邸に結界を張り、祖父に最終的な防衛を任せ、弟を守ったつもりでいた。
しかし――こんな大きな害虫を、自分から通してしまっていた。
毒を煽ろうとした医者を、生かしたまま拘束し、兵士を呼んで部屋の中のものを運び出させる。
それら全てが終わって戻ると、
妙な薬で精神的に操作され、取り返しのつかない状態に陥り、祖父の治療で正気に戻ったのだ。
「ライ……ごめんな……」
彼が加わると、弟は、必死に兄に縋り付き、泣き始める。
「悪かった……悪かった……」
あの時、魔国に連れてくるのではなかったと、心の底から悔いた。
この弟に何がしてやれるか、何をすれば償いになるか、分からなかった。
◆◇◆◇◆
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